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予測不能にもほどがある 34 イタリア編 (11 昭和的実録 海外ひとり旅日記

       



日記_036 Bolognaは、どう?

 

   28  /  july  1978  優劣つけ難し

曇り
Milano〜Bologna train 2.5h 5600L

ホテル4000L
・Via Ugo Bassi
・Piazza Maggiore
・P.za di Porta Ravegnana
・Due Torri (Torre degli Asinelli & Torre Garisenda)


伊の歴史文化の底の深さを僅かでも触れようものなら、次の訪問地を(確かに伊の全ての街はその領主の意向を色濃く反映しているようで、街形成は千変万化の様相、地図を広げてもとなり街隣街、全てが何処かで聞いた|知ったような名で、簡単には選択できないのだ)おいそれとは・・・と決めあぐねていた時、Youthで遭った日本人(Pergia在住と言っていた)が「Bolognaはどう?」と渡りに舟のタイミングでアドバイスしてくれた。

(世界最古の大学があったよな、ボロネーゼか〜)

Bolognaの建物の材質は石灰岩質の多いトラバーチン(大理石の一種)やレンガ積みで、そのためか今や壁は黒く煤け剥離しそうな、まるで古い鎧を今だに纏ったかのようなボロい(シャレ?)佇まいを見せている。

実際、壁が落ちる危険があるのだろう、現在は修復のためか足場が通りを塞いでいる箇所も、頻繁である。

しかし通りの左右は、今までみたアーケードとは比べ物にならない階高のあるアーチ(Porticoポルティコと云うらしい)が思い思いの多種多様な表情のデザインとなって、パースペクティブに街を区切っているのに出くわすのも、得した感でワクワクしてしまう。

放射状に拡がる街のトドの詰まりは、二つの塔(1本は100mhはあろうかと思われる)のある、道が廻り込んでいるからロータリーなのか、広場なのか、何か意味ありげな空気感が思わせ振りではあるのが、この街なのだ

太陽が傾き塔の影が、長く石畳に、広場に、教会に、街に懸かる頃を合図にしたかのように、人々の足並みは行き先を求めないスローテンポに変わって行く、犬さえも食べることも忘れ、ほうけているような。

(ヨーロッパ都市なら何処でも見られる美しい刻・・・堪らなくシビれる)


 コラム_76  Due Torri(二つの塔)



街中が工事囲いだらけの時期で、塔の基壇部も囲われていたせいか、この『二つの塔」がTorre pendente di Pisa(ピサの斜塔)より傾いていたなんて全く気付きもしなかった。

(戦勝記念のオベリスクか?)
街が自治権を持つということは、同時に内外に対立を生むもので、Bolognaも例外では無く、12世紀当時の権力誇示の証だったらしい(ありがちな話ではあるが、200も林立していたと云うなら話は別、人騒がせな)。

Porticoの因縁も面白い、Università di Bologna(Alma Mater Studiorum「母なる大学」の雅称で呼ばれる)は勿論世界最古の大学と言われているが、同じく12世紀、各国からの大学目指した学生の急増は深刻な下宿不足を招き、その解消策として1階は屋根付きの回廊に、2階以上は部屋に増築され、その後Porticoは設置義務化されたとか。

Porticoは幾つかの住宅を束ねながら、時にはエンタシスに支えられた優美なヴォールト天井をもつアプローチとなり、続いてロの字型Patioに至り、再びの美しいアール階段が各住宅棟へと誘っている。

階段裏にエレベータも隠れるように存ったが、10L(オリーブのレリーフ図柄コイン)入れないと動かなかった。

Porticoは人々の交流を演出し、思い思いの人々の暮らし方・過ごし方を許容しつつ、一つの生活共同体の器を示しているようだ。



   29 /  30 /  july  騒動な日々

晴れ   晴れ
・P.za di Porta Ravegnana

ホテル4000L

Bologna〜Rimini train 2.5h 2400L
車炎上の煙がなければ、中央にDue Torriが
見えていたはず・・・
うっすらと左右アーチが個性豊かなPortico


大学を見聞するため、P.za di Porta Ravegnana(二つの塔のある広場)を通り掛かったら、車が突然燃え出した。
みるみる内に真っ白な煙が二つの塔を隠していく

呆然と見守るだけの通りすがりの人々の中で、ホースの水をチョロチョロと恐る恐る懸ける店主らしきの姿に、これが火事場の馬鹿力か?、と思わず壺に嵌ってしまった。

お蔭でBologna大学を訪れる途上であったことも紛れ、またTourist Info.で仕入れたとっておきの”Palazzo Bociocchi”Tourist Info.の女性に対し、どんな質問をしでかし、どんな根拠をもって紹介され、そこはどんな施設なのか、俺は何に興味をもったのか、すっかり忘れている)について、街の誰に聴いても、解らず終いであった。

(きっと地元でも、この宮殿の知名度、まったく無いんだ・・・?)


 コラム_77 思いだした! Palazzo Baciocchi


「宮殿に宿泊できますよ!」

(そう俺がTourist Info.で聞きたいことといったら、道案内・交通機関か、(穴場の)名所地か、安宿情報くらいだろう。)

(!!!)
 
「外壁にヘブライ語で碑文が描かれた宮殿で、Quite cheep!に泊まれますよ。」

(そそる〜ぅ)
(宮殿? ヘブライ語と云ったらユダヤ教? しかもヤッス〜い!)
(それっ、いただき〜ッ)

発音はえ〜と、『ボッキオッキ?』『ボッツィオッキ?』『ボチョッキ?』『バチョッキ?』

何人もの道ゆく人に、何度も何度も(ホテル代節約は死活問題なのだ)英語で聞いても首を竦めるだけ、奥の手を出すしかない。

”ボーリオ アンダーレ ア パラッツォバチョッキ?えーと ホテル ドルミーレ?”

Hanedaで買った”5ヶ国語ポケット会話”(結構分かり易くてスグレモノ、日本語に対し4ヶ国語が列記してあるので、「どこを」「どう変え」れば良いんだの推量が可能なのだ)で、イタリア語一つ覚えを試して見るも、返ってくるのは嘲笑ばかり

(きっと地元でも、この宮殿の知名度無いんだ・・・?


恨む訳でもないが、何だか興が冷めたのか、既に心は次の街に動いている。



   31  / july   1/Aug  何かが違う

  曇り  曇りのち晴れ
Rimini〜Città di San Marino
bus 0.75h 600L×2

pension 4000L×2


Bolognaのアカデミック過ぎる日々も、長くは続かない。
選びきれない街々、と言っておきながら選りに選ってのRiminiと言ったら、失礼か。

England Blackpoolで遠目に見た海から2週間、『海』を見ていない。

(言う程のことではない)

ユーゴ途上、急かされる思いにしっしてしまったらしいアドリア海の醍醐味をあわよくば取り戻そうと云うのか、このGolden sandの紺碧海岸

しかし色が違う、風が違う、(まるで三浦海岸!)長く婉曲した砂浜(確かに黄味帯びた白い砂)、夥しいパラソル群だけがRiminiを主張するかのように向こうに消えている。

対岸こそ、Pula 、Zadar 、Split(Yugoの各街)・・・後悔先に立たず

それでもプライベートハウスのリビングに、ドカーンとベットだけがぶち込まれた、でも快適そうな部屋が見つかったので少し落ち着こう。

海岸を彷徨しても精のないこと、San Marinoで国境を跨いで試るか、とちょっとマジになってみる。

Monte Titanoの尾根伝いを南北1kmほどの城砦が連なり、まるで岩盤の上に乗り上げてしまった戦艦のように、船首・ブリッジ・船尾部に3つの塔砦が出現する、Città di San Marinoである。

(一つの街規模のCittà del Vaticanoとは違って、ここは首都であり、Repubblica di San Marinoは世田谷区位の広さに、複数の街々で構成された共和国である。人口25万人位)

岩盤の上の城砦が一部決壊したかのようにジグザグな石畳に繋がり、街もそれに沿ってへばり付いている。
しかし城砦内部といい、花に彩られた街並み、随所に見下ろすパノラマ処・plazaといい、美しくレイアウトされた急峻な街は、観光に限らない居住性をも感じさせている。

切手以外の世界をもっている)

   2 / 3 / Aug  チョットふり返り

晴れ   曇り
Rimini〜Ravenna train 1h 1000L

pension 3500L×2


Ravennaに列車が昼着すれば、街は閑散としている。

伊はどの街に行っても、本当に昼休みは人もいなくなれば、仕事も止まる。お腹が空いたが、売店も何も凛として動かない

(実にペースが合わない)

本当に国は大丈夫なのか、なんて日本人が喚いたところで、痛くも痒くも無いのがイタリアというところ。


Ravennaはモザイクタイルの街。

5世紀に建てられたレンガ積層のビザンチン建築としては完璧な構えのSan VitaleのBasilica内部は、以前Yugo Deçanで見たManastiri i Deçanitのイコンフレスコが、恰も全面ゴールドモザイクに変わったかのようで、ズッシリとした憾を思い起こさせる。




 コラム_78  Ravennaモザイクに想う


mosaicのファクトリーが2件あったのでハシゴして、覗いてみる。

下絵を描き、キャンバスに写す、下塗りをし、輪郭を描く、そこに一つづつガラスや石を貼り込んでいく・・・。

モザイク作業は全くもって想像通りの工程でしかなく、熟練の技が介在するような感触は微塵もない。
唯あるのは、製作者の丹念な丁寧さと繰り返す集中力なのだろう。

(しかしSan Vitaleを見た時のその圧倒的な締め付けられるような感覚は何に依るのか)

このSan VitaleやDeçanitに限らない宗教上の遺産が放つ圧倒的な空気感は、造られたモノに依るのではなく、制作者のある思いに集中する熱であり、それに対する受容者の共感する思いが一致して初めて崇敬の念となる、そんな関係を創り上げられた時だけに醸しだされるモノなのだろう。

しかしこの感覚は別に宗教に特有に根ざす感覚でもなく、おそらく全ての関係を有するであろう事象間にはいつも現れて欲しいモノであるのかも知れない。

すなわち(感謝する)ということ。




もう一つSan Francescoの水に揺れるモザイクパターンも貴重で、そして美しい。
(過去のロマネスク教会の上に新たなBasilicaを建てた残存床らしい。IstanbulのYerebatan sarayiと動機は似ているよう)



 コラム_79  Milano| Itary Map_11


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