シェアハウス・ロック(or日録)2501中旬投稿分
なんちゃって料理の達人0111
前々回にご登場のオオイシさんは、なんちゃって料理の達人である。同店でのなんちゃって感の最高峰は、焼き鳥や焼きトンを頼むと付いてくるキャベツのブツ切りに添えられた辛子味噌。私は、日本の味噌(仙台風の赤味噌)に豆板醤を若干足し、さらになんかを+αしたものと睨んでいるが、この+αがまだ解明できていない。
オオイシさんの次席のなんちゃっては、なにかを頼んだときに付いてくるマヨネーズにチューブのワサビを混ぜたものである。
ここでなんちゃって料理を説明すると、テキトーな材料をテキトーに使い、テキトーにつくった料理のことである。テキトーであって、「適当」でないことにご注意いただきたい。一時期は、「なんちゃってカレーうどん」とか、「なんちゃって野菜スープ」とか、「なんちゃって」が一世を風靡したものである。
昔々、純喫茶などというところで「ナポリタン」と頼むと出てきたスパゲティ様のものなど、なんちゃって料理の横綱格であった。いまの若い人は、あれを知るまい。アルデンテなどと言っているうちは、まだまだ甘い。だいたいからして、純喫茶なるところをすらそもそも知るまい。いまとなっては、あれは昭和の歴史遺産のようなものである。浅草には、まだ細々とだが、あるぞ。浅草に行ったら、特に若い人など純喫茶を捜索し、ぜひ、なんちゃっての神髄に触れていただきたい。昭和を知るには、それが一番である。看板のメニューに「コーラ」ではなく、「コーラー」と書いてあるのが目印だ。
ブリヤ=サヴァランは、「君が食べているものを言ってみたまえ。君がどんな人だかあててあげよう」と言ったといわれているが、人に限らず、時代を知るにも食い物が早道なのである。とは言え、まずくとも責任はとらない。というか、あんまりうまくはないと思う。それが昭和である。若い人に言うが、昭和を十分に味わうように。でないと、平成も、令和もわからないぞ。
「【Live】文楽『曽根崎心中』1213」で、
マエダ(夫)はさすがにプロの酒飲みだけのことはあり、極上の居酒屋を、なんの苦もなく探し当てた。
と書いたが、その店でつまみに頼んだビーフシチュー(トーストしたプランスパンが付いてきて、それにつけて食べる)がいたく気に入り、家で再現したと言う。デミグラスソースに八丁味噌を混ぜるというのだが、そのバランスがなかなか難しいという。この人も、プロの酒飲みだけに留まらず、料理をつくるのが好きな人でもあるが、けっこうなんちゃって系の人でもあるようだ。
でも、レストランなどで出される料理は、客の期待値を満たすべく、常に同じ味である必要があるが、家庭でつくる料理は、いまある材料でつくるのが王道である。
以前、炒飯は基本賄い料理(なんちゃって料理に近接するもの)であると申し上げたことがあるが、たとえば、炒飯をつくろうとしたとき、飯が足らないので、缶詰のコーンで増量するときがある。このコーンを、キャベツの芯で代用してみようと、いま思っている。芯を除いてキャベツ炒めなどをつくったときに、捨てないでとっておくのである。たぶん、いけると思う。
なんちゃって料理などと呼び、なんだかバカにしているように聞こえたかもしれないが、なんちゃって料理が家庭料理の本質かもしれない。家庭料理と料理屋の料理は別物なのである。
シルバーパス考0112
1月9日の毎日新聞朝刊の1面に、「『シルバー優遇』現役不満」という記事が掲載された。札幌市で敬老パス(シルバーパス)の見直しの「素案」を巡って、受給世代と、それを負担する現役世代が対立したという記事である。
シルバーパスがないところもあるようなので、ここで若干の解説をすると、東京都のシルバーパスは、1,000円(市民税を払っていない人が対象)と2万円(市民税を払っている人が対象)の2通りあり、パスを手に入れると、都営交通の電車、バス(私営バス含む)に乗り放題というものだ。私は、せいぜい年間5万円程度しか使っていないと思う。
札幌市のそれは、1~2割の自己負担額に応じて1~7万程度を利用できるというスタイルであり、それを変更することにまつわる騒動である。
変更素案検討時、市の老人福祉費の予算は年間130億円程度で、その半額は特養老人ホームなどのハードの整備に充てられ、残りのうち62億円が敬老パスの関連費用になるという。
これを20歳以上の市民1人あたりに換算すると3,060円になり、これが4,000円に跳ね上がるのが「見直し」「素案」の原因だった。
62億円というのでちょっとビックリしたのだが、これは実情を反映していない数字なのではないかと思う。つまり、老人がどれだけいて、どれだけ利用するかを目の子で出して、さらに交通費の「定価」を掛けて算出した数字なのではないか。
東京都のシルバーパスでは構造的にそれは無理だが、札幌市のそれはチャージ方式だから、もっと精密に見て、細かな算出ができるはずである。
それに、市営交通機関を考えたときに、62億円は市から市に移るだけであって、それ自体は痛くも痒くもあるまい。もっとも、私営交通機関には、それなりに出費しなければならないだろうけど。
もっと精緻には、電車、バスなどではその筐体を動かすのにエネルギーの大部分は使われ、そこに老人が1人増えたからといって、追加エネルギーはいかほどでもあるまい。つまり、私は、「定価」で計算するのではなく、「原価」で計算してみたらどうかと言いたいのである。
それでなくては、議論もできまい。こんな雑な数値を前提にしたら、単に世代間対立をあおるだけだ。
いまの年金問題も、制度設計に問題があったわけである。私らの世代が優遇されていると若い世代は言うが、私が、自分が払い込んだ厚生年金で「元がとれる」のは、受給開始時、早めにもらうか遅くもらうかでシミュレーションしたときには、86歳くらいまで生きないと「元」はとれないことがわかった。もちろん概算である。でも、「これはとても『元』はとれない」と思った記憶はある。
ついでに言っておくと、国民年金を完納している人より、生活保護のほうが優遇されているという言い方をよく聞く。だからと言って生活保護費を下げろというのは間違いで、国民年金の給付金をあげろというのが正しい。それぞれが、自分をどうしてくれるんだとだけ言うべきだ。
このあたりの元凶は、「将来世代の負担が重くなる」という「教義」を広める財務省であり、この誤った「教義」に、皆さん乗せられている気がしてならない。『ザイム真理教』(森永卓郎)を是非お読みいただきたい。もしご興味がおありなら、とりあえず「『ザイム真理教』(森永卓郎)読了1016」をご参照されたい。「骨」はまとめたつもりである。
結論は、今回の札幌市の騒動は、ザイム真理教の市政版じゃないのかということである。
駅メロ0113
山の手線の高田馬場駅では、車両が発車するとき『鉄腕アトム』のテーマ曲(の一部を編曲したもの。以下同)が流れる。相当前からである。また、蒲田駅では『蒲田行進曲(キネマの天地)』が流れる。
蒲田駅は言うまでもないが、高田馬場駅は、虫プロだか手塚プロだかがあったからである。
こういった曲の呼び方にも、発車メロディとか、接近メロディとか、いろいろあるようだが、煩雑なので「駅メロ」にした。
恵比寿駅では、『第三の男』(アントン・カラス)が流れていた。これはヱビスビールのCМソングからの転用である。
ああ、これらは、いまも流れているのかどうかはわからない。以下も同様。
JR八王子駅では、『夕焼け小焼け』が流れる。作詞した中村雨紅が八王子市出身だからだ。八王子市では、夕方、この曲がラウドスピーカーから流れる。子どもたちに「カラスと一緒に帰りましょ」と言っているんだろうな。駅メロには使わないのかなと思っていたところ、ある日聞こえた。中央線・横浜線で流すようだ。
JR豊田駅では『たき火』。『たき火』じゃわからないかな。「垣根の垣根の曲がり角…」である。作詞した巽聖歌が駅の近隣の日野市旭が丘に住んでいたことによる。
ちょっと離れるが、東海道線・小田原駅では『お猿のかごや』。お猿の駕篭屋は「小田原提灯ぶらさげ」ているから、これは順当。木更津駅(内房線)では『証城寺の狸囃子』で、これも順当。
平塚駅(東海道線)、阿佐ケ谷駅(中央線)は『たなばたさま』。前者は、「日本三大七夕」に入っているし、後者は、「日本三大七夕」にシードしている。
三鷹駅(中央線)は『めだかの学校』。作曲した中田喜直が戦後しばらく三鷹市に住んでいたことによるとあるが、これは悪いけどちょっと無理筋だな。「しばらく」じゃだめだよ。
武蔵小金井駅(中央線)、駒込駅(山手線)は『さくらさくら』。後者は、
ソメイヨシノ発祥の地に近いので妥当だが、前者はさくらの名所というだけで、ちょっと無茶。
地下鉄・銀座線に乗り換えると、浅草駅『花』、上野駅『さくら(独唱)』。これは(独唱)と資料にあったので、森山直太朗かね。ほんとかね。神田駅『お祭りマンボ』、三越前駅/日本橋駅『お江戸日本橋』、銀座駅『銀座カンカン娘』。このあたりは文句なしだし、どことなくシリーズっぽくてよろしい。
JR新宿駅は、『新宿育ち』『雨の新宿』『新宿ブルース』『新宿の女』といくらでもあるのに、駅メロはないようだ。歌謡曲だからダメなのかねと思っていたら、上野駅では『あゝ上野駅』(井沢八郎)が、2016年11月1日から16・17番線で使用されているという。16・17番線は東北本線なんだろうね。
こういうのは最近のことなのかと思っていたら、1951年(昭和26年)に旧国鉄の豊肥本線豊後竹田駅で列車の発車時に『荒城の月』を流していたという記録が残っているそうだ。レコードを使用していたという。さぞ手間がかかっただろう。
駅メロはまだまだいっぱいあるが、きりがないし、そもそも、ベルよりは殺風景じゃないといった程度のものなので、このへんで。
冬なのに『サマータイム』0114
前回は、音楽のようで音楽でないという「べんべん」状態だったので、フラストレーションが溜まってしまった。よって、好きな音楽の話で、それを解消することにする。「べんべん」は、関西の寄席でやる大喜利芸である。でも、たいした話ではないので、無視してくださいな。
さて、『サマータイム』である。
まずはそれのおおもと、オペラ『ポギーとベス』の前史から。『ポギーとベス』の第一幕第一場で、『サマータイム』は歌われる。
エドワード・デュボーズ・ヘイワードの小説『ポーギー』を読んだジョージ・ガーシュウィンは、兄のアイラ、作者のヘイワードとともにオペラ化しようとした。実際に制作にとりかかったのは、1926年に原作と出会ってから8年後である。その間、ヘイワードは、妻のドロシーの協力で、1927年に舞台化している。
さて、『ポギーとベス』の主要曲は以下。
・サマータイム Summertime
・うちの人は逝ってしまった My Man's Gone Now
・くたびれもうけ I Got Plenty o' Nuttin'
・ベス、お前は俺のもの Bess, You Is My Woman Now
・そんなことはどうでもいいさ It Ain't Necessarily So
・アイ・ラブ・ユー、ポーギー I Loves You, Porgy
・おお主よ、出発します O Lawd, I'm On My Way
これらの全容を知りたいのであれば、ルイ・アームストロングとエラ・フィッツジェラルドのアルバム『ポギーとベス』(1957年)が最適である。
なお、日本語では、『ポギーとベス』『ポーギーとベス』と二通りある。英語だと『Porgy and Bess』。
私は、『I Loves You, Porgy』をビリー・ホリディとニーナ・シモンで聴いているが、カタカナで書くとふたりとも「ポゥギー」と歌っている。「ポギー」と「ポーギー」では、どちらかと言えば「ポギー」が近い。英語だと、日本語みたいに一音節分は伸びない。
ニーナ・シモンで聞くと、なんだかこちらが厳しく問い詰められているような気分になってしまう。それに対して、ビリー・ホリディはずっと優しいが、問い詰められ感はこっちのほうがキツい。あんまり厳しく問い詰められると、私は「なに言ってやんでえ」と反発傾向になるので、その分楽である。なにを言い出したんだ、私は。
『ポギーとベス』から6曲を抜粋して、ヤッシャ・ハイフェッツがヴァイオリン独奏用に編曲したという。ハイフェッツは、ガーシュウィンと親交があったらしい。当然本人も弾いてるんだろう。これは一度は聞いてみたいな。
なお、 Nuttin'、You Is、 I Loves、Lawdは、私が書き間違えたわけではない。黒人英語の感じを出そうとして、こう綴ったのだろう。それぞれ、Nothing、You are、I Love、Lordが「正しい」英語である。Necessarilyも文法的にはおかしい。Ain'tはいまでも使うし、白人も使う。
「正しい」とカッコを付けたのは、言語に「正しい」も「間違い」もないと、私は思っているからだ。文部省さえなければ、「正しい」も「間違い」もない。言ったもん勝ち、使ったもん勝ちが、言語の原則である。
ああ、余談だが、ビリー・ホリディもニーナ・シモンも、ちゃんと「I Love You, Porgy」と歌っているので、ご安心いただきたい。「正しい」も「間違い」もないとは言ったものの、「I Loves」では、なんとなくお尻の座りが悪い。
『サマータイム』まで行けなかったな。冬だしな。
それぞれの夏の日~『サマータイム』0115
『ポギーとベス』は1935年9月、ボストンのコロニアル劇場で初演された。ビリー・ホリディが『サマータイム』を歌ったのは1936年だから、当時としては相当に早い。
ビリー・ホリディの『サマータイム』を、私は江戸川区小岩のディスカウントショップで、300円で買った。2枚組で39曲入っているバチモンであるが、いまでも大事にしている。
ビリー・ホリディの初期の録音ばっかりなので、私はこのCDを、勝手に、「アーリー・イヤーズ」と呼んでいる。バチモンなんで、『ビリー・ホリディ』としかタイトルがないからである。
サム・クックも、『サマータイム』を歌っている。当初は『sings Billy Holiday』に入っていたのだが、いまはベスト盤にも入っている。
エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングが歌う『サマータイム』が収められているのは『Porgy and Bess』。このアルバムには、前回お知らせした7曲中、5曲が収録されている。
ジャニス・ジョプリンの『サマータイム』は、白眉である。アル中だかヘロイン中毒だか、両方なんだかわからないが、そんな状態でぐちゃぐちゃになっていても、子どもを愛しているという母親像が見えて来て、これが、究極の愛だとすら思わせてくれる。母親というのはそういうものであると、私は信じているのである。ジャニス・ジョプリンの『サマータイム』は、どんな人にも、一度は聴いてほしい。
ジャニス・ジョプリンに対して、それ以前の歌唱による母親像は、貧しくとも勤勉な母親たちである。こっちの母親像のほうが一般性はあるだろう。
キャスリーン・バトルは『サマータイム』を、オリジナルに近く歌っている。まあ、当たり前だけど。収められているアルバムは『甘美なソプラノ・ヴォイスへの誘い』というなんともウジャジャケたタイトルだが、これはなかなかの名盤。セルゲイ・ラフマニノフの『ヴォカリーズ』(名唱!)も入っているクラシックのアルバムで、最後の3曲が黒人ネタ。『サマータイム』『Ain't got a good news』『Swing low, Sweet chariot』の3曲である。後2者は、ゴスペル。最後のは、なぜかサッカーでイングランドの応援歌になっている。味の素スタジオでイングランド戦があるときには、京王線の新宿駅がこの歌でうるせえったらない。
『サマータイム』は、いやんなっちゃうほどの名曲なので、歌としてはもっといろいろな人でも聞いているんだろうけど、あまり記憶には残っていない。ああ、ひとつだけ。テレビで一度だけ見たんだけど、尾崎紀世彦の『サマータイム』はなかなかよかった。
いい演奏は、枚挙にいとまがないほどある。
そのなかでも、マイルス・デイヴィス、ギル・エヴァンス・オーケストラによるアルバムはトップに来る。ジョン・コルトレーンは『in My Favarite Things』中でソプラノサックスで『サマータイム』を演っている。ズート・シムズ(テナーサックス)の『サマータイム』もなかなかだし、チェット・ベイカーは小粋と言っていいトランペットを聞かせてくれる。このあたりは、アルバム名をあまりおぼえていない。ああ、デューク・エリントンでもなんかあったなあ。アルバート・アイラーは、フリージャズの人だが、泣かせる『サマータイム』を聴かせてくれる。
忘れるところだった。オスカー・ピーターソンとジョー・パスの2枚組で『Porgy and Bess』をほぼ全曲演っているアルバムがある。これも名盤。あ、『エラ・イン・ベルリン』(エラ・フィッツジェラルド)にも『サマータイム』は入っている。入ってはいるが、私がジャズ喫茶で与太っていたころに何回も聴いた盤には入っていなかった記憶がある。『エラ・イン・ベルリン』はいやんなっちゃうほどの名盤だが、いろいろなバージョンがあるのだろう。
まだまだ名演、名唱はあるが、きりがないのでこの辺で。
『サマータイム』はなんと言っているのか0116
『サマータイム』の作曲者はジョージ・ガーシュウィンだが、作詞者に異同がある。調べてみると作詞アイラ・ガーシュウィンというのが多いが、作詞者にエドワード・ヘイワードとアイラ・ガーシュウィンと書かれたものもあり、はなはだしいものでは、ヘイワード作詞というものまである。
原作の小説(エドワード・ヘイワード)にそのシーンがあり、歌詞の一部もそれに載っており、それにアイラ・ガーシュウィンが補作をし、歌の形態に整えたと考えるのが妥当だろう。でも、本当のところ、真相はわからない。
さて、歌詞である。
Summertime
Summertime
And the livin' is easy
Fish are jumpin'
And the cotton is high
Oh, your daddy's rich
And your ma is good-lookin'
So hush, little baby
Don't you cry
One of these mornings
You're going to rise up singing
Then you'll spread your wings
And you'll take the sky
But 'til that morning
There's a'nothing can harm you
With daddy and mammy standing by
ほとんど中学英語なので訳など不要だろうけど、英語など一字一句も読むのはいやだという人もなかにはいるだろうから、翻訳してみた。本当のところは、私が、この歌をどうしても自分で翻訳してみたかったからである。
だが、ご覧のとおり、まったくうまくいっていない。でも、少しずつでも、私にもいい言葉が見つかり、少しずつでもいい訳に近づいていけることを信じたい。
babyを坊やにしてしまったり、いろいろ問題もある。また、Fish are jumpin' And the cotton is highを、「綿は高い」と訳してしまってはなんだかわからないだろうという問題もある。意味的には、「魚は飛び跳ね 採り放題 綿は実って 稼ぎ放題」なのだろうけど、そして、稼ぎ放題だから、「父さんは金持ち」なんだろうけど、そうすると、冗長になるし、詩にならない。でも、英語の歌詞では、そのあたりまで言っていると感じられる。
夏の間は
夏の間は 暮らしが楽だ
魚は飛び跳ね 綿は実る
おまえの父さんは金持ちで
母さんは美人だよ
だから 坊や おやすみ
泣かないで
ある朝 おまえは立ち上がり 歌い始める
そして翼を拡げ この空をおまえのものにする
でも その朝までは
誰にもおまえにひどいことをさせないよ
父さんも母さんもそばにいるからね
無謀にも歌詞の翻訳などをしたおかげで、詩の翻訳そのものがいかに無謀であるかがわかった。さらに翻訳で詩を読んで、わかった気になるのもいかに無謀なのかもわかった。
【Live】去年、今年の健康問題0117
昨日、おじさんは一日入院して、順調なら本日退院する。
遠因は、健康診断で潜血反応があったからである。普通、潜血反応があると大腸ポリープが疑われる。それを内視鏡で見て、チョンと切ればおしまいである。
実は、入院前に駅前クリニックで大腸の内視鏡検査を、おじさんは受けている。だが、どうも、おじさんは腸が長いらしく、内視鏡がポリープの部位まで届かなかったのである。ポリープがあることはわかった。ただ、遠くに見ただけであった。こんなことって、あるんだねえ。
隣の隣駅にある地域病院に回され、そこにある装置で再検査になったのである。ここの装置のほうが、ファイバーが長いんだろう。ポリープがきれいに取れればOKである。たったいま、おばさんに「本日退院」の連絡があった。
私は40代で大腸がんの手術を受けているので、いろいろとアドヴァイスができ、多少なりともお役に立てた。このあたりも、シェアハウスで暮らすメリットだろう。おじさんが独居老人だったら、けっこう悶々としたに違いない。
昨年、おじさんはCOPDで一週間入院している。ただ、酸素ボンベをつけるのはまぬがれたので、ラッキーだった。
この件に限らず、年寄りは一回性であり、年寄りのベテランなんていないわけだから、他の年寄りの話を聞くしかない。だけど、そういうチャンスはあまりない。私らみたいに「三人寄れば他生の縁」で、75歳×2、72歳×1で暮らしていれば、夕飯時に自然に情報交換もできる。シェアハウスに暮らすメリットのひとつだ。
おばさんは、一昨年こそ三回入院したものの昨年は入院なし。ただ、二日酔いの症状がちょっと変わり、吐き気、頭痛などのオーソドックスなものから、過呼吸っぽい、ちょっと風変わりなものになってきた。オーソドックスな時代は半日程度で解消したのだが、変格ものになってからは、回復に一日かかり、その日は夜の飲酒も控えるように変わってきた。老化のせいかもしれない。
私は変化なし。健康診断の数値も、すべてクリアである。
健康診断の数値は、おじさん、おばさんも、シェアハウス暮らしになってから向上している。これは、献立を考えるおばさんの功績だろう。
ところで、昨年の12月8日に、ウチダという後輩から10年ぶりくらいに電話があった。私の夢を見たという。それで、安否確認で電話をくれたようだ。その夢のなかの私は、廃ビルに近い建物に居住し(廃ビルは当たってないけど)、なんでも一癖も二癖もあるような人間が周囲にいて(これは当たり)、梁山泊のようだったそうだ(うーん、多少は当たりかな)。
14日に、彼の帰宅途上かつ私のところから便利のいい場所で会い、2時間ほど共通の友人、知人の話をし、帰ってきた。コイツは、大がひとつでは足らない大親友のタダオちゃんも知っているし、私の妹も知っているし(妹と同い年である)、共通の知り合いも多い。
前に電話したときには、奥さんの介護で手一杯だと言っていたので会えなかったのだが、奥さんはその電話の翌年に亡くなったという。ただ、娘さんお二人が近所に住んでおり、孫もひとりいて、娘さんが忙しいときには孫に食事の世話をしてやったりしているという。まあまあの老後と言える。
別れ際、
「死なないでくださいよ。もう、誰も残ってないんだから」
と言っていたが、ありがとう、大丈夫だよ。前述のように、健康診断レベルでは健康優良爺なんで、あと1年や2年は大丈夫。
【Live】阪神大震災から30年0118
阪神大震災から30年だという。
私の歴史の把握は、編年体ではなく、どうも紀伝体になっているようだ。紀伝体が一本の本流のようになっていて、それに枝葉が付くような仕掛けになっている感じがする。
だから、私の頭では、阪神大震災(1995年)の前年の12月27日あたりに大腸がんの手術をやり、3が日は家族のいる家に一時帰宅し、病院に戻り、退院して母の家に行ったとなっている。それからは、土日だけ家族のいる家に戻り、平日は母の家から仕事場に通った。このほうが、体が楽だったのである。
母は、私が所帯を持ち、妹が結婚して以来、一人暮らしだった。よって、暇なのか、さみしいのか、一日中テレビをつけていた。
朝食時のテレビで私は阪神大震災の発生を知り、出勤し、会社にはテレビがないので銀行に行く社員に、「どこかに掲示が出るはずなので、被害者数を見てきてくれ」と頼んだ。彼女の帰社時、それは4000名を超えていた。「これは6000を超えるなあ」と嘆息した記憶がある。
そして、その年の3月20日に地下鉄サリン事件が発生した。
以前、このあたりのことを書いて、その年を1997年としてしまったかもしれない。紀伝体なので、きちんと確かめないと、こういう間違いを犯す。
阪神大震災から30年なので、『毎日新聞』にも関連記事が出て、その記事は能登半島地震にも触れていた。
その記事のなかで、私が驚かされたのは、避難所の運営は国でもなく、都道府県でもなく、市町村だということだった。私は、国、都道府県、市町村がタスクフォースのようにして避難所の運営に当たっていると思っていたのである。丸投げかよ。市町村では予算も限られ、行き届かないのはあたりまえである。あたりまえと言ってはいけないけど、私の言い方なんかより以前に、制度に問題ありである。
しかも、能登半島地震から4日後に、馳浩知事は「民間のボランティア、個人的なですね、能登への通行をやめてください」と言っている。なにを言っているんだ、まったく。丸投げしておいて。
昔、阪神大震災時のボランティアの活動に対し、あるイベントで政府系の人が「ボランティアは組織されてないので、役に立たない」と言い放ったのを聞き、私は相当頭に血がのぼったのを憶えているが、もし「役に立たない」としたら、それは、ボランティアを適材適所に配置する仕組みがないからである。
毎日新聞1月17日の一面では、自治体と支援団体の間に立って調整する「災害中間支援組織」なるものが存在することを知った。だが、「全国災害ボランティア支援団体ネットーワーク」は、能登半島地震の災害対策本部の会議に出席させてもらえなかったという。
しかも、「災害中間支援組織」は石川県にはない。「災害中間支援組織」があるのは24都道府県に過ぎないという。ここにも制度の欠陥がある。
「『ちょっと違和感』0124(24)」は、毎日新聞に掲載されている松尾貴志さんの同名コラムの紹介だが、内容は岸田文雄、馳浩ご両所の緊張感に欠けた救援対応を時系列にそって書いていたものをまとめたものである。そのなかで、私は、
「私の頭に浮かんできた言葉は『棄民』である」
と書いたが、今回の記事の後半の感想もまったく同一である。まったく、なんという国なのか。
【Live】人生相談(立川談四楼)0119
前回に引き続き、同日の毎日新聞の記事ネタである。とは言っても、今回はとても呑気で、とてもいい話だ。
まず、相談のホネの部分。
子どものための古典落語、どこで聞けるかご紹介いただけませんか。ホンモノを聴かせてやりたいのです。
相談者の娘さんは現在小学4年生だが、幼稚園から古典落語(の絵本)にハマり、『寿限無』を学齢前におぼえたという。ところが、子ども向けのイベントは素人さんが語るものが多く、もの足りなさそうだというのがお母さんの悩みである。
談四楼さんの回答のホネの部分。
大人に交じって聴くのが一番いいように思います。通常の寄席やホール落語がそれにあたります。
これは、私もまったく同意見。私だったら、ただ単に「寄席に連れて行きなさい」と言うところである。立川流は、まだ寄席には「出禁」なのかしら。一時は間違いなく「出禁」だった。それで、「ホール落語」も加えたのかなと、私は邪推(笑)したわけである。談四楼さん、巧みに営業してるな(笑)。
子どもは、通常、大人が思うよりずっと利口であり、大人が考えているよりもずっと、いろんなことを知っている。かつて子どもだった私が言うんだから、これは間違いない。
次は、談四楼さんが噺家として演じているときの感想。これはちょっと笑える。
大人が微妙な表情をすることもあり、子どもには聞かせたくなかったのだなと察したりもします。
これを読んで、思い出したことがある。
母と、ラジオで、または寄席で落語を聴いていたときのことである。
落語には、前述の『寿限無』や『子ほめ』、『雛鍔』、『初天神』など、大人と子どもがともに楽しめる演目もあるが、『お直し』など廓(と言うよりも、もはやあれは女郎屋だな)を舞台にした噺もある。もちろん、廓が出てくる噺も多々ある。廓噺などというジャンルがあるくらいだ。
「そういう機微に触れる箇所」(笑)で、小学生の私は「ここで笑っちゃマズいな」などと、笑いをかみ殺した記憶がある。だって小学生が廓噺で、母親の前で笑っちゃあマズいでしょう。それを思い出したのだ。
談四楼さんは、「落語会には、いろいろなものがあり、傾向も違うので」としたうえで、
少しだけ調べる必要があります。そこは親の務めと考え、娘さんと相性のいい落語会に導いてください。娘さんはきっと情操豊かに育つでしょう。
と談四楼さんは言う。「情操豊か」も異議なしである。そして、
(子どもは)大人とともに楽しむことで、成長するのです。
と言っている。これはいい言葉だ。
私は、正直なところ、立川流というのはあまり好きではない。談志、志らくなどの方々の小癪な印象が災いしているのだろうと思う。でも、この回答で、ちょっとだけ立川流を見直した。
さあ、わからなくなってきました10120
30代に入ったばかりのころ、漫画の読解力が突然落ちた。『ビッグコミック』という雑誌があり、『オリジナル』とか『スペリオール』とか、つまり『ビッグコミック』の兄弟誌みたいなのが確か3種類くらいあり、それのどれかに掲載されていた『軽井沢シンドローム』という漫画がまったくわからなくなったのである。それに続いて、別の漫画もひとつ、またひとつとわからなくなっていき、とうとう漫画誌を買うのをやめた。わからないものを読んでもしかたない。
とは言え、作品の奥にある深遠な哲学がわからないとか、作者の真のメッセージがわからないといった高級な問題ではなく、ストーリーすらろくに追えなくなったという低級な問題である。
だから、それ以降に読んだ漫画は、「これなら、あなたにもわかるだろう」と言われ、友人、知人、長女などに勧められたものだけである。
いま考えれば、「接地」ができなくなったのだろうと思う。
「接地」は、認知科学者スティーブン・ハルナッドが提出した概念だ。ハルナッドはAIの「思考」を「記号から記号へ漂流するメリーゴーラウンド」のようなものだとし、経験や感覚に対応づけられていない=身体感覚に「接地していない」=状態にあるとした。つまり、AIは「意味」を理解していないということである。これはいまでもそうで、コンピュータは「記号」は扱えても、「意味」は扱えない。
『言語の本質』(今井むつみ/秋田喜美)は、子どもの言語獲得の過程を、オノマトペを材料に解明していく本と言ってよい。その際、「記号設置問題」が重要なファクターとなる。
ああ、「接地」の解説が長すぎた。
私の日常が、その時期、漫画などという非現実、フィクション、もしかしたらファンタジーに「接地」できなくなっていたのだろうと言いたかったのである。つまり、「私」が漫画に「接地」できなくなっていた。
あるいは、逆に「漫画の側」が私などには「接地」できないほど、遠くに行ってしまったとも考えられる。
つまり、問題は「私」にあったのか、「漫画の側」にあったのか。あるいは両方にあったのか。
前者であれば、私の「現在感覚への衰え」の問題になるし、後者であれば、これをきちんと考えていけば表現論になるだろうと思う。
あるいはあのあたり、つまり、1980年を越えたあたりで、「現在」そのものが大きく変化したものか。もしそうなのであれば、1980年を越えたあたりを深堀してみればおもしろいことがわかるのかもしれない。これはけっこうな作業量だと思うので、もしやるにしても今年一年かけたテーマになるかもしれないな。
そんなこと、やるのかね。自分のことであっても、よくわからない。