アニメぼっち・ざ・ろっく!「忘れてやらない」「星座になれたら」の制作時期考察、山田がアクロバティックだと判明する。
『ぼっち・ざ・ろっく!』最終回の文化祭ライブは、まるでライブを観ているような心地になる演出に心痺れた。
細やかな演出のひとつひとつをピックアップするのもいいかもしれないが、今回は前回に引き続き、
アルバム『結束バンド』収録曲が、作中内時間のいつごろ制作されたのかを検討していきたい。
第3回目は、文化祭ライブに焦点を当てる。
10月2日(日)秀華祭2日目
『ぼっち・ざ・ろっく!』1期最終話に行われた文化祭ライブのセットリストは、
1.忘れてやらない
2.星座になれたら
3.???
この3曲である。
セットリストのうち、アニメ本編で演奏されたのは「11.忘れてやらない」と「12.星座になれたら」である。
3番目の曲は不明であり、これも検討が必要なものになるわけだが、
今回はその2曲の歌詞と曲がいつできたのかを検討していく。
(3曲目がなにかについては、字数が増えてしまったので次回にまわす)
本noteを読むだけでも楽しめる内容になるよう努めたが、
シリーズを通しても読んでいただけると、より理解が深まると思うので、ぜひ。
第1回
第2回
「11.忘れてやらない」はいつ作詞・作曲されたか
「11.忘れてやらない」は、リリックライターとしての後藤ひとりにとって、転換点となる曲のひとつだと考えている。
ぼっちにとって「青春」というワードは、【2話】に登場する、あるいは楽曲にもなった「青春コンプレックス」という語句から察せられるように、
自らの劣等感を過度に刺激する言葉であり、自らとは縁のないものであると考えていたはずである。
しかし、結束バンドとしての活動を続けるうちに、自分自身が「青春」の真っただ中にいるという自己矛盾に気付いてしまった。
自己矛盾とは、ひどく厄介なものである。
すこしだけ寄り道をして、夏目漱石の「こころ」の話をする。
「こころ」に登場するKは、精進という言葉を好み、修行僧のような向上心をもって勉学に励み、道のためにはすべてを犠牲にすべきという哲学を持っていた。が、下宿先のお嬢さんに恋をする。それはKの道に背くものであったけれども、どうすることもできない。そこで「私」は、例の言葉を口にする。
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
その言葉にすっかりやられたKはやがて、自殺への道へ進んでしまう……。
「こころ」は今でも充分通用する根源的なテーマを扱い、そして僕らの多くも、少なからずKが抱えるような自己矛盾と共生している。
もし僕が「青春」にアレルギーを持っていたとして、ぼっちと同じ境遇になってしまったら……つまり自らもどっぷり青春を謳歌してるではないかと気づいたとしたら。
きっと僕だったら、自分自身を見つめるばかりになって、歌詞なんてなにも書けなくなってしまうだろう。
では後藤ひとりはどうしただろうか。
後藤ひとりは、詞を書いた。
後藤ひとりは自らに青春は似合わないとしながらも、それ自体を拒絶することなく、確実に自分のなかで消化(昇華)している。
劣等感と優越感、そのどちらかがどちらかを食い殺すのではなく、どちらも自らのなかで飼っている。
双方ともに暴れることもあるが、その絶妙なバランス感覚にはただ関心と憧憬である。
ではぼぼっち自らが青春を謳歌していることを自覚し、そして受け容れたのはいつだろうか。
それは8話の台風ライブ後、ぼっちが自らの夢を虹夏に伝えたときだと思われる。
この決心は、結束バンドのメンバーとしてこれからやっていきたいという意味のほかに、この4人で現在進行形の「人生の中間」を歩んでいきたいという願いも込められている。
「11.忘れてやらない」は台風ライブが明けた8月15日~8月20日ごろ【9話0:09~2:08】までのあいだに書いたのだと思われる。
(それ以降はどんどん気分が下がっていき、8月31日にはスターリーの入口に蝉のお墓をひたすらつくるほどのどん底に至る)
また山田の作曲は今後のことを考えると、遅くとも9月1日までに編曲まで完成していると思われる。
これは、次の項目の結論から逆算した結果であるが、
では「12.星座になれたら」の作詞を考えていきたいと思う。
「11.忘れてやらない」はいつ作曲されたか(2023年1月20日追記)
本note公開後にTwitterにてご指摘があったのだが、
【10話3:57】OP明けの保健室シーンで、喜多ちゃんが聴いているのは「11.忘れてやらない」のデモ音源であると思われる。
この日は9月1日であり、故にその前日の8月31日までに編曲まで完成したと考えられる。
この場を借りて御礼申し上げたい。
ご指摘ありがとうございます。
「12.星座になれたら」はいつ作詞されたか
この曲にも当然様々な解釈があるが、喜多ちゃんに憧れつつも、これからも一緒にいたいと願うぼっちの心情を描いていると、僕は考えている。
故に、この歌詞は喜多ちゃんと心情的に近しくなった【8話】江ノ島探訪のあとで書かれたものであると思われる。
ちなみに別の解釈としては、ぼっちが虹夏に向けて書いたものという読みがある。
理由はいくつかあるが、まず星といえばSTARRYである。
すると「つないだ線 解かないで 僕がどんなに眩しくても」(1番サビ)の「僕」は、虹夏にとって眩しい存在であるギターヒーローである後藤ひとり、と解釈できる。
この解釈が通用するのなら、「星座になれたら」は台風ライブ後に作られたと言えたのだが、
やはりあまりに印象が大きいこのスタンザの存在を見ると、考えを改めざるを得ない。
ここで登場する「君」は、学校の人気者であり、スターリーのスタッフからも親しまれている喜多ちゃんを想起させる。
また、「君」の換喩的表現として「一番星」が挙げられる。
ここにもあらゆる解釈が出るが、2番の「満天の星」はまた別の意味(雑踏や無数の人、人混みなど、「僕」には関係のない人たち、あるいは「僕」も含めた無数の人)だと僕は考えている。
一方「いいや 僕は ずっと一人きりさ」と括弧付で対比させるところからして、「僕」は喜多ちゃんに憧れを抱くぼっちであると考えられる。
なお、この「」内の部分を、喜多ちゃんがぼっちに語りかけているという解釈もあるが、少なくともぼっちが歌詞を書いてる段階では、そうとは考えにくいのではないか、というのが僕の考えである。
というのも、江ノ島探訪の時点では、喜多ちゃんもぼっちに憧れを抱いていることは知らないはずである。
この歌詞が尊いのは、ぼっちは喜多ちゃんの本心を一切知らずに書いたのに、実は歌い手である喜多ちゃんの心情をも突いているという点である。
故に、歌詞に喜多ちゃんの歌が重なることで、「いいや 僕は ずっと一人きりさ」が、人気者が抱く孤独と含んだダブルミーニングになるのである。(早口)最高かよ。
また歌詞中の「僕」は一番星ではなく、「一番星」を見上げる側の人間であるため、やはりここは喜多ちゃんという羨望の的、憧れを「一番星」に据えたほうがぼっちの心情としては的確な気がする。
すると1番のサビ「つないだ線 ほどかないで 僕がどんなに眩しくても」は、先述のものとは異なり、
「君のかがやきで僕がどんなに眩しくしてても、君は僕とつないだ線をほどかないでほしい」という、「君」にすべてを委ねている様を謳う内容になる。
次に歌詞の1番と2番の冒頭を比べてみよう。
「もうすぐ時計は6時」と「もうすぐ時計は8時」で、2時間経過している。
2時間といえばぼっちの通学時間であり、これを考えるとそれぞれ「(スターリー、あるいは学校を出て間もない)下北沢の帰り道」と「帰宅したあと」と解釈することもできる。
6時の段階(下北沢)にはいる1番星であるが、8時の段階(地元)では満天の星に埋め尽くされて、どれが1番星かもう分からない。
そこで「僕」は一番星との「別れ」を彷彿させる。
これを『竹取物語』のかぐや姫が月を眺めて涙ぐむ姿をイメージさせるリリックはそれだけでも上手いが、このあとにサビが続くのがまたよい。
「いつの日にか別れが来る」……。
だからこそ「夜の淵(夜の深くて暗い部分)をなぞるようなこんな僕」は、「君」と「星座になれたら」と願うのである。
星座をなぞる線によって結びつけば、どんなに離れていても星座として共にありつづけることができるし、満点の星のなかでも見失うこともない、辿っていける。
そして最終的に「僕」は、こう締めくくる。
と、さらにどっぷりこの歌詞にひたっていたいところであるが、
これほどの情熱を注いだ歌詞をしたためるには、
・文化祭ライブ申込前で
・喜多ちゃんへ強い憧れが募った状態で、
・充分な創作意欲が湧出しており、
・自らが「青春」を謳歌している自覚と受容を持ち、
・ポジティブな心情の強いタイミング
である必要があろう。
これらを満たすシーンは、江ノ島探訪の直後しかないと思われる。
さらに願望として、金沢八景の弁財天像前の階段で書かれたものであったほしい。
根拠は一切ないが、この歌詞を眺めていると、夜空のもとでノートをしたためるぼっちの姿がありありと浮かぶのである。
しかし、もしこの歌詞が江ノ島探訪の日、すなわち8月31日に書かれただとするならば、ひとつ重要な、そしてこのシリーズ最大の問題が浮上する。
それは、
「12.星座になれたら」を作曲する時間がない、という問題である。
「12.星座になれたら」はいつ作曲されたのか
「12.星座になれたら」を作曲する時間がない、とわざわざ太字にしたわけだが、なぜか。
それは、文化祭ライブのセットリストが組まれたのが、9月2日であるからである。
その日、SICK HACKのライブを観終えた結束バンドメンバーは、ファミレスに立ち寄り、そこでセットリストが決定する。
以下、腹を空かせたベーシストシーンは省略し、台詞を書きだしてみよう。
重要な部分は太字にした。
「文化祭出るかもって言われ」た日は、この前日の9月1日、再生時間で言えば【10話6:32】のことである。
9月1日は、江ノ島探訪の翌日である。
そして9月2日の段階で、山田は「2曲目(「12.星座になれたら」)にはぼっちのギターソロを入れる」と言っている。
つまりもうこの時点で「12.星座になれたら」は存在している。
本シリーズ第1回目で、『ぼっち・ざ・ろっく!』内時系列を整理したときに、僕は軽く絶望した。
作曲できる余地のないスケジュールだから、これは明らかにおかしいのではないか、と。
この日が9月2日である根拠は、SICK HACKのライブ会場FOLTの案内板からである。
字が掠れて見づらいことも相まって、何度も日付を疑った。
あるいは、製作者のチェックミスなのかもしれないとも考えた。
僕がこのシリーズを思いつく前、当初考えてた文化祭ライブまでの流れはこうだ。
8月31日 江ノ島探訪
同日 ぼっち「12.星座になれたら」歌詞完成
9月半ば 山田「12.星座になれたら」楽曲完成
9月16日まで 文化祭ライブの存在を知る→応募
10月2日 文化祭ライブ当日
秀華祭ステージの募集〆切は9月16日であり、山田の楽曲制作スピードは2~3週間である。
これまでに「12.星座になれたら」の楽曲が完成させていれば、セットリストに組み込むのも自然である。
練習期間も約2週間あり、7月のオーディションを思えば、充分間に合う期間である。
だから新宿FOLTの「 /2」も、なにかの間違いなのではないか。
しかし、
8月31日に書かれた歌詞を9月1日に受け取り、9月2日のセットリストにその曲目を追加する流れが可能な選択肢が、たったひとつだけあることに気付いた。
それは、曲が完成する前にセットリストを組み込む流れである。
8月31日 江ノ島探訪
同日 ぼっち「12.星座になれたら」歌詞完成
9月1日 文化祭ライブの存在を知る
同日 ぼっち、歌詞を共有する。
同日 山田作曲開始
9月2日 文化祭ライブ応募。セトリに「12.星座になれたら」を組み込む
9月半ば 山田「12.星座になれたら」楽曲完成
10月2日 文化祭ライブ当日
僕は作曲者ではないので、果たして本当にこのような芸当が可能であるかは定かでない。
が、この流れ自体は決して不自然なものではない。
というより曲ができたあとでポンと文化祭の話が出てくるより、ある意味で現実的ともいえる。
この時系列が意図してなったのか、あるいは「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」案件なのかは知らない。
ただ、9月2日にセットリストを組む構成でも辻褄が合うアクロバティックな可能性を知ったとき、僕はこの作品が真の意味で化物であると悟った。
ご都合主義でない作品とは、こういうものを指すのではないか。
また作曲担当の山田にとっても、ただ博打的に未完成の曲をセットリストに入れたわけではない。これに似た状況は以前にもあった。
ぼっちが歌詞を書き、それを見て曲が浮かんでくる構図は、前回考察した結束バンド初のオリジナル曲「05.ギターと孤独と蒼い惑星」の流れと、まったく同じなのだ。
故に、山田なりに確信をもってこの曲を組み込むことができ、またメンバーもそこに信頼を置いていたのだと思われる。
(逆に言えばこの信頼があったからこそ【原作3巻39ページ】のエピソードは起こり得たともいえる)
それを踏まえて、先程書きだしたファミレスシーンの一部をもう一度ご覧いただきたい。
この時点で「12.星座になれたら」が完成していないと仮定すると、いくつか含みが増す台詞が出てくる。
まず山田の「文化祭出るかもって言われてから、ずっと考えてた」であるが、これはセットリストをどうするかという意味と、「12.星座になれたら」の曲をどうするのかを「ずっと考えていた」となる。
これは両方の意味で捉えることができるだろう。
次に虹夏の「おっ、いいねえ」であるが、これはセットリスト全体の評価であると同時に、未完成の「12.星座になれたら」を文化祭でお披露目することに関するGOサインともとれる。
(つまりこの時点で「12.星座になれたら」の歌詞はバンド内で共有されているということになるが、これは前日のバイト後がそのタイミングとしてありうる)
「2曲目(「12.星座になれたら」)にはぼっちのギターソロを入れる」という台詞は、既存の曲を改変してソロを組み込むという意味ではなく、新曲にはギターソロを入れるという意味に変化する。
前者と後者、どちらが困難であるかは僕にはさっぱりであるが、しかしどちらでも製作上可能であると思われる。
そして変更のなかで最も注目すべきは、最後の
「郁代とぼっち、2人の文化祭でしょ」である。
字面のとおりなのだが、重みが異なる。
現時点で、既存の曲は「05.ギターと孤独と蒼い惑星」「07.あのバンド」「11.忘れてやらない」、それから前回導き出した「01.青春コンプレックス」の4曲である。これだけで充分文化祭ライブに臨むことは可能である。
しかしそれでもあえて歌詞だけしかない「12.星座になれたら」を起用した。
それは、山田がこの曲をぼっちと喜多ちゃんの歌詞であると認識しているからであり、ライブが最高に盛り上がる方程式が、すでに山田の脳内で構築されていたということでもある。
さらに言えば、文化祭ライブに出るかも、という話のあとで作曲が始まったと仮定すると、曲にも文化祭のために作られた名残があるはずである。
というより、僕はこの曲を聴けば聴くほど、これが文化祭の話が決まってから曲がつくられたと思えるようになった。
では「01.青春コンプレックス」のときと同様の試みをしていきたい。
「01.青春コンプレックス」ではテクニカルなギターさばきを要するイントロと、最初のスタンザはベース抜きの構成であることに注目した。
一方「12.星座になれたら」のイントロはと言えば、強烈なベース音が印象的である。
感じ方には個性はあると思うが、アルバム『青春コンプレックス』の収録曲のなかで、最もベースが格好いい曲であると言える。
ベースはギターと比べると目立たないと言われがちであるが、ベーシストである山田は機会を見ては目立とうとし、洗脳を施そうとする。
アニメ本編に洗脳するシーンはないが、原作ではぼっちの妹ふたりの認識を改めるために洗脳を施そうとした。
このことを踏まえると、ロックに馴染みない一般高校生をベース沼に突き落とすには、文化祭ライブはもってこいの場であると言える。
イントロやアウトロ、ギターソロ後のリレンザが顕著であるが、耳に心地いいメロディアスなベースラインが頻出する。
僕は音楽に疎く、ベースの弦が4本であることも知らない人間であった。
一般高校生と同じかそれ以下のバンド認識であった僕であるが、アニメ最終話で初めてこの曲を聴いたとき、ベースって格好いいなと思ったし、似た感想を抱いた読者諸賢も数多くいると信じたい。
故に、この曲は全体を通してベキベキボンボンとキマるベース曲であり、それは山田が一般高校生にベースの魅力を伝える絶好の機会たる文化祭で披露することを念頭において編曲されたものであるからだともいえる。
「郁代とぼっち、2人の文化祭でしょ」と言っておきながら、フタを開けてみれば超絶ベース曲な点がまた山田ポイントの高さをうかがわせる。
ちなみにCD版を聴くと、まるでベースを聴けベースを、とでも言わんばかりにご丁寧に最初のスタンザはリードギター抜きの構成である。
これは先述の「01.青春コンプレックス」と対をなす構成で、これもまた興味深い。
以上のことから、「12.星座になれたら」は江ノ島探訪直後に歌詞を書き上げ、
文化祭ライブの話が持ち上がってから作曲が始まり、
セットリストに組まれたあとで曲が完成したと僕は考えている。
おそらく9月半ばごろのことだろう。
まとめ~判明している曲目とその制作時期~
最後にまとめとして、今まで紹介した曲目を制作時期順に列挙して終えようと思う。
「05.ギターと孤独と蒼い惑星」
詞先
作詞:6月8日(水)~10(金)ごろ完成
作曲・編曲:6月25日(土)までに完成
「01.青春コンプレックス」
曲先
作曲:7月2日(土)までに完成
作詞・編曲:7月上旬~中旬完成
「07.あのバンド」
作詞・作曲・編曲:7月末~8月頭完成
「11.忘れてやらない」
詞先
作詞:8月14日(日)~20(土)ごろ完成
作曲:8月31日(水)までに完成
「12.星座になれたら」
詞先
作詞:8月31日(水)~9月1日(木)完成
作曲・編曲:9月中旬完成
劇中歌と主題歌がいつ作られたのか、おおよその検討をつけることができた。
次回は、エンディング各曲やアニメ本編未登場の曲がいつ書かれたのかを考えながら、
最終話の文化祭ライブで披露されなかったセットリスト3番目の曲がなにかを考えていこうと思う。
今までのシリーズで導いてきたヒントを、ここに列挙する。
・過去、お通夜状態になった文化祭ライブにトラウマを持っている
・ライブが最高に盛り上がる方程式が、すでに山田の脳内で構築されていた
・ぼっちと喜多ちゃん、2人の文化祭だと把握している
このnoteが、皆様のさらなる『ぼっち・ざ・ろっく!』と結束バンドの淵へ潜る一助になればさいわいである。
また、このシリーズを初めて読んで「よい」と思った方は、ぜひ第1回、第2回をご覧になるとより楽しめると思うので、ぜひ。
第1回
第2回
参考にしたnote
ここで、参考にしたnoteを列挙したい。
素晴らしい着眼点に新しい発見があったので、ぜひともご一読を。
掲載順番は、僕が「スキ」した順。
↑アルバム『結束バンド』の全14曲の感想を書かれていて、その愛がひしひしと伝わる。
↑「12.星座になれたら」の考察。ぼっちと喜多ちゃんの歌詞、という解釈が多くあるなか、こういう解釈もあるのだと発見があった。
↑前回noteでコメントを書いてくださった方の記事で、
宇宙規模での「12.星座になれたら」考証。指先の角度から夜空に光る「一番星」がなにかを考えるスタイルは斬新でとても衝撃的で、そしてロマンの塊であった。
またジャケットから読み解くというのは完全に範疇外の要素だったので、なお一層考察のしがいがあると再認識した。
個人的にあのジャケットは文化祭以後、結束バンドが配信を視野に活動を始めて以降に作られたものだと妄想しているので、もしそうなのだとしたらどのくらいの時期になるのかとても気になる。
↑哲学好きなのでこういうのホント大好物
↑「そう、関係性、そう、そうなんだよ!!」とめちゃくちゃ頷いた。
とても分かりみが深いnote。
他にも読みそびれてるものや、「スキ」を忘れてるものもあるかもしれない。
とにかく、さまざまな方のさまざまな『ぼっち・ざ・ろっく!』を知ることができて、とてもしあわせを噛みしめている。
次回も引き続き励もうと思った所存である。
第1回
第2回
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