「聖書」から「特別支援教育」を考える
はじめに
筆者はキリスト教徒である。
当記事の内容は、アメリカ留学中に筆者が教会に通いながら、聖書の御言葉を用いて専攻の特別支援教育について考察したものである。
なお、当記事は筆者の考えを紹介するもので、キリスト教の教えを宣教するものではない。
また、前提として宗教と教育実践は分離されるべきであると考えている。
100人中1人の特別なニーズ
まず、「迷い出た羊」のたとえという有名な話がある。
それは、特別ニーズをどう捉えるかを示していると筆者は考える。
100匹の羊のうち迷い出た1匹を探しに行ったというイエスのたとえ話だ。
特別支援教育は特別な教育的ニーズがある児童生徒を支援するものだが、このたとえ話も特別な捜索ニーズがある羊を満たしたというものだ。
99匹の羊が置き去りとの指摘ができはするが、彼らはニーズがないから支援の必要がない。
しかし、他の羊が迷い出たら、その羊飼いはまた探しに行くだろう。
これが最も良く特別支援教育を表している聖書の箇所である。
敵を愛しなさい
子どもと関わっていると傷つくことが多々ある。
支援の必要があると思い「手伝おうか?」と聞くと、怒って叫ばれることもあれば、面と向かって「嫌い」と言われることだってある。
そこで、下記の聖書の箇所を心に刻んでいる。
関わってきた子どもを「敵」だと思った経験は筆者にはないが、正直に言うと関わりづらい子どもと関わることを嫌だと思った経験はしたことがある。
だけど、それでも見返りを求めずに善いことをするのが、キリスト教的な支援である。
しかし、嫌な思いをさせられたからと言って、その児童生徒とのかかわりを絶っていいのだろうか。
イエスは以下のように話す。
この聖書の箇所は、嫌な思いをしなさいと言いたいのではない。
嫌なことをされても憎むな、と言いたいのだ。
この箇所にある「悪人」のように、児童生徒を「悪い子」と認識してしまうこともあるだろう。
しかし、「求める者には与えなさい。」とあり、それでも児童生徒に支援をしなさい、と読み取ることができるのだ。
許しなさい
キリスト教の重要な教えの一つに「ゆるし」がある。
イエス「ゆるし」については以下のように話している。
当記事で既に記してとおり、子どもとの関わりの中で傷つけられることがあるがそれでも子どもを許すよう必要性を説かれているように思えてならない。
人は皆過ちを犯すのだから、それを許せる人になりなさい、とイエスは説いているのだが、それは教育者になれば子どもとの関係の中で重要である。
隣人愛
キリスト教で最も大切な教えは隣人愛である。
隣人として愛するとは、他人を自分のように愛することなのである。
キリスト教が大切にしている隣人愛を最も良く表している聖書の箇所として善きサマリア人のたとえが有名だ。
当時は迫害されていたサマリア人が山賊に暴行を受けた人を救うというものだ。
その最後に次のようにある。
ただ、周囲の人に優しくするのではなく、優しい行いをしに行くのが隣人愛である。
そして、子どもを隣人として愛するのだ。
人にしてもらいたいことは
この聖書の箇所の関する説明は不要だろう。
障害がある児童生徒の立場になったときに、教師にしてもらいたいと思う支援をしなさいとあるようである。
おわりに
「聖書」から「特別支援教育」を考えるということは、子どもを隣人とし、彼らに傷つけられても許し、自分ごととして愛し、適切な支援を行うことなのである。
日本の特別支援教育は、キリスト教大国であるアメリカの制度を参考にしている。
だから、キリスト教の聖典である「聖書」を用いて特別支援教育について考察するということは、日本の特別支援教育の基礎中の基礎を作った人の意図を知る手がかりになるかもしれない。
また、キリスト教だけでなく、他の宗教がどのような考えを持っているかを知れば、より深く特別支援教育の心を分析することができるだろう。