予測不能にもほどがある 30 (欧州各国)|イタリア編 (7 昭和的実録 海外ひとり旅日記
日記_032 ・・・をたずねて - 3
14/july 1978 メモが誘うもの
ParisからLondonの旅は楽しめる以前に、シンドイ。
やはり割引チケットの影響か。(ちょっと高を括っていた)
これでもかの田園に次ぐ田園(夜の列車で地平線のシルエットから連想するだけ)を5時間、しかしDankerqueには3時に着くので、寝ているわけにもいかない。実際列車は混んでもいた。
ここで船に乗り換える訳だがその接続で1時間以上待たされる。やっとの事、長い行列を終え、船に乗り込むや今度は税関手続きで再び長い行列。
1時間ほどで(久し振りの行列光景で”日本”を思い出すとは・・・)船は整ったか、と思えば夜の帳の中を呆気なく1時間半ほど突き進めば、船の丸窓に朝靄を湛えながらの、Doverか!
(曇天っ!さすがっEnglish weather!)
徹夜状態でかなりの気重ながら、乗り換えた列車座席は渋いイエロー色系のタータンチェックウールシートに包まれて、俺のココロもいよいよ以ってEnglish Way 高鳴るか。
食堂車で隣合わせのインド系イングランド人らしきとサーブされたミルクたっぷりの紅茶を啜る。(旨い!)
席に戻れば、(紅茶で心がほどけたか)心地よい仮眠がLondonまで誘ってくれる・・・。
しかしLondonに着いたところで、目指すはまだまだ先・・・。
Undergroundも経験せねばと、Eustonまで、そこからいよいよManchester〜Bolton〜Wiganと、結局Parisからは20時間の乗り物詰め、それでも迷うことなく最小限の労力でここまでたどり着いた功績こそは、この手帳の切れ端メモと云うことか。(?)
そう電話オペレーターとのやり取りまで分かりやすく教えてくれた一枚のメモの主こそ、Athensの”John’s Place”で同室したMarkであり、彼が店長を務めるその店の前に、今辿り着いたのだった・・・。
15/july Satuaday Night Fever
昨日の夜はバスタブで(そう云えば旅中、シャワー以外の沐浴の記憶がない)泡にも浸かり、本当にぐっすりと休ませてもらった。
朝起きたら既にMarkは仕事に出ていた。
(土曜日だから休みかと、気を緩めていたのは確か)
典型的な(のだろう)煉瓦造りの長屋タイプに母と二人で(日本同様核家族化進行、真っしぐらか)暮らしている様。
二階への階段脇の小さなテーブルに”Maman”(昨晩のMarkの ” 年寄りのEnglandなまり”は分かり難いからというショートカットな紹介から、こう呼ぶことになった?)が無言で、紅茶とミルク、それと空のお皿を運んできた。
チョット戸惑った。
( 大ご馳走がでてくる ? 英国の食事の不評判はよく聞く話だ)
焼き上がったトーストが出てきただけだった。
これがEnglish Wayっ ! 潔良き Continental Breakfast!
手筈してくれたのだろう姉が訪ねてきて、俺をBoltonの街まで車で送ってくれた。
産業革命の織物の街として仕立てられたんじゃないかと勝手に思い込んでも間違いではない程、完璧なまでに連なるレンガ建物からは、ビンビンと当時の人の声や雑踏の音が染み出してきそうな錯覚にも陥る。
所在もなくMusiumに飛び込めば、Egypt〜Inka〜・・〜Japan浄瑠璃人形(露わに肌けていたが)まで、有るわあるわで、多少阿漕なEnglish魂(遅れた大航海時代|略奪好き?)まで見せつけられているようにも思える。
夕方居候先に戻れば、待ち構えたかのMark(仕事は早々に切り上げてきた憾丸出し)に再び引きずり出される様に、友人のHarryと共にEnglish Satuaday Night Feverは始まるのだ!
既にテンションは高潮気味なのは、Harryとの早口な会話で見え見えだ。
道路脇のkiosk風の屋台に首を突っ込むとすぐに、新聞紙に包まれたFish&Chipsを三つ抱えて戻ってきた。まずは腹ごしらえか。
Beer Pubの中は、すでに若者で(年配はWine Pubと、崩してはならない掟があるらしい)ぎゅう詰めだ。
みんな、週末を心待ちにしているのだろう。
ビール片手に、人混みを掻き分けながら知った人(大半は馴染みのよう)と喚き挨拶をし終われば、即Uターン、入り口イコール出口だ。出れば次のPub、次のPubとあっと云う間に5件のハシゴ。
これこそがEnglish Way!
”Gパンお断り”の店が(と云っても、先程までのPubとどう違うのか良く分からない。前の店のトイレで意味もわからず、Gパンからチノパンに履き替えさせられて、此処。Markはファッションの店長だから簡単に用意できたのだろう)、本日最後のShot Barと云うことになる。
先程までの立ちん坊とは打って変わって、品定めをした相手の隣に座り込んでは、多少時間をかけながら手練手管をご披露するかの様は、まるで女性に対するエチケットであるかのような振る舞いではあった。
しかし流石に遠路訪ねてきた者を目の端に置いては、シカトするのも憚られたのだろう。
コラム_64 その後のMark ー Culture Shock
Markの口癖は”boring”。
TV番組はBBCだけだから、boring ・・
Wine Barは年寄りばかりだから、boring・・
果ては、母親との会話も・・boring・・boring・・。
確かにBoltonの数日は、俺の目にはシックで、穏やかな暮らしを感じさせるモノではあったが、LondonでもManchesterでもLiverpoolでもない、街のレンガ建ての長屋を割り当てられた若者に溌剌さを求めるのは難しかったのかも知れない。
時代が取り残してしまったかのようなBlackpoolや車窓から見る何処も彼処もゴルフ場のような穏やかで長閑な芝生の郊外を良しとするには百戦錬磨の経験が必要だったのかも知れない。
俺の帰国後2ヶ月も経たない内に、Markは日本に現れた。
狭いワンルームだが居場所が確定すると、大きなスーツケースを得意そうに開けた。俺への土産?ではなくWiganの店の洋服を詰め込むだけ詰め込んできたようだ。
すぐにビジネスだなとピンとはきたのだが、言葉を発する勇気は俺にはなかった。ケースの中の洋服類は、中学生でも憚れるような代物ばかりだったのだ。
銀座には歩いていける距離だったので、恐らく翌日街をブラついて、昨日の俺の”無言”の意味も知ったことだろう。
元気の無い(完全なるカルチャーショックのよう)Markに、新宿の小さなカウンターバーの店を教えた。特段特徴のある店でも無かったのだが、Japanese Wayも垣間見て欲しかったのだ。
気晴らしにOkinawaでもと紹介すると、しばらく姿を見せず2週間後に晴れやかな顔でそして、3日後には帰って行った、Boltonへ。
(そう云えば帰りはあのスーツケースではなく、身軽なバックパック姿だった)
詰まらない、退屈な、Boringと思えてしまうような日々に
オサラバ出来ていると良いのだが・・・。
16/july 窮屈な日曜日
今日こそは・・・でもやっぱり曇天。(English Weather 手強し!)
しかしHarryの車内は、知らない(Markの店の?)女の子二人含め、テンションMAX!
(Englandと雖も、やっぱり日曜日にしか楽しめないのか、若者には窮屈そう)
一直線の海岸線(湾曲しない砂浜ってある?)の向こうに突き出した長い桟橋の先は、Dance Hall(後で知ったが、映画 ” Shall we dance? ”の舞台)とか言っていた。
Blackpool、と云うのに赤い鉄塔タワーが鈍い光を放っている。
時代錯誤な、と言わんばかりの多少上目線な気の落ち込みもグッと飲み込んで、何とか繕わねば・・・。
17/july The Beatles Forever !
お暇するつもりだったが、Markの言葉に甘えて、あと二日留まることに。
(水曜日は、店が半ドンだと云うので)
待望のLiverpoolはBoltonから1時間半程で着いた。
もちろん言わずと知れたThe Beatlesの足跡を追おうと云う訳だ。
教えてもらった列車はLiverpoolの北側(往復で320Yen安くない?)からアプローチしているようだった。
降りた右手に港湾、左手が雛壇状になだらかに上がっているのも港町らしいか。
とにかくStanlay st.、 Mathew st.辺りまではと、出来る限りつま先上がりの狭いビルとビルの合間を選んでは上って行くのは、(目抜き通りは彼らの趣旨に反するだろう、きっと悪ぶって小汚い、細くて、暗い道を選んでいたに違いない)彼ら(The Beatlsのみならず、当時のPunkな奴らへの敬意を込めて)の習性に倣ってのことなのだ。
Cavernは既に閉鎖されていた。(曰く因縁ありそう)
期待ほどの彼らの痕跡は無い、ただ脇の壁に彼らMusicianの巣立ったこと、それを感謝してのMariaのレリーフが打ち付けられている以外は。
その周囲をグルグル廻ってみても、Liverpoolの案内図にも、彼らのことは一行たりとも書かれてはいなかった。現在ではPunkな若者を見ることもなかった。
(まあ、何かの感情が有るんだろうなあ)
Penny Laneと書かれたバスが来た。3・40分は乗っただろうか。結構郊外なんだ、小綺麗な住宅街である。
“ Surely, here’s Penny Lane. ”
待ち構えていたかのように老人が言った。
”その通り銘板は盗まれてしまって、今は見ることができない””屋根瓦まで持って行く奴もいる”
An elderly woman(Englandにも”おばちゃん”は居た。オバちゃんって何て言うんだろう)も寄って来て、聞きもしないのにPenny Laneに出てくるBaberの場所まで教えてくれた。
仕方が無いので、バスの行き先表示をカメラに納めて、事なきを得たのだ。
Penny Laneの人々の胸の中は、未だ”The Beatles forever”のようである。
ほど遠くないStrawberry Fieldsは、手付かずのような鬱蒼とした樹々に覆われ、固い、固い鉄の扉を開こうとはしてくれない。
Mellotronのイントロが、頭の中を行ったり来たりするばかりである。
コラム_65 Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band
小学2年生の頃から、6歳上の兄貴に引摺られて聞いていた日曜朝9時からのラジオのヒットパレードは、正にMagical Mistery Tourであった。
外国語も知らぬ自分に”空耳遊び”を教えてくれたのも、この番組。
中学1年になって英語授業が始まり、その”空耳ソング”を授業中(恐らく得意げに)口ずさんでは、英語の先生にこっ酷く叱られ続けていた。
ある日曜日、起き抜けに
”ラースナイアセッディワートュマーイガ(ドゥンドゥンドゥドゥドゥドゥドゥ〜ン)”
耳にしたことの無い音律に度肝を抜かれた。
その後の新しくリリースされる曲の度に、驚かされる斬新なアイディアとそのオリジナリティーの高さに(こいつら何者だ)と心底気に成る対象のまま俺の心に住み着くことになった。
そして決定付けるように高2のバイトで貯めた3600円で手に入れた”Sgt. Pepper’s・・・” は、俺の Bible となった。
部屋を真っ暗にしてステレオの音量を最大にして没入すれば、殆ど桃源郷が出現した。
歌詞を訳そうと始めると「空耳」だった世界とは雲泥も違う、とてもナイーブなココロの叫びが聞こえるようで、密室に響く大音量にかまけて、共に絶叫するようにもなった。
ロックはThe Yardbirds以来の枝分かれ含めかなり聞いていたが、やはり個性の多様性を認め、それを表現しても良い、と云うことを同時代的に実践・メッセージしたグループというなら、やはりThe Beatles(実はJohn Lennon一点絞りでも良かった)を嚆矢とするだろう。
[ このコラムは前のコラム(コラム64)と連動しているのだと思う ]
(ちょっと長くなるけど、紹介しておきます)
(“boring”な世界だけれど)
”Sgt. Pepper’s”と一緒に・・・
”革新的でかっこ良い”に決まっているRockを、わざわざ古臭く、保守的で、定型のベタな紹介表現(テーマ)にして、”いま”と滑りを良くさせれば、潜行する個性の反発力をもって新たな日常を創造し直そうと云う”かっこ悪い” 選択肢。
(これしか無いか、熱くなるのを堪えながら)
この旅は恐らく最初で最後の”俺”の旅と覚悟していたし、案の定帰ってきた瞬間、仕事に引き摺り込まれ再び忙殺の毎日を送ることとなった(考える暇もなかったので、お蔭で形式的には社会復帰することはできた)かと思えば、結婚する手筈ともなった。
そして式のちょうど1週間前、FENラジオが絶叫した・・・
”John Lennon was shot by・・ ”
(その時 ”俺”も撃たれた・・・)
コラム_66 (欧州各国)| Itary Map_7
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