同性なんて存在しない

自分は「同性」なんて存在しない、と考えている。他者はみんな異性だ。

外見で勝手に相手をジャッジできないし、するべきでもない。

しかしながら社会的な性(ジェンダー)において同性、ということは認める。

女子トイレに入る人間は、トイレにはゴミ箱が設置されているのが当たり前だと思っているし
(男子トイレにはないらしい)、夜道には十分気をつける。

似たようなストーリーを共有しやすい、という点で同性扱いはありうる。

互いの痛みも想像しやすいから、想像力の乏しくならざるを得ない異性よりは、警戒心をギラギラさせなくて済む。

もちろん他人なのだから、生理が軽い女は重い女の苦しみがわからない。
わからないまま「生理痛は辛くない」だの同性代表として宣伝されても困る。
知覚できるのは、せいぜい自身の痛みだけだ。



では、同性愛者という言い方はどうか。

自分はこれも、んんっ?と感じるのだが、それが当人にとって好都合であるうちは歓迎しておけばいいだろう。
人間が、言葉を使うべきだ、言葉にころされないうちは。

俺は男。
君も男。
愛し合っている。
つまり俺らはゲイカップル。

・・・という状況はあるだろう。

ここで自分が言いたいのは、あくまで「同性愛」という言い回しが適切な状況は一時的に過ぎなくて、
いつでも変わるかもしれないじゃん?ってこと。

今現在、男二人の愛が確認されたからといって、明日もそうかはわからない。
相手が実は男じゃないかも・・・と自身を疑いだしたら、じゃああなたの方も「男として〝男を〟愛す」ゲイの立場は崩れる。
男性同性愛者、という言い方も不適切になる。相手の方はもう、あなたと〝同性の〟男ではないようだから。

変わるものの方が当たり前で、変わらずにずっと止まる方が難しい。

恋愛/性愛の場合は、あなただけでなく、相手の性自認・性的指向も関わってくる。

たとえあなたが変わっていなくても、相手が変わっているかもしれない。
そうしたら今までの言葉や関係性はあっという間に「ちがう」ものになっていく。

わからない、変わるかもしれない、ものに対して、一方的に枠をはめるのは乱暴だ。

変わっていくかもしれなくても、せめて今だけはこういう関係でいましょうね、
くらい突き放して接することがやさしさだとおもう。

 だから「同性愛」という言葉は刹那的でいい。

#同性愛 #エッセイ #性 #セクシュアリティー

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