シェアハウス・ロック2402初旬投稿分

妹の追悼その10201

 30歳前後、私は地獄のような毎日を送っていた。どう地獄かと言えば、そのころ勤めていた会社に泊まり込みで働き、眠っている時間以外は全部仕事という状況だったのである。当初は、机の横で、寝袋で寝ていた。ところが、寝袋に耐えられるのは睡眠時間が5時間程度までがせいぜいである。それ以下になると、寝袋で寝ていては体がもたなくなる。これはやってみればわかる。
 その時期、睡眠時間が3時間を切る日が3か月続いた。よく死ななかったものだ。こうなると、寝袋では絶対ダメである。会社のそばのビジネスホテルの常連になった。もちろん、会社の経費である。自費だと、給料はホテル代でほぼ消える。
 こういうハメになって、着替えた汚れ物を宅急便で妻に送った。妻は激怒した。
 仕方ないので、土曜日にまだ母の家にいた妹に来てもらった。せっかく来てくれるのだから、コインランドリーで仕上がりを待つ時間に、一度会社に戻ってもらい、コピーもしてもらった。コピーすべきものを、ためておいたのである。自分の仕事のコピーをする時間もなかったのだ。それほど忙しかった。この期間で、私は仕事の段取りが相当うまくなったと思っている。『艱難汝を玉にす』。
 妹のおかげで、相当に助かったとまず言っておかねばなるまい。私は、午前中に私の仕事をやってもらい、昼飯時(こういう状況でも飯くらいは食う)におごってやり、まあ、多少の小遣いをやってチャラだと思っていた。
 ところが妹の「請求額」は、5000円だった。「高いよ!」。時給2500円である。おまえはキャバクラのヘルパーかよ。人の足元見やがって!
 それでも、妹の洗濯介助は、約2か月続いた。これが終わったのは、3月末に妹が結婚することになったからだ。たとえ妹でも、他人の女房である以上、汚れ物を洗濯させるわけにはいかないだろう。
 このネタは、火葬場の待ち時間に妹の長女、次女に披露して、大うけした。妹の名前は、智子という。彼女らは「母」「お母さん」と呼ばず、「智子」と呼ぶ。そこからうかがえる母子の関係性に、ちょっとほんわりとした感じを持った。だから、忘れないうちに急いで書いたのである。
 その待ち時間に、スピーカーから『ソルヴェイグの歌』が流れてきた。『ペールギュント』のなかのこの曲はソプラノによる独唱だが、作曲者グリーグの手で組曲に仕立て直されてもいる。その組曲の最後がこの曲で、流れてきたのはこっちだった。ノルウェーの民族音楽の影響で、この曲も「半終止」が多用され、終わりそうになっても続いていく。それが生命の大きな流れ、営みのようなものを感じさせる。
 妹の娘ふたりとその亭主たち、彼らの子どもたちを見ながらこの曲を聞き、私は、「ああ、こうやって続いていくんだ」と思い、少し救われた気になった。
 これを書きながら、確認のためにWikipediaにあたってみた。そこに、『ソルヴェイグの歌』の歌詞の邦訳が出ていた。以下に紹介する。この邦訳で、妹の死を知ってからはじめて涙を流した。私は祈る神を持たない。それが、本当に残念である。
 
 冬は過ぎ春も終わり夏は去り 一年が経った
 でも私は信じる あなたが帰ってくることを
 私は待ち続ける 「待っている」と約束したから

 神のご加護があなたに あなたの旅路にありますように
 私は神にひざまずき 力を授かる
 そうしてあなたの帰りを ここで待ち続ける
 もしあなたが天国にいるのであれば
 そこでまた会いましょう

妹の追悼その1(続き)0202

 新潟駅の南口のロータリーまで、妹の次女の亭主が迎えに来てくれ、私は火葬場に直行した。その車内で、初めて妹の死因を聞けた。彼は「心臓のなんかみたいです」と答えた。頼りねえなあ。妹の亭主も同じように言っていた。頼りねえのはコイツらじゃなく、医者なんだな。
 そう言えば、妹は1月3日にくれたラインで、「年末風邪を引いて、4日も寝込むことになった」と言ってきていた。妹は、そうとうにタフな人で、4日寝込んだことなどまずないはずだ。で、これは風邪ではなく、インフルエンザじゃないかとまず考えたわけである。インフルエンザのウイルスが脳や心臓に入り、悪さをすることも聞いたことがある。
 たぶんこれだな、妹の死因は。「亡くなる2、3日前までは元気だった」と、前述の妹の次女の亭主も車中で言っていた。これは、亡くなる1日前には元気がなかったということではなく、「亡くなる2、3日前に会ったけど、元気だった」という意味だろう。コイツも言葉が足らない。
 帰りの新潟駅までは、妹の次女が送ってくれた。その車内で、この私の推測を話したところ、「それは思い当たるふしがある。亡くなる数日前に、『ちょっと吐き気がする』と言っていた」という。次女は、「その解釈で、腑に落ちたところがある」とも言っていた。
 八王子に帰ってからネットで調べたところ、「インフルエンザは呼吸器疾患以外にも、頻度は高くはないものの心筋炎や脳炎などの様々な合併症を引き起こすことが知られている」とあった。これは、医者が主宰するネットだったので、信憑性は高いはずだ。
「頻度は高くはないものの」とあるので、妹の死亡診断書を書いた医者も断定できなかったんだろう。私も、ネットの解説で、若干ではあるが腑に落ちた。
 1月3日の妹からのラインには、「元旦から地震が来るし」とあり、それに続けて「今年は何かあるかもしれないね」と書いてきた。
 何かあるにもほどがあるよなあ。
 亡くなる当日、亭主が仕事に行くときには普通にしていて、亭主が帰ってきたときには亡くなっていたという。せめて、長くは苦しまなかったというのが救いと言っていい。
 いまは、終活ノートとかそういったものがあり、それに妹はいろいろ書いていた。そんなもの、まめに書くヤツじゃなかったんだが、ムシの知らせかねえ。
 樹木葬にしてほしい、戒名はいらないと書いてあった。同感だよ。私も、戒名なんかほしくない。墓に入る必要もない。散骨してほしいと常々言っている。多少は気が合ったな。

日本の仏教は、ちょっと違う0203

 新潟には、『ブッダの言葉』(中村元訳、岩波文庫)を読みながら行った。そう言えば、私の母が亡くなったときには、『維摩経』(長尾雅人訳、中公文庫)を読んだ。どちらも、私たちが土俗的に知っている仏教とはだいぶ違う。
 日本の現在の仏教は、太閤検地からの流れであり、戸籍をつくりたいと考えた秀吉が全国の寺に号令をかけ、死者を弔うようにさせたのが始まりであると私は考えている。これは言うまでもなく、課税のためだ。ここまでは、単なる推測にしか過ぎない。それの完成形が江戸時代初期の寺請制度である。こっちは確か。
 死者をすら寺の管理下におければ、生者を管理下に置くのは、もっと簡単である。それが、檀家制度だ。
 号令はかかったものの、坊主連中は困った。そんなことはやったことがない。これは本当だと思う。
『方丈記』を読むと、死者はほとんどうっちゃりっぱなしである。もっとも、これは1177年あたりからの火災、竜巻、飢饉を背景に死んだ庶民に関してである。でも、これは室町時代でも大同小異だっただろうと思う。「死ねば死にきり」である。
 秀吉の号令までは、僧侶は弟子は持つものの、寺は学校、地域センターといった性格のほうが強かったのだと思う。秀吉の号令で困った坊主どもはない知恵を絞り、まず死者を仏弟子にした。仏弟子にしておけば、自らの管下であり、供養もできる。それで、戒名をつけた。ホーリーネーム、仏弟子になった証しの名前である。まず仏弟子にしておいて、それから成仏に導いたわけである。
 このあたりで、たぶん日本独特の葬式仏教が成立したと、私は考えている。
 だから、寺で坊主がもっともらしくお経を唱え、葬式をあげるというのは、たかだか400年程度の歴史しかないはずだ。
 禅宗、浄土宗、浄土真宗の葬式でお経を読むのも、なんだかいかがわしい感じが私はする。禅宗は「不立文字」と言っているし、浄土系では「南無阿弥陀仏」と一言言えば成仏できると言っている。それでも、お経が必要なのだろうか。真宗の「和讃」はお経じゃないしね。この感想は、私の無知ゆえかもしれない。
 前述の『ブッダの言葉』は、ブッダ自身が言ったことに一番近いと言われている。それ以降のお経は、捏造とまでは言わないが、解釈であり、解釈の解釈であり、キリスト教で言えば、アウグスティヌス、エックハルト、クザーヌスあたりに相当する人々の著述である。
 私の母が亡くなったとき、菩提寺の住職に戒名をつけてもらい、「私はわからないんで、おいくらお払いすればいいんでしょうか」と聞いた。「お志で…」と言うので、「お志がわからないので、聞いているんです。金額で言ってください」と頼んだら「50万から100万」と坊主は答えた。7文字で50万。そのうち2文字は「信女」だから実質5文字。
 50万はまだいい。単に、金の話だ。だが、仏教大学出たてのチンピラみたいなヤツに、「仏さまは(これは私の葬式だったら、私である)、いままでの人生の歩みを表しているようないいお顔をされていて…」などと、いい加減なことを言われたくない。少なくとも、私はいやだ。死んでいるから、抗弁もできない。
 だから、私は、葬式を拒否しているのである。
 いろいろ今のお寺への不信を述べたが、例えば田舎で、中学、高校の先生をやりながら、半分ボランティアのようにお坊さんをやっているような方々を、「50万」の坊主と同列に扱うつもりはまったくない。そのボランティアの方々こそ、たかだか400年程度ではあるが、本来の姿を示しておられると思う。専業坊主で食えるというのは、相当に太い。
 いま若い僧侶があちらこちらで、葬式仏教を乗り越えるいろいろな試みをされているのも新聞等々で仄聞する。この方々も、前述のような坊主と同列には、私は見ていない。

本の補修方法0204

 私が持っている『ブッダの言葉』(岩波文庫)は1979年発行のもので、だいぶ痛んでいた。今回読み返す前に、裏表紙が剥がれかかっていたので、補修をしてから読んだ。上越新幹線のなかで読み、表紙も剝がれかかっているのを発見した。
 こういった場合の補修方法を本日はお話しする。
 まず、用意するものは、かまぼこの板×2、木工ボンド、Gクランプ×2である。Gクランプは100均で売っている。
 いまの本はだいたいが背糊製本というもので、簡単に言えば、ページ(紙)を揃え、背中(背表紙のところ)に糊を付け、表紙用の紙で包むようにして製本する。愛書家は本にカバーをかけるが、そのカバーと同じような具合に表紙でくるみ、糊付けするわけである。
 前述の『ブッダの言葉』は、この糊が劣化し、かつ表紙の折り返しが痛んでいたのである。
 表紙と次のページ(本扉と呼ぶ)を開き、平らにし、その折り返しの位置に幅1mm程度木工ボンドを塗り、閉じる。このままではきちんと固まらないので、かまぼこ板で表紙を挟み、Gクランプで2か所締め付けるわけである。締め付けは、ちょっと強すぎかなくらいがいい。
 こうすれば、表紙が剥がれかかっているのは簡単に直せる。
 もっと破損がひどければ、思い切って背表紙も剝がしてしまう(つまり表紙全体を剥がす)。背表紙はあまりきれいには剥がれないことも多いので、そういう場合は、紙やすりで余分な部分を削る。これは余分な部分を削ると同時に、平らにし、木工ボンドで貼り付けやすくするためである。そして、新たな紙で表紙をつくるわけである。
 私はこの手口で、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』をはじめ数冊を皮装にした。
 この場合は、表紙/裏表紙を付けるところは前述と同様だが、背の部分は木工ボンドを軽く付け、本体と背の部分を付けるときに本体には重しをかけ、背の部分は、なにか重いもので挟んでおく。背は、あんまりがっちりと付けず、多少余裕があったほうが扱いが楽になる。裏表紙も表紙と同様の工程である。
 皮装をするときの注意事項は、本体よりやや大きめの皮を使い、余分なところは固まってからカッターナイフで切ればよい。このほうが出来上がりがきれいになる。
『ブッダの言葉』は、補強のために織り目の粗い布で背表紙と本体数mmが覆われていたので、補修作業はそれを目安にできるため、作業はとても楽にすんだ。
 この補修/製本方法は使い道がほかにもある。
 私らのシェアハウスからほど近いところに大きな都立公園があり、そこは動植物の管理も行き届き、その公園を訪れる鳥、そこに生息する鳥、昆虫、動物、植物等々を月刊のリーフレットで紹介してくれている。これはA4判であるが、それを私は溜めている。もうすこし溜まったら、製本しようと思っている。
 リーフレットなので目次も自分でつくろうと考えている。完成が楽しみである。
 

老いるということ0205

 本日から、「老い」シリーズである。「老い」だったら任せてほしい。ネタはいくらでもある。若い人には「老いる」という実感はあまりないだろうし、「老い」の捉え方もけっこう観念的で、徐々にあっちこっちが弱ってきて、さらにあっちこっちが弱っていき…などと牧歌的に考えているに違いない。私がそうだった。
 そういう人たちにまず言っておきたい。「老い」とは具体性そのものである。このシリーズの主なテーマは、その具体性を示し、若い人たちに「年取るとそんなになっちゃうんだ」と、いやーな気になっていただくことである。これは、半分くらいは冗談だが、半分は本気である。
 今回は、まず総論から。
 我がシェアハウスでとっている新聞は『毎日新聞』である。月に一回、『私のまいにち』という小冊子がついて来る。その2月号の表4(裏表紙)は、エース出版という会社の出版物の広告だった。
 17の症例が挙げられており、おそらく私ら高齢者が陥る症状別の本の広告である。その広告に触れる人が陥りやすい病状を挙げたほうが売り上げに貢献するはずだから、これらは代表的な病状だと考えていいだろう。
 つまり、エース出版御中は、これらの症例に悩まされている人が多いはずと考えている。
 この広告を使い、現在私にある症状を(〇)で表す。

 脊柱管狭窄症、”ふるえ”、しつこい”かゆみ”(〇)、耳鳴り(〇)・難聴、後鼻漏、たんぱく尿・血尿、”めまい”、リウマチ性多発筋痛症(△)、口腔乾燥症、耳管閉塞感、帯状疱疹後神経痛、不整脈、「足裏の違和感」(〇)、不安神経症、嗅覚障害、肺マック症、非結核性抗酸菌症。以上。

 丸をつけてみて、自分が意外と健康だなとわかる。74歳なら、あとふたつ三つあって不思議ではないと思う。
「しつこい”かゆみ”」は、乾癬のことだと思う。私は50歳くらいから、これに悩まされている。とは言っても、尿素クリームを塗れば、相当程度楽になる。まだ、その程度である。
「耳鳴り」は、自慢じゃないが、小学3年くらいからある。
「リウマチ性多発筋痛症」は、「多発筋痛症」がわからないので(△)にしておいたが、私は立派な関節リウマチである。
「足裏の違和感」は、たぶん私が感じている「これ」だろうと思う。
 次回は、これらについて、詳細な説明をする。

「足裏の違和感」0206

 昨日挙げた17の症例のうち、「足裏の違和感」というのが「素人」の方にはわかりにくいと思う。私も「これ」かなとは思うものの、100%の自信がない。
 私は靴だけは多少贅沢をしている。もう10年以上、メーカーはナイキで、エアーというモデルだ。これは靴底がしっかりしていて、かつクッションが適切で、ずっと愛用してきた。ところが八王子に移って来て、当初どこで買ったらいいのかわからず、仕方なしにバスケットシューズみたいなエアーを買った。これは革製なので、雨のときなどに履くため、超安物のスニーカーも買った。こっちは日常の、ちょっとした買い物のときなどにも履いていた。
 さすが、安物だけあって、これは割合すぐにダメになる。次の安物を買う間は、バスケットシューズみたいなものを履くことになる。
 去年の夏、超安物の調達が間に合わず、バスケットシューズみたいなものを履いていたが、夏になると暑苦しい。仕方なしにナイキではあるものの、他のモデルを買った。去年の初夏のあたりである。
 それから、なんだか足裏に違和感を感じるようになった。いまいち足裏がふわふわし、心もとない。当初は、新しいナイキのクッションのせいかなと考えていたのだが、ある日、山に行くため、キャラバンシューズ代わりに先代のエアー(まだどこも痛んでなかったのだ)を履くことになった。足裏の違和感は、まったく変わらなかった。それでやっと、新しい靴のせいではなく、私の足裏のせいなのではないかと考えるようになったのである。
 これはなんなのか。
 急激に痩せた経験のある人や、もともと痩せている人にはわかるはずだが、椅子に座るのがつらい。木のベンチ、石のベンチなどもってのほかである。お尻の骨があたって痛い。これは、お尻の筋肉、脂肪が落ちてこうなると思うのだが、この感じに足裏の感じが似通っている。
 いま、私は、足の裏だけでなく、お尻も「違和感」の状態である。
 新聞、週刊誌などでは、50歳を過ぎたら太り気味のほうがいいとよく書いている。だから、少しは太ろうと思ってはいるのだが、なかなか果たせない。
 食が細くなった影響もあるのだろうが、腸内細菌が多くなるような食生活を心がけているので、腸内細菌がせっせとエネルギーを消費してくれる影響もあるのではないか。
「足の裏の違和感」と、まだ痛くはないのだが、足首、膝、腰あたりの蝶番とその筋肉の衰えで、たぶん私の歩行は、自分ではたいした自覚はないものの、傍から見たらだいぶ心もとない状態になっているのではないだろうか。やだ、やだ。

【Live】『りえさん手帖』0207

 30歳を過ぎたあたりから、私は漫画が読めなくなった。難しくてわからなくなったのである。とは言っても、たとえばストーリーに隠された哲学的な背景がわからないなどという高級なことではなく、筋すら追えなくなったという低級な問題である。もっとも、そのころは、仕事の資料以外の本など一行たりとも読む時間がなく、漫画などまったく無理だったので、それよりちょっと前から漫画が読解できなくなったのだろうと思う。
 それ以降読んだ漫画は、吉田秋生のものと、西原理恵子の『ぼくんち』くらいだ。
 表題の『りえさん手帖』は『毎日新聞』に連載されているもので、りえさんは西原理恵子のことだ。その2月5日掲載分は、「大学ラグビー部が話題になっておりますが」というネームで始まり、「私、30年前中央大ラグビー部でした」と続く。
 この誰だかわからない「私」がこの漫画の主人公である。「私」は中高とラグビー部で活躍し、推薦で中央大の面接を受けた。スポーツ枠てえやつだね。そこで簡単な試験があり、監督官が「自分の名前以外になにか書いてください」と言う。「私」は唯一書ける英文「I study English」と書いた。一緒に受験した仲間が「おまえすごいな」「オレにも教えろ」と言ってきた。もちろん、「私」は合格する。これでラグビー三昧かと思いきや、教授が「合格点をとらないと進級させません」と言って、こいつらがぶっ飛ぶところで次号に続くである。
 ここまではマクラ。これで思い出したことが本編である。
 20歳をちょっと過ぎたあたりに、私は、とある小出版社に出入りしていた。出入りしていたとは言っても、そこでなにか書いたりしていたわけでも、仕事を手伝ったりしていたわけでもなく、ただ単に遊びに行ってただけである。
 その出版社は、コガ(だったと思う)という人と、教ちゃんという人と、もうひとりの人との共同代表の会社で、教ちゃんと私が知り合いだったのである。
 思い出した話はコガさんがしたものだ。
 コガさんは、立教大学の卒業生だった(と思う)。「と思う」というのは、当時、中退、除籍というのが流行っていて、コガさんが卒業したかどうかは聞きそびれたからだ。だが、コガさんは少なくとも立教の学生ではあった。
 一年生のドイツ語の初めての授業のとき、なにやら後ろの席で大騒ぎしている学生がいた。耳をそばだてたところ、「これはすごい」「こんなのは初めて見た」などと言って騒いでいる。
 コガ青年は、その声の主のほうに振り返った。
(次号に続く)

【Live】いわゆるひとつの長嶋です。0208

 今回を読む前に、前回も読んでね。でないと、よくわからないはず。
 その声の主は、長嶋茂雄さんだった。いくら長嶋茂雄さんでもコガ青年に大学生の長嶋さんがわかるはずがないとお思いかもしれないが、長嶋茂雄さんは高校球児の時代からかなりの有名人であったのである。しかも、立教大学に進学したことは、多くの人に知られていた。
 長嶋さんが、「これはすごい」「こんなのは初めて見た」と言っていたのは、ドイツ語の辞書であった。「abc順になっているんで、これならすぐに調べられる」とも長嶋さんは言ったそうだ。
 ここから推測できるのは、大学一年生だった長嶋茂雄さんは、それまで、英語の辞書はおろか、日本語の辞書もちゃんと見たことがないということである。
 ドイツ語の辞書に感心した長嶋さんは、「これじゃ、日本は戦争に負けるわけだ」と言った。
 長嶋さん、日本がドイツと戦争をしたと思っていたのだろうか。
 なにせ、50年以上も前の記憶なので、多少間違っているかもしれない。特に最後の「戦争に負けるわけだ」は、私が付け加えたものである可能性が高い。なんどかこの話を友だち連中にしているうち、そのほうがウケがいいと、私がオチをつけた可能性は十分にある。ただし、それ以外は少なくともコガさんが言ったことのまんまのはずである。
 長嶋さんは、言語に関して相当特殊な才能を持っておられるようで、私が一番好きなのは、「サバは、魚へんにブルーでしたっけ?」と誰かに聞いたというものだ。
 私が長嶋茂雄さんをバカにしてこんな話を書いたと思われたら、それは相当に心外で、長嶋さんは私のヒーローでこそなかったものの、決して嫌いな人ではない。
 私が小学3年のとき、『少年サンデー』『少年マガジン』がほぼ同時に創刊された。私は『少年サンデー』を購読するようになるのだが、創刊号の表紙は読売ジャイアンツのルーキー・長嶋茂雄さんだった記憶がある。『少年マガジン』のほうは、朝潮太郎だった。それで、『少年サンデー』を選んだ記憶がかすかにある。でもこれは、もしかしたら逆だったかもしれない。この朝潮太郎は、つい先だって亡くなった朝潮太郎さんの先代であり、師匠である。
 そうそう、言い忘れるところだった。表題は、いしいひさいち(だったと思う)の漫画に長嶋茂雄さんが登場するときの最初の決めゼリフである。だいたい、長嶋さんはこの言葉で登場した。
 繰り返しになるが、私は、言語感覚が多少ヘンなくらいで人をバカにすることはしない。大がひとつでは足らない大親友のタダオちゃんは、「しぼをまとる」(正しくは「的を絞る」)とか、「さのようにやる」(同「矢のように去る」)とか、相当にヘンだったし、やはり親友だった流しの新ちゃんは、字がほとんど読めなかった。次回は新ちゃんの話をしたい。

【Live】『流れて、流しの新太郎』0209

 私は12年間、新宿区四谷に住んだ。新ちゃんは四谷荒木町で流しをやっていた。私は、荒木町にこそ住まなかったが、舟町に10年、三栄町に2年住んだ。舟町、三栄町は荒木町の隣町で、江戸時代の区割りなのでそれぞれが狭い。だから、ご町内と言っていいくらいである。
 新ちゃんは、私が飲んでいた荒木町の店に入って来た。そのとき、私が新ちゃんの客になり、一曲歌って以来の付き合いである。あるきっかけから、急速に親しくなった。私が年金生活者でいつも暇、新ちゃんは流しなので昼間は暇というのが大きかったような気がする。でも、うまは十分に合っていたと思う。
 新ちゃんは戦争で父親に死なれ、母親とは5歳ごろ上野駅の近辺ではぐれ、それから浮浪児として生き抜き、小学校にすら行かなかった。だから、字が読めない。でも、まったく読めなかったわけではなかったようで、ひらがな、カタカナはかなり読めた。新ちゃんは、教育こそ受けられなかったが、頭のいい人だったと思う。
 12、3歳を超えたあたりで上野の地下道で寝ていたところ、木村さんというやくざの親分に拾われた。それからは衣食住に困ることはなくなっただろうけど、それまでは、今日の飯をどうするかといった毎日だったという。
 でも、こういった生い立ちにしては新ちゃんは心根がきれいで、思いやりもあり、私は尊敬に近い気持ちで新ちゃんと付き合ってもらっていた。むしろ、人間っていうのは、なにか余計なものを持った瞬間から心根が腐っていくのではないかと、新ちゃんと付き合っていて考えたことすらある。この考えは、正しいと思いたい。
 新ちゃんの昔話は、本当に面白かった。ゴミ箱で寝た話、青森で簀巻にされて海に放り込まれた話、新潟でインチキ霊能者になった話etcetc。
「本にまとめたら面白いのになあ」と思ったが、そういう話がいくつも持ち込まれ、それらをすべて断ったと聞いていたので、私は「本にしようよ」とは言わなかった。私は、そんなことを言って、友だちを失いたくなかったのである。
 あるとき、どういう風の吹き回しか、「自分が生きていた証しを残したい」と新ちゃんが言ったので、改めて十数回録音しながら話を聞き、それを起こし、私は原稿にまとめた。
 そのころ焼酎バー「寛永」で仲良くなった編集者の人が、出版するべく動いてくれた。ただ、大出版社だったので、結論が出るのにとても時間がかかった。結果は、「ウチでは出せない」だった。でも、この編集者の人には恩義をこそ感じてはいるものの、決して恨んではいない。
 新ちゃんは、亡くなる年の4月に東大病院に入院した。病状は知っていたので、私は数少ないツテを頼って、出版してくれそうなところを探した。KKベストセラーズという会社が出版してくれる運びになった。表題が、そのタイトルである。出版こそ間に合わなかったが、「出るよ」という話はできた。新ちゃんが亡くなる二週間前だった。
 私がその原稿につけていたタイトルは『流されて、流し』だった。純文学っぽい感じがするでしょ。だが、その出版社は、表題の演歌っぽいタイトルにした。でもまあ、新ちゃん演歌しかやらなかったからこれでいいかな。
 書籍のタイトル、帯などのネームは、出版社の専権事項である。だが、著者紹介(新ちゃんと私の共著という形になっている)の新ちゃんの紹介文は、「演歌師にして日本のブルースマンである」に変えられていた。私が書いたのは、「演歌しかやらなかったが、日本のブルースマンである」だった。意味的には大差はないものの、ジャズ、ロック、ブルースが好きな人には、私の書いたものは最大の賛辞であることがわかるはずだ。この改変は、相談してほしかった。
 たぶん、いまは、残念ながら絶版になっていると思う。でも、運が良ければ図書館にはあるかもしれないので、興味がわいた方は、ぜひ読んでいただきたいと思う。

【Live】最低の2年間0210

 前回、荒木町の隣町である三栄町に2年間住んだと申しあげたが、この2年間は人生で最低の期間だった。
 まず、引っ越す前、それまで住んでいた舟町の大家が最悪(というより、立派な犯罪者だ)で、敷金を返し渋り(これは業務上横領だ)、それを指摘した私に一切対応せず、やりたい放題をやったのである。あまりに腹が立ったので私は少額訴訟を起こし(こんなことをやったのは生涯一度きりである)、裁判資料は全部とってある。訴状は公文書に当たるので公開できる。名誉棄損にもならない。そのために少額訴訟を起こしたようなものである。
 しかも、この男は訴状に対する弁明書に嘘八百を並べたて、そのなかであろうことかまったく関係のないはずの私の長女まで誹謗中傷したのだが、その内容は嘘である。これは、絶対に許さない。しかも内容は、十分に名誉棄損にあたるものだ。これらは、いつか実名入りで公開してやりたいと思っている。私はめったに人に腹は立てない(5人しかいない)が、こいつは生涯で2番目に腹を立てた奴である。この騒動で半年ばかり時間を取られた。
 次に、引っ越して2か月もしないうちに、引っ越した物件が第三者に売られ、その第三者から追い立てを食ったのである。持ち主は2年間で3回変わった。だから、この2年間はオーディオの結線もしなかった。いつ出て行けと言われるかわからなかったからである。
 でも、こんなことはどうでもいいと言えばどうでもいい。
 どうでもよくないのは、引っ越した翌年、大がひとつでは足らない大親友のタダオちゃんに肺がんが発見され、4月に入院し、7月に亡くなったことである。
 やはり親友だった流しの新ちゃんは翌々年の4月に肝臓がんで入院し、8月末に亡くなった。
 だから、生涯で最低の2年間だった。
 それでも、多少の救いはある。ふたりとも私が住んでいたところの比較的近くの病院だったので、毎日お見舞いに行けたのである。
 タダオちゃんのお見舞い期間で一番面白かったのは、寝たきりになってしまったタダオちゃんがおしっこをするときに、看護婦さんがおチンチンをつまんで尿瓶に取ってくれると自慢気に言ったことである。バカでしょ。でも、女性の方々に申しあげるけど、男なんてこんなもんだよ。タキタという共通の友だちも一緒だったときのことだ。タキタと私をうらやましがらせたかったに違いない。
 私が「タダオちゃん、悪いけど、それ割り箸使ってるぞ」と言ったら、タダオちゃんは、「そんなことはない。サージカル手袋はしているけど、素手だ」。あのねえタダオちゃん、それは素手とは言わないよ。
「じゃ、看護婦さん呼ぶよ」とタダオちゃんは言い、「よせよせ」と止める間もなく、ナースコールを押してしまった。
 待つことしばし、やって来たのは、男の看護師だった。タキタなんか、舌打ちしてたぞ。繰り返すけど、バカでしょ、男なんてこんなもんだよ。
 タダオちゃんは、亡くなる直前にもメールをくれた。それから数時間して亡くなったのである。
 新ちゃんは亡くなる二週間前まで、後楽園の場外馬券売り場に行っていた。転院した病院がお茶の水で、近かったのである。さすがにひとりで出すのは心配だったので、私は病院に迎えに行き、それからふたりで場外馬券売り場に行った。二週間前は外したが、その前の日曜日はそこそこの穴を当てた。
 新ちゃんの思い出話をひとつしたい。
 新ちゃんは、字が読めないことが相当なコンプレックスだったようで、「ぼくは、字も読めないバカだから」とよく言った。私はそのたびに、「でもね、新ちゃん、字が読めるヤツなんか掃いて捨てるほどいるけど、人の心が読めるヤツは少ないよ。新ちゃんは字なんか読めなくとも、人の心が読めるからバカじゃないよ」と返した。

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