昭和的実録 海外ひとり旅日記 予測不能にも程がある トルコ編 03
日記_005 胎内宇宙がある
24_午後/mar 1978
小高い丘の頂にあるスレイマニエモスクは、オスマン帝国最盛期のモスクでその荘厳さに魅せられるものだが、袂に広がる金角湾の眺望もまた秀逸である。
幸いに16時の礼拝を見ることができた。
ジャーミィ(モスク)に入るには入口部の浄め所で手足、髪の毛を洗い、頭髪を隠すためか帽子をかぶり、素足で時には皮の履物を履いて入る。
ジャーミィ内部は偶像崇拝が禁じられているためか、中はがらんどうで何も無い。
しかし外観のアウトラインからは想像し難い針で突ついたような繊細なアラビック幾何学文様が建物の入隅部のいたるところに収まっていて、そのさまは恰も生き物の内臓を思い起こさせ、ここはまるで重力のない胎内宇宙であるかのような心地がするのである。
西洋のキリスト教の規律性とはまた違った日常規範におけるこの祈りの所作は、近未来のヒトの心の有り様を暗示させてはいないだろうか。
スレイマニエモスクに隣接する小さな広場の向こう側の香料市場(エジプシアンバザール)からのその官能的なスパイスの香りと雑踏に外国を感じながら、(嗚呼〜)小さな桜の木陰でチャイを啜って休息をとる。
コラム_05 イスラムの祈り
イスラム教について自分は全く無知であるのだが、
その礼拝のストイックさには敬意を払わねばならない。
同宿のお爺さんに聞いたところによると、礼拝時間は
5:50,13:15,17:35,19:00,21:10の5回行うという。
1回15分程度だという。
横一線に並んで祈ること、司教や牧師に当たる人がいな
いことは、アッラーの元すべてのムスリムは平等である
ことを表していると言う。
25/mar 事件は忘れて
そうしばし事件のことは忘れてイスタンブールを楽しもう。
先ずはお硬いところから・・。
考古学博物館はとにかく底冷えする。
守衛はちゃっかりストーブにあたっている。
ギリシャ・ローマ・フェニキア・ロードス辺りの出土品が夥しい。ゴルゴーン・スフィンクス・ケンタウロス・メデューサなどなど、神話の怪物たちに巡り逢えるのは想像の羽を広げさせてくれて嬉しい。
同敷地内の古代オリエント博物館ではヒッタイト・アッシリア・バビロニア・シュメールのメソポタミア文明まで遥か時代を遡って見ることができる。翻って我々日本人は歴史授業で、飛鳥・奈良時代以前を曖昧にしか教わって来なかった故か、どうも獣の毛皮を纏った古代人のイメージしか湧いて来ない、この文明・歴史観の落差は何? なんて見識の狭い、見当違いな妄想にかられるのは俺だけか。
26/mar
今日はいよいよトプカピ サライ(宮殿)。
高校時代、街の電柱という電柱に貼られた『「トプカピ」とは何か?』(映画「トプカピ」 1964年)という謎めいた言葉を残した広告ではあったのだが、そのインパクトは何故かこの旅を急き立てたんじゃないかと思われる程に俺の心の奥底に地鳴りのように鳴り続けていたのだ。
恐らく次の訪問予定国ギリシャではこの映画のジュールス・ダッシン(監督)メリナ・メルクーリ(女優)夫妻を訪れることになるのだろう。
しかし宝飾や調度などに余り興味がないこともあるが、またハーレムも公開されていなかったためか、期待を大きく裏切ってワクワクするものは込み上げてもこなかった。
Aya sophiaに限らず東ローマ時代のキリスト教寺院が回教寺院に塗り替えられた事例をここでは多く見ることができる。
Kariye |Fethiye Camiiもその例であるが、修復後のゴールドモザイクに散りばめられたロマネスクな基督の顔を仰ぎ見たであろうキリスト教徒の思いを巡らし、またがらんと何もないモスクを宗教の場以前の生活の活力醸成の場と捉えているらしい現在のムスリムたちを目の当たりにすると、その無言のメッセージがガツンときて、(宗教など眼中にない)俺の心の居心地も悪くなるだ。
日記_006-1 トルコをちょっと覗き見
27/mar クレームタグの件
イスタンブールに来て丁度一週間が過ぎた。
領事館の日本人女性職員と裁判所に状況伺い。今日は同時にイスラマバードで落とされた荷物も着いたとの報も受けていた。
領事館女史の話では23日の裁判では偽札偽造及びその使用の嫌疑は晴れたが、闇取引の嫌疑はまだ残っており、そのための判決が来月の7日に下りるのだと言う。
言われれば確かにそうと納得するしかない、が(ここトルコで予定通りいくんだろうか)何とも前途は心細く、グレーである。
かかずらわってもお説教の一言二言が増えるだけ、と思い女史とはあっさり別れ、届いたと言うバックを受け取りに空港に行く。
ローテーブルの向こうから、確かに白いズックのバックが現れた。PKエアーの係の人は別に言葉を添えることなく、バックを無雑作に差し出した。
舌打ちしたかったがとにかくバックを確認するのが先、バックの外観は予想に反し綺麗でホッと一息と思った矢先、言わずもがなダイヤルロックが掛けてあったジッパーのフックはペンチ様で切断されているのが明白に見て取れた。バックの大きなフラップに挟み込んでいた赤いシュラフもない。小さな前ポケットに入れてあったスイス製アーミーナイフも消えていた。
(学生時代何度もアメ横に通っては悩み抜いて手に入れた紅い柄に白い十字のマークの、あぁ〜)
しかし中は衣類程度だったためか、手をつけられた様子はない。
(とにかくイスタンブールまで着いたんだし、この程度の被害でよかったのかも)
案の定と言うべきか、俺の片言英語の猛烈な抗議も虚しく(Claim , クレーム! Claim tag ! Claimって”[当然のこととして]要請する”の意じゃないの!PK airさ〜ん!)、結局交渉は全くの”暖簾に腕押し”。
何一つ詫びの入るわけでもないのが外国WAY、お人好し日本人への洗礼であった。
コラム_06 再びTurkey Istanbul
<人々の話から>
人々の話では、今やトルコはインフレが急だと言う。
何しろ「あらゆる点で政府の手が回らぬウチに、それ
でも我々は生活をせざるを得ないのだ」と言う。
平均の月給は3000〜5000TL。
学生間ではテロが頻発し、今はロックアウトした大学
が多く、開校していても警察の警護が物々しい。
実際街でもマシンガンを持った警察は普通に見る。
(一度イスタンブール大学前の広場で突然マシンガン
の音を聞き、周囲の人の素早い伏せに倣ったことがあ
った)
(日本人、マシンガンの音なんて聞いたことないし)
何処でも学生っぽい人と会話をすると必ず「コミュニ
ズム」についての感想を迫られる。
(日本人同じく思考範囲外?)
革命前夜なのか。
翻って交通量は多い。ボロボロのベンツ(10,000TL程
度)やドッヂが多く、交差点や中央線が引かれていな
いところも多く、通りは主張したもの勝ちの様相を呈
している。
交通事故は多く、裁判所は大忙し、不具者もかなり見か
ける。
物乞いに対し寛大に思えるのは、他人事では無いと言う
ことを感じ取っているからなのだろうか。
八方塞がりのぎゅう詰めの壺の中で、今日だけでも生き
抜かねばならないというのか。
改善の兆しは見えないと言う・・・。
*全て1978年当時の内容です。
27午後/mar トルコと言えば
トルコといえばÜsküdar。
「ウシュクダラ♫はるばる訪ねてみたら♫」、確か江利チエミだったかの歌声を幼心に聞いたものだが、(米黒人女性歌手アーサー・キットも歌っていたので、外国あるいはトルコの民謡か?)そのブズーキらしいバルカン系の音やメロディーも相まって、その地名の不思議な響きは俺のイマジネーションを大いに掻き立てるらしい。
イスタンブール然りサマルカンド、イスファファンなど地理の時間でもこんな妙な響きの地名を見つけては心ここに在らずが常であった。
話はさておき、ガラタ橋に隣接する連絡船乗場エミノニュからウシュクダルへ。(また話はそれてしまうが、前段で「ウシュクダラ」と書いた地名は「ウシュクダル」。トルコ語は日本語と同様、助詞を持つアルタイ言語に属し、「(どこ)へ」に当たる助詞が付くための語尾変化らしい?)
僅か20分程度でヨーロッパからアジアに着いたことになる。
ボスボラスの風が心地良い。
ウシュクダルの街の香りはイスタンブールとはまた違い、新陳代謝している生活住居地の風情を匂わせ、人々も一段と颯爽としている感じだ。
と言うや否や、道路上で人が群れていた。
交通事故である。トルコはまだまだ車優先社会なのだろう、バスも乗用車も
トラックもクラクションを鳴らし続けながら猛スピードで突進している車の間を、蟻のようにせっかちそうにすり抜けていくのが、人。
小さな事故は日常茶飯事で、見物人が交差点の真ん中に繰り出して助け出すと言うよりは、不謹慎な言い方にはなるが、喚きあいながら、いささかの世話を焼いているとしか見えない。
彼らは待っているのである、終日チャイを啜りながら何かが起こることを。
辺りには小綺麗な墓が並んでいた。