シェアハウス・ロック0913
意味に触れるが意味には触れない
言語の周辺のお話をしばらくしていたが、今回でとりあえずお休み。しばらくシェアハウス周辺の日常雑記とか、そういう話になっていく。つまり、とりとめがなくなっていく。でも、言語の周辺の話もとりとめがないと言えばとりとめがないので、あまり変わらないと言えばあまり変わらない。。
さて、言語の話はずいぶんするが、意味について語るのは基本的に避けている。言語と意味とは別系統の事柄なのではないかと、私は考えているのである。
まず、次をお読みいただきたい。
① 存在工程にある厭人癖は、風説人後に陥る。
② 規定の直近では、共同体において解散。塵芥戦略不動にして、夜走り懸命である。
③ 次の個人用設定を設定しています。
①②は、私がつくった文章である。②より①のほうが出来がいい。①②は十分言語の資格を満たしているとは思うが、意味などまったくない。これで、言語と意味とはあまり関係のない事柄であると証明できていないだろうか。③も①②に近いが、さらに出来は悪い。意味がとれないこともないからだ。私のコンピュータに出て来た文章である。作成はマイクロソフトだろう。英語を自動翻訳したものだろうと思う。
小学校のころ、作文の時間に、言葉と意味はあんまりしっくりいっている関係ではないことに気がついたと書いたことがある(「常に含まれているもどかしさとずれ」0316)。
プレハーノフだったと思うのだが、言語労働起源説のようなことを書いているのを読んだ。「そうとも言えるし、根拠がないと言えば根拠がない」といった程度のものだった。これは、語用論なのだろうが、一歩だけ意味に踏み込んでしまっている。
こんなことよりも、喜怒哀楽みたいな、音声的には「あっ」とか「おっ」とか「わっ」とか「うっ」みたいなのが原初的な言語であるとしたほうがもっともらしい。
言語に関しても、「個体発生は系統発生を繰り返す」と言える気が、私はしている。最初は泣くだけだった彼ら/彼女らが笑うことをおぼえ、無意識から意識が、別の経路では無意識から言語が疎外され、それによって彼ら/彼女らは「なにごとか」を獲得していく。でも、失うものも同等にあるはずである。そうじゃないとお感じの方は、進歩史観に毒されていると思う。
この「なにごとか」の最初のものは「指示」である。彼ら/彼女らにとって最初の言語の役割は「指示」なのだ。
今回は、「言葉と意味」について書いてみた。わかりにくいとは思う。ゴメンね。でも、今回のこの文章は、「言葉と意味」に関して、この一年で一番真面目に書いた文章である。この拙文を、ちゃんとした言語学者、脳科学者が読んでくれたら、「あんたの言いたいことはこういうことね」と言語化してくれると期待したい。
ウィスキーを水でわるように
言葉を意味でわるわけにはいかない
田村隆一が「言葉のない世界」を上の2行で終えたのを知るのは、小学校のころ、作文の時間に、言葉と意味はあんまりしっくりいっている関係ではないことに気がついた10年後くらいである。この10年は疾風怒濤時代であるが、誰でも、2、3年くらいはずれがあっても、このころは疾風怒涛なんだろうと思う。