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鈴木大拙「禅と日本文化」 part.2

part.1はこちら




禅と剣術

刀とは武士の魂

忠義、自己犠牲、敬意、慈悲
無心ー生と死、善と悪、存在と非存在、あらゆる形態の二元論を超えること
→意識的な無意識

  • 無明-悟りの欠如、迷える状態

  • 住地-心がそこに留まって動かない地点

剣術の場合、敵があなたを打とうとした時、あなたの目はすぐに敵の剣の動きを捉え、その動きを追おうと努めるだろう。

だがそうなった瞬間に、あなたは自己の主人ではなくなり、確実に敵に打たれてしまう。これを「止まる」という。
→無明住地煩悩

自己を敵に対して定めた時、あなたの心は敵に持っていかれる。それゆえ、自己のことすら考えてはならない。
→つまり、主客の対立を乗り越えるということ。

剣士の「無意識」:自我の観念から自由になること
→彼は自分こそが主役であるはずの生死の運命をかけたドラマの、無関心な傍観者である。彼の関心は全てそこに払われている。
→その状況を主客二元論的に捉える立場を超えている。


不動智

不動智-無限の運動が可能になった精神

・観音菩薩(千手観音)
→観音の心が、この内の例えば弓を使うために「止まる」と、それ以外の九百九十九本の腕は何にも使えなくなってしまう。
そもそも、ひとつの胴体に千本の腕がついた姿は、観音菩薩自身にすら必ずしも期待されるものではない。
→「不動智」が実現されている限り、それらの腕を一斉に操作可能となる。

・素直な心を持つ者
→観音の並外れた存在感を認めて頭を下げる。
→単に観音の姿を見ただけ。

・知性のない人間
→そんなものはあり得ないと実在を否定する。

・道理をわきまえた者
→妄信も拙速な否定もしない。
→ひとつの対象を通して物事の道理を示すための仏教の智慧である事を見抜く。
そこには道理があると知るべき。


初心者は皆、「無明」と「煩悩」という最初の段階から始め、最後には「不動智」の段階へと到達する。
→そして最終段階に達した時、自分が最初の段階の隣に立っていることに気づく。

「無明」と「煩悩」
→仏教の学びの最終段階である「不動智」に融合する。

→そこでは知的な計算が失われ、「無心」や「無念」がどこまでも広がる。

心は完全に自律した存在となり、まるで田んぼに立つカカシのように、一切の思考や煩悩を抱かない。
→素朴な知性が自分自身に留まり、自己主張をしない。

心はひもにつながれた猫の様に扱うべき者ではない。心のことは心に任せ、その固有の本性に従い動き回れるよう、完全に自由な状態にしておくこと。


無心の心

自己を意識しない心。いかなる煩悩にも阻害されない心。
常に流れ、決して止まらず、また固まることもない。分別を産まず、全身を満たし、身体の隅々まで行き渡り、どこにも滞留しない。
もしどこかに休息所を見出すのであれば、それは無心の心ではない。


永遠のパラドックス

考えることが心の機能なのに、それを考えない状態に維持する心はどうしたら可能か。
つまりAがAでありかつ非Aであることは?
→東洋の思想や文化を学ぶ上で決定的に重要な点。


水月

-水のある場所ならどこにでも、月が自らを映すやり方を捉えること。

「映るとも月も思はず映すとも水も思はぬ広沢の池」

月には自己の影を映す意図はなく、池の側にも月を映す意図はない。
そこに人為的な計略は何もなく、全ては自然に委ねられている。
たとえ自らの影を映すための水がどこにもなくても、月の光はいつまでも変わることがない。
さらに言えば、膨大な水があろうと、小さな水たまりがひとつあるだけだろうと、月の光にとっては全く同じことである。


想起と予期

想起と予期は、意識が持つ素晴らしい性質であり、これが人間の心を低級な動物のそれから区別する。
それらは役に立つし、特定の目的の達成にも資する。だが、生死の問題に直に関わる行いに際しては、精神の流動性を妨げないよう、それらを放棄する必要がある。
「空」の哲学

「いづくにも心留まらば棲みかへよ長らへばまた本の古郷」

いつでもどこでも心が何かに執着したら、そこから急いで自己を引き離せ。少しの時間でも留まれば、そこが再びあなたの昔からの故郷となる。
・故郷=ある人が昔から持つエゴイズム的な自己


仏教:涅槃と輪廻

涅槃(生)と輪廻(死)を対照させ、涅槃を得るためには輪廻を越える必要があると説く。

「大涅槃を望むのが、生と死のカルマだ」

これはどうして言えるのか?
この答えは非合理的なものである。
しかし、そもそも人間の行いを評定する際、論理を至上の判定基準とするのは大きな誤りである。

日本の芸術で「妙」として知られるものは、物事を道理で判断するのをやめた時に生まれる。
実際のところ、独自の創造性を備えた作品はいずれも、合理的な企てを超えた無意識の産物である。
→禅師はこうした理由から、涅槃はそれを望まない場合において獲得できると主張した。

望むことは選ぶことであり、選ぶことは知的な営みである。
一方、涅槃は知的な営みの反対側にある。

つまり、いかなる知的な理解をも手放している時にだけ、私たちは生死を超え、「未生」という神秘的な領域の中で自由に作業できる。

「見識」や「思考」は知性の産物であり、どこであれそれが存在する場所では、「未生」や「無意識」の創造性は、あらゆる種類の障害に出会う。

知性は功利主義のためにあり、そこになんらかの創造性があったとしても、それは功利主義の制約の中で働き、その限界を決して超えられない。


剣術:死の芸術

誤った動きをした者は必ず命を失う芸術。
意識の中に死への思いがある限り、それは無意識的にではあれ不可避的に、当人が最も避けたい時にしている方向へと剣士を導く。

真の剣士は、道教的な意味での「至人」である必要もある。
中立でも無関心でもなく、超越が求められており、これこそが剣士の目指すもの。
自由のないところに創造性はあり得ない。


柳生の哲学

1.「手字種利剣」と「大河の剣」は同じ

-「手字種利剣」という言葉は謎めいている。しかし剣である。目に見えるものが見えない、その逆もまた真である。
→Aが非Aであり、非AがAである。
→二元論を超越する。


2.剣士が占めるべき「座」-水月

水面に自らを映す月のような速さで、自分の好きなように相手の間合いに入り込む。


3.神妙剣

-意識の領野の背後で働く「無意識」
原初の本能的で抵抗不可能な力が、意識的に蓄積された知識を自由に使えるようにするため、無意識を引き出し、それを精神の作用の全領域に占めさせる必要がある。


4.病や強迫観念

特定の先入観にとらわれない事


5.胴体と手足

見ることは心があれば可能だが、行うことにはそれ以上の実質性が求められる。
あらゆる動きは「空」から生じ、心とは「空」の動的な側面である。


そこには曲がったことや自己中心的な動機はなく、「空」とは裏表も嘘偽りもない真実。その存在と動きの間には何も介入し得ない。

「考えるのを諦めないかのように諦めよ。技に従わないかのように従え。
心に何も残さず、中身を一掃した状態を保てば、鏡は対象の像をありのままに映し出す。
まず心で見よ。次に目で見よ。最後に胴体と手足で見よ。
目が予期せぬ対象に直面した瞬間の瞬きを恐れるな。それは自然なことである。

私は一日中ずっと動きながら、全く動いていない。私は、絶えずうねり続け揺らぎ続ける波の下の月のようだ。
病と一緒に歩み、共にあり、付き添い続けよ。それが、病を払拭するための方法である。
技が意識から独立したかの様に胴体と手足で動けば、剣術を会得したといえる。

自身を木彫りの人形とせよ。それは自我を持たず、何も考えない。そして胴体と手足を、積み重ねてきた鍛錬に従う形で動かせる様にせよ。それが勝つための方法である。」


一雲:赤子の様な純粋さへの回帰

人間の中の「天理」や「自性本然」の神秘的な働きを説明するため、私たちは多種多様な表現を用いる。
だが、主なものは、人間が元々そうであったもの、つまりは赤子の様な純粋さへの回帰である。
それは「太極」あるいは「自然」、無為や「空」の状態などと称される。

とはいえ、大抵の人々は、こうした真実を直接的に見るのではなく、言語や自分の解釈にしがみつき、自己をひたすら罠にかけ続けながら、最後には抜け出せない落とし穴に自ら落ちる。

そうした人々には、一度、自分が赤子だった頃に立ち戻らせ、赤子がどう行動するかを考えさせよ。

現在の私たちは、自分の人生を犠牲にし、ひたすら悪魔じみた小賢しさを恥ずかしげもなく用いる寸前の状態にある。

だからこそ、俗世間で得られるものに対する赤子の反応の仕方を見てみよう。

帝国が与えられたり、誉れ高い勲章を授かったりしたからと言って、彼が喜びに感極まるだろうか?
むしろ、それらを一瞥すらしないはずである。

赤子は大人の世界を何も知らないだけだ、という人もいるかもしれない。
しかし一雲はこう反応するだろう。

「大人の世界にいったい何の価値があるというのか?それらはすべて、虚栄の中の虚栄である。赤子が関心を抱くのは、絶対的な原罪だ。
彼は過去を想起せず、未来を予期することもない。それゆえ、彼は自由であり、恐れを知らず、不安や心配もなく、「何かをする勇気」も持たない。」


成熟するとは、概念の奴隷になることを意味しない

むしろ、自己の奥深くに何があるのかを悟る事だ。

それは「良知」「誠」「敬」「端的」である。

人はどれだけ年を重ねたとしても、それらが古びたとは感じないだろう。


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