日本の建国の時期は?【7】魏志倭人伝などから
『日本はいつ頃、建国されたのでしょうか?』
『いつ頃に建国されたのか?』という<時期>について理解を深めてきたく、いろいろな角度で考察をしていきます。
【中国の歴史書】
ここでは中国の歴史書を調べてみました。
『「漢書」地理志』
「弥生時代中期」(紀元前1世紀)に次のような記載がある。
「楽浪郡のさらに南の海に倭人が住んでいる。100余りの小国があり、楽浪郡に定期的に朝貢に来る。」
⇒紀元前1世紀の日本は100以上の小国が乱立していた。
『「後漢書」 東夷列傳』
建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され印綬が与えられた。
桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国で大乱があった。何年も主が居ない状態となった。
卑弥呼という名の一人の女子がいて、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。卑弥呼を共立し王にした。
⇒2世紀の後半に倭国で大乱があった。
『「魏志」倭人伝 :「三国志」魏書 東夷伝 倭人』
もともとは、男子を王として70 - 80年を経たが、倭国で長期間にわたる内乱が起きた(「倭国大乱」)。
そこで、卑弥呼と言う女子を王に共立することによってようやく混乱を鎮まった。卑弥呼は、鬼道を用いて衆を惑わした。年を取っており夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。
1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。
238年 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた
245年 倭の難升米に黃幢を賜い、郡に付して仮に授けた。
247年 卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が徇葬した。その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。
その後、再び卑弥呼の宗女である13歳の壹與を王に立て国は治まった。
⇒3世紀半ば、邪馬台国(所在不明)があり卑弥呼がいた。その後任として壹與を王に立てた。
これまでの年表にこれを足してみました。
<ここからの学び>
前回の銅鏡の記事で、北九州を中心とする「銅鏡文化」が3世紀中頃までに、大和地方へシフトしていきます。 卑弥呼の死は、まさにその時期と重なっています。
仮説
1.卑弥呼や壹與が「大和地方」にいて、「九州勢力」に攻められた
2.卑弥呼や壹與が「九州地方」にいて、「大和」へシフトした
3.それ以外
いくつかの仮説が立てられますが、魏志倭人伝には『「卑弥呼」は銅鏡「100枚」を下賜された』とあることから、「卑弥呼」は銅鏡文化の「九州勢力」だったと考えるのが妥当と思います。
つまり、親魏倭王となった卑弥呼や壹與はそもそも「九州地方」にいて、卑弥呼の死の前後に「大和」へシフトした。それにより「国家は統一された」というのが『日本の建国』の姿のように思います。