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【読書】死にたくなったら電話して

※本稿には、自殺を肯定、または薦める意図は一切ありません。

 猛毒を摂取することでしか得られない救済がある。
 読書の秋ということで、初めて小説のコラムを書こうと考えた。「死にたくなったら電話して」の冒頭はこうである。
 主人公徳山は、アルバイトと受験勉強の日々を送る浪人生三年目の青年だ。徳山はバイト先の先輩に連れられて行ったキャバクラで、ナンバーワン嬢の初美と出会う。初対面なのに徳山の顔を見て爆笑(理由不明)、興味のない話題には無言、かと思ったら高い会話力で他人の興味を引き寄せる初美。徳山はそんな初美と付き合う中で、彼女の膨大な知識量に裏付けられた悲観主義に触れ、その魅力と絶望に飲み込まれていく。徳山と初美、二人の生活はどこへ向かうのか。
 ざっくり話すと以上のような感じである。

『昔と比べて今はマシやから耐えなあかん、ってのは考えなくていいです。苦痛で悲惨なのは今も変わらないです。早く焼き殺されるか、長くじっくり炙られて殺されるかの、それだけの違いです』初美

 本作は広義にはファムファタール文学(悪女文学)に分類されるのだろうが、僕はそうは思わない。全編通して、初美が悪女に思えなかったからだ。確かに、常人では持ち得ない負の引力があるし筋金入りの悲観主義者というかニヒリスト的な女性であるのは違いない。けれど、浮気したり騙したりという描写は一切ないし、徳山には忠実なはずだ。破滅的な思想に飲まれるのも、徳山がほとんど抵抗していないのもあって、「これ徳山が望んでるならハッピーエンドやん」と考えた。元から初美は、徳山が捨てろと言えばなんでも捨てると言うくらい徳山至上主義であるし、後半の徳山は実質居候させてもらっているし、初美は受験勉強にも協力的と、正直めちゃくちゃ良い恋人ではないか。すみません、これは偏った感想です。
 言いかえれば初美は、稼ぐ能力も住んでいた家も、資本主義社会で暮らす能力を少しずつ徳山から奪っていったのかもしれないが、別に徳山は断る権利と力はあったわけで、望まずこうなったと言うならあまりにもロボット的すぎる。徳山は、初美との関係を断とうと思えばいつでも断てたはずだ。まあ、作中でも友人からの誘いすら断れないタイプであることは再三記されているが。
 ところで、徳山と初美に対して共感はあっても、不快感はない。ところが徳山を取り巻く人物は、どいつもこいつも不快であった。僕だけなのか? この記事を書いたら他の人の感想も見てみたい。本作でストレスだったのは、主人公たち二人でなく、徳山を取り巻く人物に他ならない。
 同棲している部屋に上がってきて(後輩に徳山を尾行させて特定)、許可も取らずに平気でタバコを吸う日浦。模試の結果用紙を勝手に手に取って見て、何も言わず戻すバイト仲間。嫌すぎる。予備校時代の先輩である菅野が、「初美ちゃんのションベン録音してきてえや」と言ったのと同じ口で「今度初美に会わせろ、あの女はお前にとりつく悪女やから、俺が一発言ったるわ」的なこと言い始めたときは、気持ち悪すぎてめまいがした。本作最もキモいシーンだろこれ。自分の恋人にこんなの言われたら殴るよ。一言目がまずアウトすぎる。
 ともかく本編後半、周りの男どもがあれこれ言ってくるわけである。例えば最初にキャバクラに誘い二人が出会うきっかけを作った日浦は、バイト先の先輩で、元々初美を気に入っていた。初美が徳山にのめり込んでからは不快そうにしているが、自分できっかけを作っておいてこういう未来を想定できない小さめの脳みそが意味不明すぎる。それで日浦は徳山に、ヒモになるんかとかなんとか言ってくるわけだが、全ての言動の根幹に「初美と徳山はラブラブすぎて割って入るのはもう無理だが、不快なのでとにかく引っ掻き回しておきたい」と言うのが透けて見えて、その矮小な考え方には心底軽蔑せざるを得ない。

『生きるって長生きするって、そうして塵が積もってゆくこと。そんで私は塵を金の粉と無理やり思い込むのは嫌やし、塵は塵って言っときたい。人生経験なんて塵でしかない』初美

 それで、本作は「死は救済ですよね」を地で行くわけだが、二人だけの閉じた世界で終末を迎えようとする姿には羨ましさすらある。僕心中物語ガチ勢だったのかもしれない。とはいえ、救いがないだとか、バッドエンドというのはなんだか違う。しっくりこない。別に徳山は失恋していないし、絶望もあまりしていなさそうだし、望んでいないことを無理やりやらされていることもない。結構幸せでは?
 ともかく徳山は、「圧倒的な負の吸引力をもつ魅力的な女性と出会い、惹きつけられ、離れられなくなり、最初は悲観主義と破滅思想を興味深く聞いていた程度だったが、やがて彼女の考えることこそ自分の考えていることだと思う(信じる)ようになってしまう」という心中ストーリーから脱出できなかったわけだ。
 そこでいわゆるハッピーエンド、幸せな物語として閉じるならどういう着地があったか考えてみた。設定から思い浮かぶのは、初美と出会う前の生活に戻る、である。そこには以前と同じアルバイトと受験勉強の生活、数少ない友達とたまの食事があった。ただ、僕なら戻りたくはない。バイト先には前述の日浦とその取り巻きがいるし、二人しかいない友達の片方は菅野で初美と付き合ってから下心と嫉妬がありありと見え、もう片方はマルチにハマっていて初美関係なく既に疎遠。ダメだこりゃ。冷静に考えて、スタートが終わり過ぎる。こんな生活に初美という刺激薬をぶち込まれたら、誰だって中毒になるだろ。書いていて思ったが、多分、キャバクラに行かないと女性にチヤホヤしてもらえないようなおっさんの気持ちは、僕は一生分からないんだろうな。友人カップルを羨ましいだとか、ましてや嫉妬したことなんかなく、かなり前に流行った「リア充爆発しろ」も共感も発音もすることなくブームが過ぎた。
 すると初美と終焉を待つ以外の第三の選択肢として、初美の「人類は野蛮で滅んだほうがいい」「人の本質は悪」「人生は無駄。長ければ長いほど損」みたいな悲観主義を踏襲した上で(ちょっと正論すぎて反論できない。論理的にこれ反論できるのだろうか?)、なんらかの希望を生に見出したり、見出せなくても無理やり意味を付けて生きていく、ということなのだろう。無理ゲー。

 けれど、僕たち読者は考えなくてはならない。本作は、「そんなに生きるの嫌ですか、辛いですか。ほな行くとこまで行きましょ」と背中と押してくれる一方で、小説である以上一つの結末を迎える。そして僕たちは翌日くらいまでは読後感に浸ることができるが、徳山や初美と違って現実が待っているのだ。
「私たちはここまで。それで、あなたはどないします?」と聞かれていると感じるのは、僕がポエミーな気分に浸っているだけだろうか。

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