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南京事件と【共感覚幻想】


歴史を知るには、または歴史的記述に関することに批判を加えるには、それなりの基礎知識および周辺知識が必要で、この土屋氏を東南アジアの状況の歴史についてあれこれいうつもりは全く無いし、出来ない。
当方に知識が無いからである。
当方が、東南アジアの東ティモールに関して知った点に関しては、国連のパンフレットの表紙に、東ティモールが独立するにあたってのデモを行う人々へのインドネシア政府による武力鎮圧が【Massacre(虐殺)】が使われていた点ぐらいである。
それ以外についての知識も興味もない。

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何故【Massacre(虐殺)】に気づいたかは、日本の歴史で関係がある1937年の南京城攻略戦で日本軍が行なったとされる蒋介石政権の首都であった南京城での【行為】とは何かを調べていたことに行き着く。

【虐殺】をイメージするものとしては、【ジェノサイド】がある。日本以外の方の多くがこの言葉を使われることが多いような気がする。
しかしながら、事実上【Massacre(虐殺)】と【ジェノサイド】は同義かというと、そのような定義はどこにも存在しない。【虐殺】とは【感覚的・主観的】な言葉である。

1998年の国際司法裁判所の設立と同時に設定されたローマ規程(The Rome Statute of the International Criminal Court)における【戦争犯罪(第8条)】と【ジェノサイド(第6条)】【人道に反する罪(第7条)】の中に、【犯罪行為】として明記される項目にも【殺人】【大量殺人】はあるものの明確な【Massacre(虐殺)】という用語は存在していない。
よく日本軍の南京での行動を【ジェノサイド(第6条)】だとする方がおられるが、事実上【ジェノサイド】のそもそもの語源(WW2戦後作られた合成語)や法的定義があることすら知らない方がいる。
どちらかというと日本人や自分の知見を上回る人物への【言論封じ】や対話や議論の【拒絶語】として使われている。用法としては【歴史修正主義】や【反知性主義】と同じ使われ方である。

【通称:南京事件】と呼ばれているが、その内容を【虐殺】という行為が行われたと主張する人々は、当時何が行われて、それが自分たちが定義する何かという認識・議論を省いて、メディアや学術界が主張していることだけをとって【虐殺】が行われたとしている方が多い。
明確に【南京大虐殺】は【歴史的に事実】とか【学問的に確定された事実】、【通説】であるという主張(あ)がなされて、【変更不可能】な【普遍の真理】のように言及されている。
その反面、内容は一切確認もしておらず、説明がなされていない人物が多い(前述主張(あ)を主張している方達のこと)。

そういう人々は、メディアや学術界の言及する情報のみで【共感覚幻想】の中に没入して、【疑問】や【異意見】をもたないように必要な知識の習得や議論、対話を怠っているのは、勿体無いのである。
以前【勿体無い】という言葉が、ノーベル賞をもらった環境保護活動家の合言葉だと紹介されたことがあったが、使い方は違うが、まさに【勿体無い】である。
現在は、さまざまなツールが存在し、情報の習得は過去にはありえないくらい可能になっている。
そういうツールがあるにも関わらず、情報収集をせずに閉じこもった思想に埋没するというのは本当に【勿体無い】話である。
過去は、自ら東京などの防衛省などに行って戦闘詳報などを閲覧するしかなかったし、書籍も図書館に、新聞も過去のものは新聞社に、論文は大学へ行かないと閲覧もできなかったが、現在はネットとPCがあれば閲覧できるのである。
外国語ができれば、他の大学の論文や資料も閲覧できる。

【南京事件】に関しては、【無知識】からくる【誤解】から、日本を含め世界でのあまりの多くの人数の方が、類似する幻想を持ちすぎることによって、現実に【悪】影響が出ている

【敵意】は【無知識】からくる【誤解】から生まれることが多い。
思う前に、想像する前に、【調べる】を行うことが、【和解】への道ではないかと考える。

若い人たち(中学生、高校生、大学生)には、若い人はリベラルな指向性の方が多いだろうから、そう行った方には特に【調べる】ことの重要性を認識してほしい。
【知ること】が【誤解解消】の手段であり、最良の方法でなのです。

参考文献
『Framework of Analysis for ATROCITY CRIMES』
多谷千香子『戦争犯罪と法』
添谷育志『大量虐殺の語源学―あるいは「命名の政治学」』



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