シェアハウス・ロック0917

バッハのケーテン時代の続き

 1717年、ヨハン・セバスティアン・バッハはケーテンに移り、アンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長となった。前々回お話ししたケーテン時代(1717年-1723年)の始まりである。
 ちなみに、バッハは、次のように、住んでいた場所により語られることが多い。
・リューネブルク時代 (1685年-1702年)
・アルンシュタット~ミュールハウゼン時代 (1703年-1708年)
・ヴァイマル時代 (1708年-1717年)
・ライプツィヒ時代 (1723年-1750年)
 これらの時代区分がわかり、雇用主がわかり、それを「変数」に「代入」すれば、だいたいどういう曲をバッハが書いていたかがわかる。
 ライプツィヒでは聖トーマス教会に雇用され、ルター派の音楽家として活動していたが、同時にライプツィヒ市の音楽監督にもなり、教会音楽以外の音楽も書いたし、また王のカトリックへの宗旨変えにともない、宮廷作曲家の職をも求め、カトリックのミサ曲も作曲したりしている。「変数」「代入」、おわかりいただけましたか?
 さて、ケーテン時代に戻る。アンハルト=ケーテン侯レオポルトがバッハの雇用主である。音楽に理解のあるケーテン侯はバッハのよき庇護者であったが、もうひとつ、ある資料に、「彼がカルヴァン派だったため、教会音楽をつくる必要がなかった」とあった。それで、前々回のような器楽曲が多数、この時代につくられたのだろうが、さて、カルヴァン派は特に教会音楽を軽視しているのだろうか。
 カトリックがミサ曲を必要とするのはわかるが、ルター以降どうだったのかは、私、浅学にして知らない。つまり、「讃美歌集だけあればOK」(これも、そんな感じがするというだけ)みたいなルター派(というか、プロテスタント)のなかでも、カルヴァン派というのは、さらに音楽を軽視していたのだろうか。
 もっとも、讃美歌集のなかにヨハン・セバスティアン・バッハ作曲というのが何曲かあるので、この時代にそういった整備が進んだのだろう。
 たぶん、そうだ。この歳になるまで、ここまで真剣に考えたことなかったし、こんなことを書いてある本を読むこともなかった。
 それでも、ある資料には、レオポルトの誕生日12月10日と元旦1月1日の年2回は、教会カンタータが演奏されたとされているとあるので、祝祭には、シーンとしてるとかっこがつかないんで、賑やかしに音楽やったんだね。
 わからないことだらけである。こう書くと、主語はフツーは「世の中は」であるが、世の中じゃなく私が知らないことばっかりなんだな。無知は悲しい。
 バッハがレオポルト侯に随行したカールスバートへの2か月間の旅行中に妻が急死する。
 翌1721年、バッハは宮廷ソプラノ歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚する。『アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳』は彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、『フランス組曲』の最初の5曲等を含む第1曲集は1722年に、『パルティータ』等を含む第2の曲集は1725年に成立している。
 バッハの再婚からわずか8日後の12月11日、レオポルト候も従妹のアンハルト=ベルンブルク公女フリーデリカと結婚した。この妃はバッハから「音楽嫌いamusa」と呼ばれていた。aは、否定のaだな。レオくん、そんな女と所帯持ったらだめだよ。
 おそらくこの女のせいで、ケーテンの宮廷楽団の規模も縮小されるようになっていき、バッハは終焉の地・ライプツィヒに赴くことになる。

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