予測不能にもほどがある 36 イタリア編 (13 昭和的実録 海外ひとり旅日記
日記_038 アカデミックな日々
8 (1 / Aug 1978 テラスにて
まだ約束の時間ではないだろうと云うのに、既に”Revoir”のテラス席に(確信以外のなにものでもない想像していた通りの)大きなサングラスにパンタロン姿の女性が、今まさに席に就こうとしていた。
Firenzeの街のど真ん中にある ” Piazza della Signoria(シニョリーア広場)のダビデ像の対面側の” Revoir ”というcafe ”を電話で指定してくれた、塩野七生さんであった。
(優しいひと)これならどんなお上りさんでも間違えようがない。
トルコ・ギリシャの取材旅行から帰ったばかりと云う彼女は、俺の旅の理由もそこそこに、一昨日「ローマ法王が亡くなった」故のコンクラーベについて話し始めるや、ツボに嵌ってしまった溢れる知力を、本人も止める術も無く堰が切れたかのように2時間にも渡って、語り続けてくれた。
(セッカチなんだろうなぁ、でも本当に優しいひと)
コラム_82 塩野七生『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
1937年以降 資生堂が「時代の最先端を伝える媒体」として、化粧品の愛用会員「花椿会」の会報として『花椿」を発刊、60年代俺の姉が美容部員だったこともあり、この会報を密かに愛読していた経緯が、この本に出会う縁であった。
資生堂自らが『時代の最先端」と云うだけあって、僅か十数ページのB5タテ冊子は美容に止まらない文芸、カルチャー、ファッション、食文化や海外トレンドを超感度で紹介してくれる優れモノだった。
(多分、その編集意図からコンテンツ、参加クリエーター、デザイン含めかなりのジャンルで、これを超えるものは現代ですら、見当たらないかも知れない、少なくとも現代のムック本的世界のハシリと言えそうだ)
初めは僅か1ページに、あとがきのように『イタリアからの手紙』という記事が連載され始めた。
当時モード記者として伊で取材したエピソード紹介が徐々にイタリアルネッサンス期を描く筆致に変わっていく様を、うっとり・まったり楽しませてくれたのが、塩野七生であった。
随筆でもなく小説でもなし、ましてや歴史小説でも無い、何か肩肘張るでもなく普通に学ぶことできる感じが自分にフィットしたようだった。
この表題と塩野七生と「花椿」が重なれば、何とはない後ろめたさと期待感が、この本に出会うことを誘ったのだ。
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』ー紐解いてみれば確かにこの人名は存在する、その人名を繋ぐ”優雅なる”そして”冷酷”とは何の意味を隠しているのか。
この旅で塩野七生さんにご挨拶でき、そしてCesare Borgiaの逃避行を辿ってみたいとも思ったのだ。
コラム_83 塩野七生の語ってくれたこと
”Revoir”で塩野七生さんが語ってくれたこと(日記でも、箇条書きしているので)列記します。
<時事>
・一昨日法王帰天、コンクラーべのこと
・日本円 1$=180円になったこと
<仕事|学び>
・現在、”コンスタンチノープル陥落”執筆の構想中(トルコの話から構想に至るまで取り留めなく語る)
・オスマントルコの強大性を示すベネチアからの鏡の贈り物
・ギリシャからコンスタンチノープルへのローマ街道
<文化>
・ドーム形状はテント生活の遺物
・快適な生活はローマから
・「お菓子は文化を語る」
・スパゲッティ|パスタはシチリア原産
・フェリー二は天才
<社会>
・キリスト教の特異性は僧侶のいること(「僧侶はプロフェッショナル」)
・スイスはヨーロッパの嫌われ者(ユダヤ人と同じ仲介商人)
<アドバイス>
・Cesare Borgiaの墓の場所のこと|足跡ルート
などなど
今(2024年)となっては、これらの項目の意味することさえ忘れてしまっていることばかりだが(塩野さん、ごめんなさい!)、当時の自分にとっては(箇条書きするほど)示唆に富んだ意味を感じていたのだろう。
”Revoir”のテラスで、まるで講義の時間のようではあったが、諸々のデキゴトというものは時代に揉まれながらも、時として、”今”にも当て嵌まるような意味の澱となって、現在にも浮上しているのではないかと思うこともあるということなのか。
塩野七生さん、お時間いただいたこと 感謝いたします。
8 (2 / Aug Mariaのとまどい
Ufiziにも行ったぞ!
(どうもこの街がAcademicな行動を強要する)
所蔵の質の高さは絶品である。
しかも順路に沿って進みさいすれば、年代・作家順で素人にも分かりやすく鑑賞することができる。
そしてUfiziと云えばBotticelliかなと思うものだが、結構『受胎告知』の作品数が多く、それらにフォーカスしてみるのも楽しい機会ではある。
Ghirlandaio|da Vinci、Botticelli、Fra angelico(Monastero di San Marcoフレスコ)、中でもビザンチンの色濃い祭壇画 Simone Martini の『受胎告知』は、まこと痺れる・・・。
例の”ave gratia plena dominvs tecvm”、ラテン語でMariaに囁いている、あれだょ。(吹き出しのようで、以前からまるで漫画じゃないのと不思議に思っていた)
( 恵みに満ちて、主はあなたと共におられます)
(あぁ〜)言われたMariaの表情は 意味深すぎる。
(誰!誰なの!)
(何、なんなの!何を言ってるの)
(読書の邪魔しないで!)
(私は 男の人など 知りません)
(そのような覚えはありません!)
(・・・・・ ・・・・・)
(神の子・・Jesus・・?)
Simoneがどんな思いで、あのMariaの表情創りに向かったのか?
(とまどい、疑念、気乗り薄、啓示、畏怖の念、崇高な想い・・・)
確かに他の画家の描いた表情とは一線を画す、多重・多層な解釈を投げかける眼差し・表情のMariaを、初めてみたような気がする。
(あ〜ぁ まだまだ山ほどアル 妄想の場 美術館 楽しい)
pensioneのMadamの教えてくれたもう一つにも、俄然興味が沸き立ち、掻き立てられる期待に胸膨らみ、Monastero di San Marcoに向かっている。
閑静で慎ましい修道院の1階回廊を一廻りして、2階への階段途上で見上げた踊り場に、あっと息を飲む。
踊り場の壁に直接描かれたフレスコの『受胎告知』だった。
予期せぬ空間に描かれたフレスコは、美術館とは背負っているものが違うと云わんばかりに、穏やかではあるがきっぱりとした必要の重さを感じさせるものだ。
フレスコの故か多少くすんだ揺蕩うようなMariaは、胸の前でクロスを組み、瞳には未だとまどいを見せながらも、既に運命を受容するかの敬虔さを映しているようだった。
(ふぅ〜ぅん やっぱり違うんだ〜)
その踊り場はそのまま修道院の僧房に連なり、各部屋内部にもFra Angelicoのフレスコが数十カ所直筆されており、当時の禁欲な空気を一層感じさせてもいた。
Medici chapelleのMichelangeloに感慨なし。
9 (1 / Aug 丸めた洋紙
Ponte Veccioに軒を連ねる高級ブランドショップの店名ロゴを口遊みながら、アカデミックだった昨日一日を反芻している。
・・・まだ心は残るが
(Firenze 堪能した)
Pitti宮殿前のみやげ物屋で以前見つけて気になっていた洋紙を買いたくて、
その間口の狭い店に飛び込んだら、波紋状のマーブルプリント(印刷ではなく、吹き流しの転写技法の一種だった)洋紙の実演まで、奥のアトリエに案内され、見せてもらった。
(いい土産品にはなった)のだが、創り方までレクチャーしてもらい世界に二枚と無い貴重な洋紙となれば、折畳むのもままならず、しばらくの移動する度に、”丸めてむき出し”のまま後生大事そうに(カッコ悪い)持ち運ぶことに相成ったのだった。
Arezzoに向かう列車のボックス座席の背に、にょきっと、丸めた紙筒が頭を出している ・・・ ・・・ ・・・。