シェアハウス・ロック(or日録)0301
文楽で近代日本語を学ぶ
幕末から明治にかけて、日本語が大きく変わった。そのころにつくられた近代日本語によってである。これらの語彙は翻訳語、発明語、新造語、近代語などいろいろな呼ばれ方をするが、幕末、明治の蘭学者、洋学者等の先人たちが、オランダ語、英語、ドイツ語、フランス語などを翻訳しようと開発した日本語である。
彼らの奮闘によって、江戸時代までの言葉ではとうてい表現することが無理だった多くの事物、概念等々の対象を日本語で扱えるようになった。
このあたりは、バックナンバー「近代日本語に着目した理由0406(24)」から、「『翻訳語成立事情』0507(24)」にかけて、その当時、私が知っていたことを書いている。
さて、先週は、2月18日(火)、2月22日(土)と文楽を観に行った。言わば文楽週間。前者は素浄瑠璃で正確には文楽とは言わないが、演目は『奥州安達原』(袖萩祭文の段)。後者は本公演で『妹背山婦女庭訓』(猿沢池、鹿殺し、掛乞、万歳、芝六忠義の各段)である。今公演では第一部、第二部、第三部で全段をやるのだが、見に行ったのは第二部だった。
文楽、素浄瑠璃は素直な気持ちで鑑賞しているのであるが、それでも、たとえば、三味線で奏でられる音列がどういう構造になっているのかを解明したいとかいう思いがある。あれは、音楽の部分もあるにはあるが、西洋音楽から考えたら、ほとんどが音楽ではなくなってしまう。私が「ここは音楽だ」と思うのは、たぶん「引用」の部分である。もう10年以上見ているが、それ以外はほとんどがわからない。
これは、寄席の出囃子で笛がなにをやっているのかよくわからないというのと通底する。
同様に、二丁三味線で、「本手」じゃないほうが弾く音列も、私にはよくわからない。麻雀なんかでヘンなことを言って、攪乱させることを「三味線」というのは、そこからきているはずだ。
近代日本語に話を戻す。
もうひとつ、私が素直じゃないところは、浄瑠璃の言葉を聴くうちに、伝統語への感覚が鍛えられるのではないかと期待しているところである。つまり、(現代日本語)-(伝統語)=(近代日本語)が、浄瑠璃を聴いていくうちにわかってくるのではないかという期待だ。
文楽週間では2個発見した。
『奥州安達原』には「未来」という単語、『妹背山婦女庭訓』には、「証拠」という単語が出てきたのである。これらを私は、近代日本語だと思っていたので、ちょっと驚いたわけだ。どちらもメイン作者は近松半二(享保10年〈1725年〉 - 天明3年〈1783年〉)だから、この二単語はまごうことなく伝統語のはずである。
一方、週刊文春『竜馬がゆく』(2月27日号掲載)には、統制、法則、領土、経済(力)、政権、約束、孤独という単語が出ている。これらのうち、経済は間違いなく近代日本語である。まだなかったのだから、坂本龍馬に使えるはずがない。その他も、多少自信がないが、近代日本語のような気がする。比較的強くそう思うのは、政権、法則、統制であり、約束、孤独がそれに次ぐ。領土が一番自信がない。領国という言葉は聞いたことがあるが、それでも領土は聞いたことがない。だが、あったのかもしれない。
週刊文春『竜馬がゆく』は漫画であるが、原作は司馬遼太郎である。原作にもこんな言葉が出てくるんだろうか。