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何かを伝えたいという熱が行動にも繋がるという話。

何かを伝えたいという熱が行動にも繋がるという話。

アイスランド出身のミュージシャン「ビョーク」が大好きで、どこからか彼女が屋久島の送陽邸に泊まったという話を聞きつけた。彼女が世界中で一番好きな場所が屋久島と聞いて、絶対行くと即決した。もちろん樹齢7000年とも言われる縄文杉もみたいし、白谷雲水峡の苔むす森で久石譲を脳内に流しながら佇みたいし、アシタカが立った太鼓岩の光景も見たい。当時は上海に住んでいて、旧正月や国慶節といった大きな休みの際には、十数回行ったバリ島や、少数民族の住む雲南省、ジェフリーバワとシギリヤを追い求めスリランカ、ウルルを目指しオーストラリアへ、聖地カトマンズ&ポカラ(ネパール)と、とにかく世界をみたくて旅ばかりしていた。でも日本にはあまりを目を向けていなかった。今回話したいことは、屋久島に導かれた話ではない。その屋久島の送陽邸で繋がった点と点が繋がっていく話だ。

なぜこんな十数年前のことを思い出したのかというと、今朝、「老舗の流儀」という本を読んでいたのがきっかけである。この本は数年前に急逝してしまったクリエイティブディレクターの友人M氏がおすすめしてくれていたもので、教えてもらった当時は完売してしまっており手に入らなかったが、また販売しているのを見つけて数年越しに手にいれた。内容は、当時エルメスフランス本社副社長だった斎藤嶺明さんが、「エルメスのライバルを強いてあげるとすれば虎屋」という言葉から実現した虎屋十七代目黒川光博さんとの対談本である。日本とフランスの文化の違いや老舗企業同士での共通点などが語られるのですが、自国の文化を誇りに思う瞬間は、別の国の人から教えられるというエピソードを通して、私自身も異国の地で暮らしていた時のことを思い出させてくれた。斎藤さんが高校生の頃に、100人くらいのフランス人の国内旅行添乗員を素人ながらやってみたというエピソードを読んで、そういえば僕もそんなことがあったなと思い出し、このエピソードは残しておきたいと考え書くことにした。

遠く離れたアイスランドのミュージシャンの言葉を通して、屋久島に導かれた僕は、一番の目的である送陽邸に連泊した。いまわからないけど、送陽邸には何もない。部屋にはもちろんテレビはない、電波もない(ほとんど繋がらない)、宿の周りにあるのは海と水平線に沈む夕陽だけ、ボーとするか、風呂に入るか、読書するか、酒飲むかくらいしかない素敵な環境。そもそもコンビニも商店もないので、飲む酒を持参していない僕らは夕食の席で飲むお酒を文字通り首を長くして待っていた。ここでひとつ目の出会いがある。陽気な送陽邸の主人が屋久島の銘酒「三岳」の一升瓶を抱えながら、夕食をとる宿泊客に振舞ってくれていた。待ちに待ったお酒なので僕も喜んでいただくと同時に、ビョーク来島のエピソードや、初めてくる屋久島への興味と、お酒をたくさん飲みたいという下心から、とにかく色々な話を主人と喋っていた際に、ちょうど上海から来ている家族がいるよと紹介された。当時上海に住んでいた僕らは国慶節という10月頭の連休を通して屋久島に来ていた。この時期に旅行する人が多いので、このような縁があってもおかしくはないのだが、屋久島の比較的マニアックな場所で会えるなんてと少し驚いた。その家族は、上海人の旦那さんとフランス人の奥さんと、とても可愛らしい一男一女の4人家族で、奥さんが上海のフランス租界で経営している茶館は大好きなお店のひとつで、よく行っているお店だった(余談ですが、旦那さんは復旦大学卒業後、アメリカ留学しマッキンゼー入社、ハーバード大学でMBA取得。ミラノ、ロンドン、香港を経て現在上海にて起業しているという経歴にも関わらず、非常にフランクで紳士。なんと衝撃の同い年でなんとも刺激的な出会いだったことを覚えている)。そんな縁もあって、他の宿泊客も加わってみんなでカタコトの英語と中国語と日本語で車座になって楽しく飲む夜を過ごした。僕自身プライベートでは、初見では人と距離を置きがちなタイプなので、とても珍しい一晩となった。

翌日の夜(おそらく昼間は縄文杉へのトレッキングを終えた日だったはず)、連泊している客は僕らだけで、主人の振舞う「三岳」を心待ちにしていると、何やら今日は地元のメンバーが集まってここで飲むらしいので、合流しないかと誘われた。普段であれば、遠慮するところだが、昨晩の余韻もあり一緒に呑むことに。何でも地元企業が海外への社員旅行を計画しており、その候補地のひとつがなんと上海だというのである。またもや上海が屋久島の地で繋がったと不思議な縁を感じた。同時に一般的な旅行ツアーでは本当の上海の文化や風土に触れられないだろうという、よくわからない正義感が三岳の酔いとともに沸々と湧いてきて、小籠包は一般的な観光名所ではなく、街のこのお店で食べて欲しいだとか、お茶市場は街の中心からは離れているけれども行ってほしいとか、うちの弟はバックパッカーだったのに上海来たら着いたその日に騙されて茶器を高額で買わされただとか、何だか熱っぽく語っている自分がいた。縁もゆかりもなかった上海に飛び込んで、你好も怪しかった中国語を一から勉強して、何の感情も持っていなかった土地に、とても感謝と尊敬と愛情を持っていることに気がつかされた。それは旅行では感じることのできなかった初めての感情だった。

屋久島から上海に戻ってしばらく経ったある日、社員旅行の幹事役のT氏から、メールが届いた。なんでも あの夜をきっかけに上海への社員旅行が最終決定したとのこと。なんと!本当に決まってしまった。口は禍の元だなと呟きながらも、どこか高揚感をもった自分がいたのも事実。
そして、数奇な点と点の縁を辿り、屋久島から上海に来る数十名の中高年のお客様の社員旅行をアテンドすることになった。旅行会社にも勤めていない、ツアーコンダクターに興味もないし、したこともない。しかし約束はしてしまった、なぜか。流石に旅行全日程は無理なので、1日だけアテンドすることにしてツアー計画を策定。マイクロバスを借りて、運転手を雇って、行くべき場所決めて、食事するところはやっぱりツアーでは行けないローカルだけど大好きなお店に決めて、そして当日を迎えた。自分の人生の中で、バスの中でマイクを使って、バスガイドさんのように街の紹介やエピソードを説明をする日が来るとは、何とも人生は可笑しくてたまらない(思い返せば、それだけ話せるエピソードを持っているということは、本当に上海が好きだったのだと思う)。当日のことは、ほとんどよく覚えていない。ずっとバタバタしていたけれども、屋久島のおばちゃんたちは中国という異国の地でも遺憾無く交渉パワーを発揮して、お茶市場で通じない日本語で次々と値切っていた光景を、なぜだか勝手に誇らしく思っていた。そして彼ら彼女たちがこの旅行を通じて、この街を好きになってくれると嬉しいなとお別れの手を振りながら、感傷に浸ったのは覚えている。

もう二度と出会うことはないかもしれないけど、屋久島と上海を繋いだのは「熱」だったと思う。「縁」は重要な要素であるけれども、それが行動に伴うには一定の温度が必要だ。そんな「縁」と「熱」の連続が紡いだひとつの大切な物語である。

「私たちはお邪魔させてもらっていることを忘れてはならない」
上海に住み始めてすぐの頃、異なる文化や環境に戸惑う日々の中で、妻が教えてくれた言葉である。僕らは勝手に異国の地に来たのだから、尊重するという意味で捉えていたが、送陽邸の夜がそれを「好き」という感情に変換させてくれたようにも思う。あれから上海からシンガポールに移り住み、東京に戻って来てからもう10年が経つ。あと数ヶ月で50歳になる年に、大げさではなく本当に筆が走るように書きたくなった文章に意味をつけたくなってしまう性分だ。書いてみて思い返すと、それは高い熱量を持った一時的な恋のようなものだったかもしれないと感じる。21歳で初めての一人暮らし”Hyperballad”を永遠にリピートしていた夜から繋がった点でもある。

時がたち温度が下がった出来事は、物語の一片となる。
その一片はどこを取り出してもやっぱりほろ苦い。

そんな物語を自分自身のために、今後も書き記したいと思う。
やっぱり僕は書くことが好きだ。常に文章を探しているくらい活字中毒で読むことが大好きだけれども、その次にはいつも書くことを考えている。

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