シェアハウス・ロック2311初旬投稿分
猫並みの知能1101
前回お話ししたカセットテープは、私が結婚して住んだアパートに、所帯道具の一部として持って行った。
長女が2歳くらいのころ、私が台所でなにやらやっていると、隣の3畳間から、長女の「キャーキャー」いう声と、笑い声が聞こえてきた。なにやらを切りのいいところまで終え、3畳間に行って見ると、カセットテープを引っ張りだして喜んでいる。
よく、猫がティッシュペーパーを一枚一枚引っ張りだして喜んでいるが、あれとまったく同じである。次から次へと出てくるんで、おもしろいんだろうなあ。まあ、猫程度の知能だからしかたない。しかたないが、そのテープは先述のピエール・フルニエのものだった。私は、怒るのをグッと我慢した。相手は猫並みだから、怒ったってわからないだろう。おびえるだけだ。私はけっこういい父親ではあったのである。
カセットテープを取り上げ、鉛筆で巻き戻す努力をしてみた。鉛筆は六角形なので、そういう状態になったカセットテープを巻き戻すのには最適な道具である。こんなノウハウをお伝えしても、もはやなんの役にも立たないな。老人の繰り言である。
巻き戻しても、テープはよじれによじれていて、もう聴くことができなくなっていた。
それから約10年後、私は大腸がんの手術を受け、その予後のため、月金は母親の家から会社に通うようになった。母親の家からは電車に乗っている時間は35分で済む。家族がいる家からは2時間かかった。当時の体調では、この差が大きかったのである。
母親はそれから急激に弱った。母親の世代では、がんは死病である。心配させすぎたんだろうなあ。それから、ほんのしばらくで、母親の準介護、介護に入った。
予後期間か、準介護期間か、介護期間かのどれかで、母親の家からそれほど離れてない古本屋のCDコーナーで、ピエール・フルニエの『無伴奏チェロ組曲』4番、2番、6番を見つけた。虎ノ門ホールのライブ盤である。TDKから出ていた。欣喜雀躍して買った。古本屋だったので100円だった。1番、5番、3番は八王子に移ってから、アマゾン・マーケットプレイスで手に入れた。
実は、この惨事の後、我がカセットテープは、もう一度長女の魔の手に落ちている。そっちはホーギー・カーマイケルの弾き語りである。この人は、私の年代の人間には『ララミー牧場』(TV番組)の作男みたいなお爺さんでおなじみである。ホーギー・カーマイケルは、作男になる前はバンドリーダーで、『georgia on my mind』『star dust』などはこの人の作品である。ジャズ喫茶で与太っているころ、ニーナ・シモンの『boltimore』というアルバムの中の『memphis in june』という曲が、どうもホーギー・カーマイケルらしいと思い、ジャケットを借りて読んだら当たっていて、ものすごく嬉しかった記憶がある。
こっちのほうは、いまだに手に入っていない。
天狗納豆1102
10月23日は、ひたちなか海浜公園に行ってきた。コキアを見に行ったのである。目的地とおばさんの骨折以外は『シェアハウス・ロック0728』と同様。同じメンバーで、同じくバス旅行だったし、なんと運転手さんも同じ人だった。こんなことって、あるんだねえ。おばさんは、運転手さんに「あの折はどうもお騒がせして」とか挨拶してたっけ。
例年だとコキアの紅葉にはちょっと遅めなのだが、今年はちょうど見ごろ。コキアは和名だとほうき草で、文字通り、枝を刈ってまとめてほうきにする。秋田名物のとんぶりは、この草の実である。
シェアハウスのメリットで言い忘れたが、こういうイべントを設定する人がいれば、そこそこバラエティに富んだ日常を送れることになる。よしんばシェアハウス内にはいなくても、シェアハウス内の誰かの友だちにこういう人がいれば、チャンスは巡ってくる。交友関係が何倍かにはなるからね。私のことで言えば、単独で暮らしていたら、バス旅行に行くことなどまずないと思う。
お土産をいろいろと買ったが、ハイライトは納豆である。納豆の本場だからね。
天狗納豆という銘柄で、藁苞納豆である。そのまま冷蔵、もしくは冷凍すればかなりもつ。かなりもつが、場所を食う。藁は捨てるだけだから、我がシェアハウスではタッパウェアに納豆部分だけを移し、その状態で保存する。
おばさんは、自分の手間には厳格だが、人の手間は意に介さない。そこで、この作業は私の担当になる。ずいぶんこの作業をやったので、 相当うまくなった。ショパンコンクールみたいな、納豆をタッパウェアに移すコンクールがあれば、たとえそれが世界大会であっても、私は連続優勝できるはずだ。
コツは、納豆の自重を計算に入れることである。まず二つ折りの藁苞を開き、納豆部分を下にする。そうすると、納豆が自分から「もう下に落ちたい」と言っているのがわかる。その意志を尊重し、その介添えをするというのが基本姿勢である。
そうせずに、人為を過剰に加えると、藁苞の間に納豆を追い込んでしまうことになる。こうなったら、納豆はなかなか出てくるものではない。
23日からの週の木曜日の午前中は、この作業で終わってしまった。
私が納豆と格闘しているあいだ、おばさんは、最寄り駅の隣の隣駅近くで午前中から麻雀をやっている。メンバーは、前に出てきた青ちゃんと、イノウエさんという人で、このお二人は独居老人である。だから、私は麻雀のある日は、独居老人に食い物の差し入れを持っていくことになっている。私設ウーバーイーツだな。その後、おばさん、青ちゃん、私と三人で雀荘のあるビルの一階の居酒屋で飲んで帰ってくることになる。イノウエさんはまったく飲まない人なのでここには不参加。
麻雀だとひとり足らないぞとお思いかもしれないが、こういう鉄火場気質の方たちには、四人麻雀などはかったるいそうだ。三人麻雀のほうが勝ち味が早くていいとおっしゃる。いずれ、カタギではないなあ。
長女が納豆を食べられるようになるまで1103
「私の前で、そんな臭いものを食べないでちょうだい」
と切り口上で言われてしまった。長女が小学校に入ったあたりのころだ。
しかたない。私は家で納豆を食べるのをあきらめた。ところが、家で食わなければ、なかなか納豆は食えないのである。そりゃあ、定食屋みたいなとこにはあるよ。ところが、そのころ私が仕事をしていたのは新宿の駅のすぐそばで、周辺には定食屋そのものがない。だから、5年間くらい、私は納豆が好きなのにもかかわらず、納豆なしの人生を送らざるをえなかった。
彼女が小学校の6年になったあたりで、藁苞納豆をいただいた。いくら長女に厳命されていても、いただきものを食べないと失礼になる。
で、藁苞納豆を食卓に出した。
「それは臭くない!」
と長女が言った。
「じゃあ、ちょっと食べてごらんよ」
と私は勧めた。
長女は、こわごわ、ご飯茶碗の上に数粒のせ、「じゃあ、実験クン」と言いながら食べた。「実験クン」ってなんだ。教科書か、教育雑誌かに載っていたキャラクターかなんかなんだろうか。
長女は、
「おいしい!」
と言い、本格的にのせ、もりもり食べた。
愚考するに、私たちはちゃんとつくった納豆を食べて育った。藁苞入りや、経木で三角に巻いたものなどをまず食べ、最終的に、発泡スチロールに入ったものを食べるようになった。
つまり、ちゃんとした納豆を知っているので、「まがい」のものでも、これは納豆だと記号的に認識し、この認識にごまかされているのではないのだろうか。彼女には、そういう認識は皆無だったから、冒頭のような発言に至ったのではないか。いま、彼女は発泡スチロール入りのものも平気で食べている。
本格的な納豆は、蒸した大豆を藁苞等に入れ、そのままほうっておくらしい。納豆菌すら植え付けることをしないようだ。
次回は、若干食い物の話を離れてしまうが、この話を。
照葉樹林文化1104
20歳あたりで、『照葉樹林文化』という本を読んだ。確か中公新書で、著者は上山春平だったと思う。おもしろい本だった。
この本の主張を大雑把にもほどがあるほど大雑把に言えば、ある時代に、どんぐりなどの照葉樹の実を食いつつ、かつ追分節(の原型)を歌いながら、チベットあたりから南下してきて日本列島にまで到達した人たちがいて、彼らが、少なくとも日本人の祖先の一部にはなったというものである。
追分節は、能登半島のあたりに上陸し、南下し、東遷し、最終的に青森県にまで達したと思われる。
納豆の話はいつ出るんだとお思いかもしれないが、心配することはない。すぐに出てくる。
古本市で、「照葉樹林文化その後」みたいな本を買った。『照葉樹林文化』以来照葉樹林文化とは疎遠だったので、50年後にはどうなっているのかと気になったからである。このシェアハウスに来てからのことだから、6年以上はさかのぼらない。
それによると、照葉樹林文化そのものの研究も当然進んでいるが、それよりも、照葉樹林文化帯という感じになっていて、その眼目のひとつが納豆であった。
あんなもの日本でしか食わないのではないかと私は思っていたが、どうもそうでもないらしい。と言っても、ああいったネバネバした状態で食うわけではないようで、あれを乾した状態にして食うらしい。記憶では、中国南部から、タイ、ラオス、ベトナムあたりまで、乾した納豆を食う地域があるらしい。
この本の著者のおひとりか、あるいは別の研究者の方か定かではないが、いずれこういった関係の研究者の人の文章を読んだことがある。その方によれば、蒸した大豆を葉っぱに包むと納豆ができあがる。特に納豆菌を植えることもせずに、である。その方くらいになると、葉っぱを見ただけで、「ああ、この葉っぱなら、いい納豆ができるとわかる」そうだ。
つまり、納豆菌は常在菌なのである。常在菌なら、煮炊きをするようになった縄文期であれば、納豆をつくることが可能である。というか、自然にできてしまう。縄文人が乾した納豆を食べているところを想像すると、なんだかほのぼのとする。
酒蔵見学に行くと、必ず、「今朝納豆を食べてきた方は、お申し出ください」と言われる。私ら周辺には、そういう不心得者はいないので、「食べてきました」と申告したらどうなるかはわからない。即刻退去かなあ。
ここから、納豆菌が強い菌でもあることもわかろうというものである。
【Live】11月3日の夕食1105
11月3日の夕食について書くことにするが、爺さん×2、婆さん×1が夕食になにを食おうが、興味のある人などいないと思う。でも、ここのところ『シェアハウス・ロック』は食い物シリーズになってきているし、その流れで、私の食い物に関する思想のごときものを説明しようと思う。とは言っても、私の食い物に関する思想なぞに興味を持つ人は私の知っている限り、この世に3人しかいない。
言い訳が終わったので、心置きなく書くことにする。
要は、10月23日のひたちなか海浜公園行の後始末である。道の駅ではなかったが、それっぽいところで冬瓜を売っていた。100円だったので、勇んで買った。小さいけど、丸まる一個だよ。姫冬瓜という種類である。
これで、冬瓜の肉味噌掛けをつくった。肉味噌は、中華っぽい感じにした。うまい! 絵に描いたような、自画自賛。これはなんだか、トートロジーっぽいな。
冷やっこには、10月23日に同行したケイコさんからいただいた紫蘇の実を煮たものをかけた。美味。これは、おばさんのアイデア。
それとポトフ。これは、以前つくって冷凍しておいた鶏ガラスープに、ズッキーニ、セロリ、ソーセージ、ベビーコーン、一口ニンジンを入れたものである。これも、成功。
ただ、こちらは当初おばさんが担当したものの、味が決まらず、私にSОSが来た。
そこで、不本意ではあるがごく少量鶏ガラスープの素を足し(これで若干甘みが出る)、塩を足し、隠し味にカイエンペッパーを入れ、味が定まった。秀逸。これも自画自賛。
このごろ、隠し味にカイエンペッパーを使うことにだいぶ慣れてきた。
ズッキーニ、セロリは、数日前、前述の紫蘇の実を煮たものを混ぜ、豚バラと炒め合わせたが、それの残りもの。その炒め物は失敗。紫蘇の実を煮たものの使い方がわからないので、使ってはみたもののほとんどその効果がなかった。あわてて、オイスターソース、ナンプラー、カイエンペッパーで胡麻化して、なんとか食べられるものになった。
100円の冬瓜は、まだ半分残っているので、また肉味噌掛けにしようと思う。次回はゆずと日本の味噌を使って和風にするという野心がある。
頭のところで、「私の食い物に関する思想のごときもの」などと大きく出たが、食い物に限らず、私にそもそもたいした思想などがあるはずもなく、要するに、中華風、東南アジア風が好きだということに過ぎない。今回は材料も使いかけのものがメインで、要するに始末料理である。まあ、根が貧乏人だから仕方ない。
でも、私は、こういう手づくり感あふれた食事が好きである。
チン焼き、蒸しチン1106
不良男子中学生のリンチのメニューのひとつのような表題だが、チンは電子レンジのチンであり、焼きはオーブントースターによるものだ。
話は変わってしまうが、不良中学生など、いまいるのだろうか。余計なお世話かもしれないが、いまどきの中学生諸君は、不良もできないくらい元気がないのではないかと、心配しているわけである。私には、不良少年のいる社会は、社会として健全であるというテーゼがある。
不良少年を糾合して、共産主義青年団のごときものをつくったり、ヒトラー・ユーゲントのようなものをつくる社会のほうが不健全だ。あいつらは、彼らを「矯正」したとうそぶくかもしれないが、素の不良少年のほうが数段ましである。私にはそう見える。
ああ、食い物の話だった。
私は、このチン焼きを主にカレーパンに施す。カレーパンと言っても、必ずしも某有名店の名品というわけでもない。ヤマザキのカレーパンでもチン焼きすれば、十分においしく食べられる。もちろん、某有名店のものなら、もっとおいしく食べられる。
このチン焼きは、他に大判焼きにも施す。これは、買ってすぐよりもかえってうまいくらいになる。大判焼きは、買ってすぐは皮の部分に水分が残り、けっこうふにゃふにゃである。その水分を飛ばした後にチン焼きすれば、皮はカリカリ、中はホクホクという状態になる。まだやったことはないが、ハンバーガーその他、おかずパンのごときものにもチン焼きは有効であるはずだ。
ちなみに、チン工程は30秒もあれば十分である。
一方、蒸しチンというものがある。これは、水を少し入れた容器に、ジャガイモ、ニンジン、玉ネギを入れ、数分間チンする。100均で蒸しチン器は売っているが、これはたぶん正式名称ではない。それどころか、蒸しチン自体、チン焼き同様、私の造語だと思う。でも、100均で探せば、いかにもこの用途用だと思えるものがあるはずである。容器のなかに格子状のものが入っており、容器と格子状の間に水を入れる。
蒸しチン処理をしたジャガイモ、ニンジン、玉ネギは、カレーに入れる。
我がシェアハウスでは、4回前にお話しした私設ウーバーイーツのために、寸胴鍋で大量にカレーをつくる。独居老人向けに配達するものには具を満載にする。私らもとりあえず具を満載にして食べる。すると、ルウ部分だけが残ることになる。これを小分けにし、冷凍して保存する。
食べるときに、解凍し、加熱し、蒸しチン処理をした野菜を入れるわけである。10分程度でカレーができる。
これは、時間がないときなどにけっこう重宝する。味も、それほど落ちない。是非一度お試しいただきたい。
【追記】
おばさんが11月1日に病院に行き、昼食用に食べようと思って買ったおかずパンが余ったのをくれた。翌朝、実験クンで、チン焼きして食べたがいまいち。おかず部分は、チーズとブロッコリーだった。おかずのせいかもしれない。だから、上記は若干の修正が必要になる。なかなか奥が深い。
カシミール・カレー1107
1970年ごろ、ボルツというカレーショップがあった。チェーンなのであちらこちらにあった。そこのウリは、n倍カレーというもので、nは、私の記憶では20まであった。当然、これは辛さの指標である。私は、6倍くらいまでは食べたことがある。それ以上は辛くてギブアップしたのかとお思いかもしれないが、そうではない。私は辛いのは相当程度まで平気である。インド人とも勝負ができる。
そうではなく、ボルツのカレーの基本設計が6倍くらいまでにしか耐えられないものなのである。ただ辛くすればいいというもんではない。辛くて、かつうまくなければダメだ。ボルツのn倍は、路線として破綻していたと言わざるをえない。
そんな話を当時友人としたら、その友人が、湯島のデリーという店に連れて行ってくれた。ここのカシミール・カレーは、その辛さにそぐう基本設計で、当然うまい。
焼酎バー「寛永」で、こういった辛さ、味の基本設計などの話をした。このところ頻出する青ちゃんとである。隣に、めずらしいことに、我がシェアハウスのおじさんもいた。青ちゃんも辛いもの好きである。「行こう」ということになった。おじさんも、「ぼくも行く」と言う。これもめずらしいことだった。
後日、カシミール・カレーを3人で食い、そこは禁煙なので、御徒町駅近くのコーヒー屋に入り、一服した。青ちゃんが、「どこかに飲みに行きませんか」というので、ここはひとつガード下だなと思い、アメ横の中田商店近くの文楽という店に移動した。
当時は、おじさん、おばさん、私は近所ではあったが別々に暮らしていた。別々に暮らしてはいたが、私はおばさんから、本日の行状を逐一報告するようにと厳命されてカレーを食いに来ていた。権力者はえてしてこういうもので、我々人民が横につながるのを本能的に嫌う。当然、文楽から報告した。はたして権力者は、文楽に監督に来た。
8人掛けのテーブルの端に、外国人のカップルがいた。おばさんは、彼らに、こっちに来いと手招きをした。外国人にもおばさんの威光は通じ、彼らは素直に我々のそばに来た。通訳は私である。
聞けば、彼らはニュージーランド人で、新婚旅行で世界一周の途上。これから中国、ロシアを経由して西へ西へと行くという。
おばさんは太っ腹で、「よし、これから日本蕎麦を食いに行こう。私がおごる。結婚記念と、初来日記念だ」と言う。
彼らはついてきたが、たぶん不安だったろうなあ。映画『ブレードランナー』みたいな世界に迷い込んだと思ったんじゃないか。
それでも、日本蕎麦をおいしそうに食っていたし、「この味は『うま味』なの?」などと聞いてきた。うま味は、もう芸者、フジヤマ、カラオケに続く世界語なのかもしれない。これは最近、新聞で読んだ。
彼らは、Peter、Augustといったが、Peterからは一度メールをもらった。ロシアからで、幸せそうな写真が添付されてきた。
あいつらは元気だろうか。ハネムーン・ベビーを産んでいたとしたら、いまごろは小学生である。
本当はカレーはスパイスからつくりたい1108
普段つくっているカレーにはルウを使う。ハウスジャワカレーの中辛というやつである。本当は、私はルウなど使わずに、玉ネギを炒め、スパイスを使い、本格的につくりたい。だが、おばさんが納得しない。泣く子と地頭とおばさんには勝てない。泣く泣くおばさんに従うが、腹いせに、スパイスを各種追加する。
かくして、私のつくるカレーは、「日本の農家に嫁いだインド人のお嫁さんが、姑と妥協に妥協のすえにつくるカレー」のごときものになる。
前回のカシミール・カレー行の感想は、辛いもの好きの青ちゃんからも、おじさんからも皆無だった。評価なし。推測するに、やっぱり「ルウ感」のないカレーは、納得できないのではないか。このあたりは、前にお話しした納豆に関する「記号的認識」と同じような気がする。つまり、ルウは、平均的日本人の舌にはカレーの「記号的」味であり、その記号がなければカレーの範疇にははいらないのだろう。だから、評価がなかった。
おじさん、おばさんがいないときには、ここぞとばかり、ルウを使わないカレーをつくる。
つくり方を以下に書く。
(1)玉ネギを炒める。キツネ色を通り越し、タヌキ色くらいになるまで炒める。トロトロになるまで炒める。
(2)ディルシーズ(スパイス)を加え、トマト、ショウガ、ニンニク(みじん切り)を加える。(1)は一貫して炒めている。
(3)他のスパイス(クミン、ターメリック、カイエンペッパー、コリアンダー、チリペッパーetc)を加える。
(4)とりあえず完成。
完成ではあるが、これだけではちょっとさびしいので、鶏肉、牛肉、豚肉、牛豚の挽肉などのひとつを軽く炒め、混ぜることが多い。サバもなかなかいける。
こちらは、「家族が農協旅行に行ったのを幸い、留守番しているインド人のお嫁さんがつくるカレー」である。
余談だが、確かハウス食品だったと思うが、カレーの本場であるインドでルウを販売するという大胆不敵な侵攻計画(笑)を発表したことがある。あれはどうなったのか。
それ以来まったく話題にならないが、うまくいかなかったのではないかと私は思っている。当然、カップ麺が東西で味が違うように、侵攻計画作戦では、日本で売っているルウと異なり、大幅にスパイス感をアップしたりしたのだろうが、「記号的認識」はそんなに甘いものではない。
今回のお話は、なんだか「ルウ感」にとらわれている日本人を軽蔑しているようにとられるかもしれないが、それは間違いですと申しあげておく。
若いころ、山歩きが好きで八ヶ岳によく行ったが、一週間くらいして小淵沢に降りて来て、食堂で食ったカレーなどはうまかった。ご想像のように、まっ黄っ黄で、グリンピースが載っており、ルウ感満載。サービスで白菜の漬物が山ほど出てきた。
結論すると、カレーにはいろいろとあり、その裾野は広大で、どうつくってもそこそこおいしいという優れモノの料理なのであろう。
ダウンタウン・ボーイ1109
「テンコが私たちのこと、荒井由実にしゃべっちゃった」
取り上げた受話器のなかで、いきなり声がした。声は、ガールフレンドのもので、なんだかあわてている様子だった。
荒井由実は後の松任谷由美である。当時、荒井由実は取材して曲をつくることで知られていた。テンコさんは小遣い銭ほしさに取材に応じ、「私たちのこと」をしゃべったんだろうと思った。
「別に問題ないよ。よしんばそれを歌にしても、名前なんか出すはずもないだろうし」
と私は答え、それっきりそのことは忘れていた。
私が22歳くらいのときの話である。
30歳をいく分過ぎたあたりで、『週刊文春』だか、『週刊新潮』だかの連載コラムで、田中康夫が松任谷由美の『ダウンタウン・ボーイ』という曲に触れているのを読んだ。『ノーサイド』というアルバムのなかの一曲だということだった。なんで田中康夫がこんなことを書いたのかという文脈は、まったくおぼえていない。
松任谷由美は好きでも嫌いでもない。ありていに言えばあまり興味のないミュージシャンである。それでも、「あのとき」の歌かなと思い、買って聞いてみた。
はたして、「あのとき」の歌だった。
ただし、松任谷由実に限らず、一般的に取材した材料をそのまま使うことはあまりなく、別に取材した材料を混ぜ込んだり、創作を交えたり、作品化するには通常いろんな手口を使う。それでも、このダウンタウン・ボーイの90%は私だと思った。
歌詞に対して異議がひとつ、弁明めいたことがひとつある。
異議のほうは、「工場裏の夕陽の空き地」の「空き地」である。場末の少年であれば、空き地とは言わず、原っぱと言う。だから、ちょっと違和感がある。もっとも、この歌の主語はアップタウン・ガールであって、彼女の視線からの歌だから、空き地でもいいのかもしれない。
別の個所で、ダウンタウン・ボーイが「未来を夢に見てた」とある。ダウンタウンに限らず普通の、正気なボーイであれば、「勉強して立派な人になる」とか、「金持ちになって優雅に暮らす」とかそういった夢だろう。だが、このダウンタウン・ボーイが夢見ていたのは、世界同時革命だった。もうすでに、そのころにはできるはずがないとは思っていたが、なんとかその回路を開く方法はないかと、「夢に見て」はいた。
そんな人間が、アップタウン・ガールとつきあって、ましてやいずれ結婚してなどという路線などありえない。彼女には、悪いことをしてしまったといまでも思うことがある。
アップタウン・ガールとは、私が45歳くらいのときに再会した。大腸がんの手術をした翌年だから、よく憶えている。
そこからさらにまた30年が経った。ダウンタウン・ボーイは有為転変のすえ、八王子の爺さんになってしまったが、そこで、そこそこ元気にやっているよ。
アップタウン・ガールは元気なのだろうか。今日は彼女の誕生日である。
【Live】嫌なお年頃1110
本日、おばさんは、そこそこ大変な手術を受けている。
そればかりか、我らが青ちゃんも、7日から入院である。そういうお年頃なんだなあ。嫌なお年頃だ。
おばさんは、このことを、ごくごく内輪の人間にしか言ってない。だから、ここでは病名は書かない。当『シェアハウス・ロック』には私らの日常生活のことを縷々書いてはいるが、それでも私たちを知らない人間が読んでも、私たちをたどることはできないようには工夫しているつもりである。でも、私たちを知っている人間が読めば、すべてが白日のもとにさらされるようにはなっている。それほどのことではないけどね。白日のもとにさらされても、痛いこともないし、痒いこともない。それでも、おじさん、おばさんのプライバシーはあるから、それは尊重しているわけである。
我らが青ちゃんは、イノウエさんとおばさんとの三人で、今週の火曜日、隣の隣駅で鉄火場麻雀をやる予定だった。ウーバーイーツには、前にお話ししたポトフ(好評)を持っていくつもりだった。
ところが前日、青ちゃんからおばさんに、「一週間前から下痢が止まらず、コンビニに行くのにもフラフラする」ということで、鉄火場麻雀をキャンセルしたい旨連絡が入った。ちょうど夕食時で、我がシェアハウスの3人が顔を合わせているところだったので、「一週間というのは尋常じゃない」「医者の指示で、一週間水分しかとらないとはいえ、コンビニごときでフラフラは心配だね」などと話していた。
そうしたら、翌日の血液検査の結果、青ちゃんは緊急入院。急性腎不全だという。素人考えでは、大腸が、「水分絞って最終的に腎臓に送ったって、腎臓が処理できないんじゃ仕方ない」と考えたうえでの下痢だったんじゃないかと思う。
おばさんは、本日、これを投稿したあたりから手術が始まり、終われば「無事に終わりました」と私の携帯電話に連絡が入るはずである。入院期間は、順調に行けば一週間である。
行数が足らないので、前にも一回しているが、タイトル『シェアハウス・ロック』の解説をする。解説と言っても『シェアハウス・ロック』にはたいした意味はなく、エルヴィス・プレスリーの『ジェイルハウス・ロック』の単なる洒落である。ジェイルハウスは言うまでもなく監獄であり、この歌は日本では『監獄ロック』の名前で知られている。
私が至らないせいであることを百も承知で申しあげると、私は、おばさんから朝から晩まで、「あれやれ、これやれ」とご指導を受け、「あれやるな、これやるな」と教育を受けている。指導と教育は刑務所の基本である。
よって、若干は『監獄ロック』であることを暗示しているのである。言ってしまったので、明示になってしまった。