どこにでもある特別なニーズ
はじめに
筆者が通う大学は、決して偏差値が高いとは言えない大学である。
そんな大学には高等教育機関とは思えないほど難易度が低い授業があるが、そこにも理解が不十分で単位を落としている学生が多くいることに気が付く。
そのような学生の課題を完了する支援を友人として行ったことで、特別なニーズがどこにでもあることを知り、その支援が求められるべきだと考えた。
その経験と考察をここに綴る。
特別なニーズを持つ先輩
今学期、英語の授業を履修した。
筆者は英語科の教員免許取得に必要であるから履修したが、中学校程度の難易度のものであり、わからない学生はいないと思っていた。
以前から話したことのある4年生の先輩がその授業にいた。
明らかに特別ニーズを持っている。
憶測であるが、ある障害を持っているようである。
それが原因で、その授業を理解していないようであった。
彼は、「この課題わからん」と言いながら、授業の課題を提出せずに毎回ゴミ箱に投げ捨てていた。
ずっとスマートフォンを触り、周囲の人からすると態度が悪い印象であったようだ。
彼は決して反抗したいわけではなく理解することに困難を抱えてしまうのだから、仕方ないとも言える。
「わかりますか?」
明らかに困難を持っているため、善意で「わかりますか?」と聞いてみた。
サポートをしたかった。
彼は「わかってる!!」と大声で叫んだのだった。
今思えば、彼のプライドを傷つけるような聞き方であったかもしれないと反省している。
しかし同時に、そんな風に言わなくても良いのでは、とも思っている。
少しだけ傷ついたのだ。
「単位を出せない」
試験も投げ捨ていた彼に先生が伝えなくてはいけないことがあった。
日本語がわからない先生は8枚ほどのプリントを見せて筆者に通訳を頼んだ。
大声で言われたあの記憶が蘇り、少々戸惑った。
しかし、意を決して言った。
「あなたを嫌な思いにさせるつもりはないんだけど、このプリントを終わらせないと単位をもらえないらしい。」
「分かった。やるぞーー!!筆者くん、手伝ってくれ!」
彼にやる気があるのなら、手伝うつもりでいたこと、今もそうつもりであることを伝えた。
「俺の恩人だよ!」
筆者もするべき課題があったが、彼を見ながらゆっくり進めるしかなかった。
彼に教える横で、筆者と同じ課題をする友人はすぐに終わらせて帰っていった。時間がかかった。
彼には若干の文句を言ってやった。
「叫ばれても、こうやって手伝ってあげてるんだ。感謝しろよ。」
続けて、こう伝えた。
「誰にだって出来ないことがある。だけど、先輩はやろうとしていない。難しいと思ったら、誰かに手伝いを求めることも自立の一つだ。」
筆者は1時間で終わる課題を5時間かけながら、彼の課題を終わる手伝いをした。
そして、彼は満面の笑みでこう言った。
「終わった!ありがとう!本当にありがとう!筆者くんは俺の恩人だよ!!」
なんだか、筆者まで嬉しい気分だった。
「そこまでやらなくてもいいのでは?」
この話を友人にすると「そこまでやらなくてもいいと思う」と必ず言われる。
授業中にスマホを触って先生の話を聞いていないことも多く、それは周囲の人からしても明らかに気になるほどであった。彼のことを嫌う人も多くいた。
確かに、そこまでやらなきてもいいかもしれない。
「でも、やらなくてはいけない。」
何故だか分からないが、そう感じた。
彼のことを放って置けなかったのだ。
これが、支援だと思うから、特別支援教育を学ぶ者として放って置けなかった。
愛を持って支援をできる人になるための練習だと思った。
おわりに:特別なニーズ@社会
英語の講義であることから、障害に対する理解がされていない環境であった。しかし、彼は明らかに支援を必要としていた。
筆者の大学には彼以外にも特別なニーズを持つと思われる人が複数在籍している。
このことをきっかけに、大学でどのような支援を行えるかを考える必要があることを知った。
大学に特別支援教育はなく、すべてが通常学級のようである。
特別なニーズを持っていても、支援も理解もない環境で努力する決断をしたことを尊重しなくてはいけない。
それを尊重する方法として、特別なニーズを持つ人の理解と適切な支援の模索を行える社会であるべきである。
つまり、社会での受容が求められる。