シェアハウス・ロック(or日録)0211

地名にはまったはじめ

 今回も小学生時代の思い出話から始まる。
 確か「地図帳」なるものを初めて買ったのは、小学校4年のときだったと思う。私が通った小学校の前にある本屋兼文房具屋兼駄菓子屋という不思議な業態の店に、新学年が始まる前に教科書等々を買いに行ったのである。学校名、学年を言えば、「はいよ」と出してくれる。そのなかに地図帳があった。
 地図帳には、統計的なグラフなど副次的な情報も掲載されていて、それもおもしろかった。毎日毎日、1時間くらいは飽かず眺めていたと思う。『少年少女世界名作全集』(小学館)に次ぐ愛読書ができたわけである。
 あるとき、紀伊半島と伊豆半島に同じ地名がいくつかあることを発見した。こうなると、もう大変である。探索は進み、さらに同じ地名を見つけ、三浦半島、房総半島にまでそれが及んでいることも発見した。
「これはどういうことなんだろう」とまでは考えたのだが、いかんせん小学4年生の、しかも場末の、無知蒙昧の身の上である。まわりには聞くべき大人もいない。
 無知蒙昧の小学生だって、中学生にはなる。中学生になったあたりで『椰子の実』の歌と、その来歴を知った。この「来歴」の一部は柳田國男である。この「来歴」と、前述の「地名の秘密」はなにか関係があるのかとは思ったが、場末の中学生にはここまでがせいぜいであった。柳田國男の著作『海上の道』には至れなかった。
 地図帳をなめるように読んでいるときからそこまでは、おおよそ10年の歳月が必要だった。
「【Live】市民講座『八王子の地名』0209」で予習した『日本の地名』(谷川健一、岩波新書)のp.63には、次の記述がある。

 紀州の漁師が江戸時代に大量に関東に進出したことで、本国である紀州と、その最初の足がかりになった伊豆と(彼らが最終的に)定着した房総の海辺には共通の地名が見られる。また伊豆と房総をむすぶ三浦半島にもその足跡を残している地名がある。紀州からくるにしても、鳥羽の付近まで熊野灘を(廻り)北上してそこから伊豆を目指したと思われる。したがって伊勢志摩と伊豆半島の南部との交流は深かった。

 上記のカッコ内は、私の補記である。谷川先生ごめんなさい。
 先生は江戸時代の話に終始しておられるが、私は太古と呼べる時代から、「海上の道」を通って、無視できない数の人たちがこの列島に流れ着いていると思っている。ただ、江戸時代くらいにならないと、とても「交流」には至れず、当初「海上の道」は一方通行だったのだろう。この「交流」の証拠のひとつに、関西圏と房総地方の漁師言葉がとても似ていることが挙げられる。
 一方、一方通行のほうは、黒潮というハイウェイに乗れば、南島孤(沖縄)と伊豆七島すらとても近い。両者には共通の言語、習俗もあるようである。
 森浩一さんは、日本海沿岸では「津」と呼ばれる地形が多く、その津を利用し、沿岸沿いの交流が古代からあったと『古代史津々浦々』で述べておられる。 

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