昭和的実録 海外ひとり旅日記 予測不能にも程がある トルコ編 10
日記_012 ジーンズの少女 Ece
22/apr 1978
昨日の件で寝起きは悪いのだが、Efes|Selçukの街の空気は存外気に入っている。
しばらくお世話になるかもしれないから、一旦は頭冷やして気晴らしのため、セルチュクの周辺を散策して試るか。
Efesに限らずこの辺りは本当に風光明媚で、どこに行っても文化遺産の宝庫でもあるようだから。
そそり立つ岩山を背景にもつPrieneの史蹟でジーンズのかわいい少女に出逢った。
アテナ神殿を彷彿とさせるように屹立するエンタシス前でしばらく風に吹かれていたら、少女が話しかけてきた。16・7才だろうか。
(アテナってこんな容姿をしてたのか、場所が場所だからといえ勝手な妄想も風任せ、旅任せ)
後から現れた母親らしきが邪魔をしたかもしれないことに頻りに恐縮しているようだったが、親子ともトルコ語しか話すことができないので、こちらの”Not at all.”も伝わったか。
「ならば」シーン切り替え気分で、持っていた一眼レフで、存在感を主張する岩山、すくっと青い空に屹立する5本のエンタシスをバックに(最高のシチュエーション!)、そして少女に崩れたエンタシスの上に仁王立ちしてもらい、両手を空に差し上げたポーズでシャッターを切ったら、母親に再び過剰な反応(そんなに写真が珍しいわけでもないだろうが)を返され、思わず写真を送る約束で住所を聞き出していた。
そして何を気に入られたのか、2人を含めたツアー団体のバスにみんなから「ヒュー、ヒューッ」と囃されながら、背中を押されたのだ。
そしてツアーバスは勝手にMiletus、Didim(自分だったら訪問回避していたかも知れない超有名観光地)へと自分を運んでくれる。しかもmuseumなどの入場料もタダで。
Miletusでは、水しぶきが床下から跳ねるほどの渓流上のレストラン(京都鴨川の納涼床料亭を超える)でのランチタイムとなっているようだったが(明らかに高級なツアーと言うこと)、流石に遠慮したよ。
Didimのアポロン神殿は人を驚かす。
エンタシスの太さは優に3人抱えはあるだろう、高さも15Mは超えるだろう。そして再びメデューサの美形に逢うことができる。
本当はこの空間と空気をじっくり思う存分味わいたいのだけれど、そしてゴージャスも快適も勿論大歓迎なのだが、やっぱりツアーの時間に合わせなければならないのは辛いこと。
既に3時を回っている、軽い周辺散歩と出て来たのだが、6・70kmは来てしまっただろう。荷物もセルチュクのホテルに預けたままだし、来た道をミニビュス乗り継いで一気に帰らねば。
みんなとは名残を残しながら、そしてEce(エジェ:少女の名)に「(現像したら)写真を送る」ことを約束して・・・。
コラム_16 カメラのこと
そう日記の中でも、アッと言う間に10ロール使い切ってしまったこと、トルコではフィルム(現像も)が高いことと書いてあるが、まともに史蹟巡りするんだったらと奮発してフィルム購入したことが、今回のEce親子との出会いに繋がったと言えない事も無い(?)。
しかし旅に出て早1か月でカメラが鬱陶しくなり始めている。
フィルムの問題に限らず、重たいし、フットワーク悪くなるし、素人だから構えた時は大概シャッターチャンスを逸している。
そして最大の問題は撮りたい(残したい)シーンは山とあるのだが、「写真に収めたから」が、ファインダー覗いた思いを「一丁上がり」のように霧散霧消してしまうように思えてしまう事。
因みにそんなに勇んで撮ったフィルムも、帰ってから知ることになるが2ロールしか実家には届いていなかったことを知ることとなる。
(税関も送られてくる国によって区別して、荷物検査しているとも思えないのだが)
だからこの一連の旅の写真は殆ど無い。
(この日記投稿のビジュアルの無さへの言い訳)
それでもその届いた2ロールを両親はすぐさま(息子の近況を確かめたかったのか、残念ながら自分の写った写真は一枚もない。そもそも写真を撮られるのは大嫌いな子であった)現像に出し、添えてあった手紙の「トルコは凄い!」を真に受けてか、俺のこの旅を終える以前に、夫婦二週間のトルコ旅行を既に完遂していたとか。
その後の旅行中殆ど撮らなくなったカメラも、後日イタリアにて盗難に在っている。
(帰国後盗難証明書(伊発行)と共に機種名Nikon FM (ではなかったが)にて、ちゃっかり保険請求済)
コラム_17 ああ 本当に判らない!
このアンティークコイン事件に限らず、のっけからのロストバゲッジ・ニセ札事件然り、些細なところでデニムパーカー事件(などなど・・まだまだいろいろ続くかな?)と、何も知らない善良でお人好しな外国人の身の上に矢継ぎ早に何が起こっているということなのか。
明らかに騙されているのだが、別に恨んでも哀しんでもいない自分が、全く奇妙でもある。
旅の恥は掻き捨てのお気楽さか。
確かにお金に絡んでいることは全てに共通することで、このアンティークコイン事件も典型であるのだろう。
お金に絡むと言うことなら、彼らにとっては”契約でありビジネス”であるということなのか。
契約なら”信頼”あってのことだから、成立した以上は喧嘩吹っ掛けたところで、あとの祭りと言うことなのだろう。
またビジネスと言うなら”周辺環境”の協力態勢もとても大事。
仲間たちに限らず、目撃している人たちさえも見ぬフリという協力をしなければならないだろう。意図ある人もたまたま見てしまった人でさえ。
場合によっては積極的に手を貸すことだってあり得ると言うこと。
んっ!Ermasは??
23/apr ハシュメットの言ったこと
昨夕はとんぼ返りのままmügeに直行。
一昨晩の出来事などなかったかのようなErmasとの会話に(しばらくこの街に滞在しよう)と決めて、安堵の眠りに就いたのだ。
翌朝、セルチュクの街は”Efes Festival”を一週間後に控え、にわかに慌ただしくなっていた。
当ペンションホテルもペンキ塗り替えや建物補修、広場では仮設ヤグラ組みなどで余念がない。そして広場では朝から行進が始まっていた。
街の様子が行事を含めた日常が立ち上がっていくのを目の当たりにすると、自分がよそ者だったことを思い起こさせられ、何か突然自分の心をブレークダウンさせるものがあった。
そしてはつらつとした街の表情であればあるだけ、俺の心を射抜くようにも感じたのだ。
(街を出よう!)
(皆んなお見通しだよ、騙されたのはお前が悪いのさ、これが世の常さ)
発作的な思いではあったが、明らかにみんなの前に生き恥を晒しているような恥ずかしさに居たたまれない思いに襲われたのだ。
慌ただしく荷造りされたバッグを背にドルムシュに飛び乗ろうとした瞬間、思わぬ予感が、キオスクの店頭から奪うように新聞を買い込ませていた。
街で誰にも遭わなかったことにホッとため息を就く間も惜しいように、すぐさまキオスクでの予感を確かめるべく恐る恐る新聞を開いたのだ。
息を飲んだ。
(エーッ、やっぱり!)
ハシュメットの言っていた通りだった。
裏一面上段にあの写真が、恰も特ダネのようにカラーで飾られていた。
(ウッソー! マジッ! ヤッター!)
(ここはルビコン川ではないっ!?)
”あのJaponca(ジャポンジャ=日本人)が・・・”
・・・Selçukのみんなの顔が、走馬灯のように駆けめぐった。