昭和的実録 海外ひとり旅日記 予測不能にも程がある トルコ編 08
日記_010 再びハシュメット
14/apr 1978
保養地らしきは縁がなさそうなので(ホテルも当然高い)、バスターミナルを探してEdermitに向かう。
一旦Bergamaを目指したのだが着いてみるとあいにくの雨。
遠くの小高い頂に明らかにスタディアムと思しき陰が烟っている。
しかし「ここからはタクシーしか行く手立てがない」(そんな訳はない!これこそがトルコ人一流のビジネスへの第一歩なのだ、勿論悪気などある訳ではないのだが)と言う言葉にも抗うことなくむしろ便乗するかのように、izmirへのオトビュスに乗り換え、先を急ぐことにしたのだ。
一昨日の領事との電話に後ろめたさがあるのか、それが旅の進行を早めさせようとしているのかも知れない。
Izmirに着いてはみたものの、やっぱり大きな街はイスタンブールに大差なく見えてしまう。
多少強引ではあっても培ってきた観光モードは大事にしたいもの、心の張りがやり場を失って崩れ落ちてしまいそうな塩梅に、まずは心当たりのあるハシュメットの紹介していたホテルに行ってみた。
彼の名をフロントに告げたら、あっさりと確かに、話は通じた。
(何、これ)
(やっぱりイズミールでは、彼は有名なんだ)
15/apr
翌朝、既にハシュメットからの伝言が届いていた。
「午後にこのホテルで待つように」と。
そのメッセージに引き摺られた訳でもなかったのだが、プラプラと市内を歩き回って、所在もなくこのホテル(高いので、今日は別のホテルにしようと思っていた)のロビーを覗いてみたら、あっさり(?)とハシュメットに再会したという訳だ。
そして即刻、午後のバス便で彼の故郷らしきAlaşehırにそのまま引きずり込まれることとなった。
(お前という「主体」は何処へ行ってしまったのか)
16〜18/apr
丸々3日間、ハシュメットに付き合った勘定で、その間2人の兄弟の家にお世話になったり、地元のTV局やら新聞社やらへ何のつもりか引っ張り回されたのだ。
(恐らく有名人(?)である彼一流の営業なのだろう。「沖縄で世話になったカンフーの先生の息子が自分を訪ねてきた」、とか何とかかんとか・・)
Yeni Asır(「新世紀」の意、タブロイド判のスポーツ・芸能新聞か。日本では未だカラーは表紙のみのタブロイドしか存在していなかったのに比し、この日刊紙は既に全ページフルカラー仕立であった)を訪ねた折は、近くのbüyük efes otel(「グランドエフェソスホテル」)の庭の木陰で着替えさせられる羽目になる。
ハシュメットから訳を聞く間も無く、風呂敷様から出された平安時代の帷子の様な得体の知れないものを着ろ、と急かされる。(どこの国の空手着?)
「”Dandori”するから、合わせればイイッ!」
(何言ってるの?”段取り?”俺、カラテなんか知らないし、やったこともない!)
ハシュメットに背中を押されると、既に白日の元ではカメラマンらしきが位置どりのリハーサルで喧しい。
その気満々で準備のストレッチも万端のハシュメット、と思いきや大きく大地を蹴り上げての一閃が俺の前頭部を・・・。
パシャ、パシャッ・・・。
「2日後の新聞に載る」とハシュメットは言うが、流石に新聞社の人たちにはこの茶番、見抜かれただろう。
緊張のせいだろう、何だか寂しく虚しい気分になったか、アラシェヒルへの帰りの列車中、お互い口数が少なくなっている・・・。
コラム_14 ゲストと一緒にパフォーマンス!
[ 以下は2023年執筆]
(本来はカラーの写真記事だが、新聞を紛失したため控えのモノクロコピーから掲載しています)
(翻訳はグーグルレンズアプリにて)
いやはや当時はコンピュータも、ましてや翻訳機などもなかった訳で、流石にこの写真記事のトルコ語翻訳にトライしようなどとは全く考えもしなかったものだ。
翻訳された文章で確認して試ても、結構立派な記事として成立しているように見える。
しかし自分の英語の心許なさもあったのだが、「カンフー人口1000万人」は明らかに出任せだろう。
また「人格、成熟、・・・精神的な訓練」云々は恐らく記者の創作だろう。
(俺はこんな気の利いたことを言う柄ではない)
(貧弱な記事にはしたくなかった担当記者の叡智の結晶だろう)
帰国当時は、恐らくでっち上げと薄々知りつつも掲載に踏み切る新聞社に滑稽を覚えたものだが、翻訳を目の当たりにしてみると記事としても案外筋は通っていて、やっぱりプロはプロなのだと恐れ入ってしまう。
閑話休題。
今や世界中の言語を瞬時に翻訳してしまう、こんなシロモノを平時持ち歩きながらこのジャーニーをやり直したとしたらどうなっちゃうんだろう。
この落差、想像不能・・・。