シェアハウス・ロック(or日録)0207
【Live】亙尾根亙窯跡2
私たちが見学した窯(跡)は、相模国の国分尼寺(神奈川県海老名市)のために亙を焼いていたことがわかっている。双方の軒亙の文様や、つくり方の特徴から比定できるという。
国分寺、国分尼寺は、聖武天皇の詔によって全国につくられた。その亙を焼いていた(つまり、建築途上だった)ので、この窯が奈良時代のものだとわかるわけだ。
さて、前回言いかけた「地の利」である。
製品を運ぶのと、原材料を運ぶのとでは、前者のほうが圧倒的に楽だ。それで、この地で生産することになったのだろうというのが、私の推理である。ここなら、燃料の木は潤沢だし、粘土をこねる水もふんだんにある。粘土はわからないが、谷戸はアイヌ語語源で、粘土のことだというから、これもふんだんにあったと考えられる。このあたりは、地名に谷戸がついているところが多いのである。
それでも、まだ不思議なことがある。
前回、「公園の中央には分水嶺が走っていて、この分水嶺の北に降った雨は最終的に相模湾に、南側に降った雨は東京湾に注ぐ」と申しあげた。これから考えると、分水嶺の北側の窯では相模国へ供出し、南側では武蔵国の国分寺(中央線に国分寺という駅があるが、あそこ)に供出するのが自然なのに、逆、つまり分水嶺をわざわざまたいで供出しているのである。
これも、東京都埋蔵文化財センターの方によれば「謎」だそうだ。
道中がそのほうが実は楽だったということが、まず考えられる。
次はムチャぶり説。
大洲藩主・加藤泰侯(江戸中期)が、「あの砥石の削り屑で陶磁器を焼くわけにはいかないか」とムチャぶりし(大洲は砥石が無尽蔵に採れるという産地なのである)、ムチャぶりされた家臣・加藤三郎兵衛はさらに砥石業者である杉野丈助にムチャぶりし、丈助クン、泣く泣く努力して2年でなんとかかっこをつけたという話がある。これは、『街道をゆく14』(司馬遼太郎)にあった話である。
江戸時代中期ですらこれなのだから、奈良時代のムチャぶりはこんなものではすむまい。
ムチャぶりの連鎖で、尾根を越えることになってしまったと考えるのは、そんなにムチャなことではないだろう。