JOG(903) 頼朝が生んだ幕府体制の叡知
武家が実権を握る新しい時代に、源頼朝は日本の伝統的叡知に根ざした幕府体制を生み出した。
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■1.「守護・地頭」って何?
東京書籍版(以下、東書版)では「鎌倉幕府の始まり」と題して、次のように述べている。
そもそも守護、地頭とはどんな役職なのか説明もない。「義経をとらえることを口実に」と頼朝の腹黒さを強調したいようだが、守護・地頭を置くことと義経をとらえることが、どう繋がっているのかチンプンカンプンなので、その魂胆は不発に終わっている。
守護、地頭とは何なのか、それらを頼朝は何のために置いたのか、そうした疑問を追求してこそ、歴史の面白さが出てくるのだが、これでは「鎌倉幕府、守護、地頭」などと、意味も分からない中学生に機械的に丸暗記させる受験勉強でしかない。
自由社版では、「鎌倉幕府の成立」の項でこう述べている。
守護が「軍事や警察の仕事につき、地方の政治に関与」、地頭が「年貢の取り立てや、土地の管理」と説明されているので、東書版よりもだいぶましである。地方行政、治安維持、土地所有権管理と税の徴収なら、全国統治の仕組みとして必要なことが分かる。
■2.将軍と守護・地頭の公的な関係
歴史学者・村尾次郎氏は守護・地頭の意義について、こう述べている。
この一文からは、次の2点が窺われる。
第1に、守護も地頭も、それ以前の律令国家の仕組みを手直しして、実質的な権限を握ろうとしたことである。しかも「官の公認をとって実施したもの」で、天皇と朝廷の権威のもとに行われた改革であった。武家が政権を握ったと言っても、天皇の権威のもとで、従来、貴族が握っていた権限が武家に移ったということである。
第2に、頼朝が自分の御家人を守護や地頭に配した点。これは自分の部下に対する論功褒賞をしたというだけではない。建久3(1192)年、頼朝は朝廷から、征夷大将軍の称号を与えられた。これにより、頼朝とその家来たちの私的な主従関係は、国家のなかでの将軍と守護・地頭という公的な関係に位置づけされた。
すなわち主君への忠義が、国家への忠義ともなったのである。地方豪族に私的に仕える武士は単なる「家人」だが、朝廷から任ぜられた征夷大将軍に仕える武士は「御家人」なのである。
■3.天皇の権威のもとでの「征夷大将軍」
皇室の権威のもとで実権を握ろうとする頼朝の考えは「征夷大将軍」の称号にも見てとれる。
ここでも頼朝は、歴史的な伝統に則り、あくまでも天皇の権威のもとで実権を握ろうとした。貴族政治から武家政治に代わっても、天皇の権威のもとで統治者としての正統性を得るという構造は同じである。
■4.「朝廷の権威は最高のものとして心の中にいきており」
朝廷の権威を大切にする頼朝の姿勢は、当時の社会が必要としていたものであった。この点を、村尾氏はこう説明する。
古代の律令国家の秩序が崩れた後に現出した乱世をまとめるには、中国であればすべての対抗勢力を打倒して、新たな皇帝として権威と権力を打ち立てるしかない。それには長期間の戦乱がつきものである。
我が国では、朝廷の権力は崩れたが、権威は人々の心の中に残っていた。そこで頼朝は律令制の伝統を受け継ぎつつ、朝廷の信任を受けた新しい統治者として登場したのである。
東書版では「頼朝は義経をとらえることを口実に朝廷に強くせまり」とあるが、それは単に朝廷を騙したという事ではない。
朝廷の側でも、たとえば義経が不平を持つ武士や農民を組織して、頼朝に抵抗すれば、全国的に戦乱が続いてしまう[4,p237]。朝廷が国家統合の権威の源泉として、頼朝を統治者として承認し、守護・地頭など統治機構を整備させたのは、国全体の早期安定を図るためにも賢明な施策であった。
■5.「北条政子のうったえ」
頼朝の死後、妻・政子の実家、北条氏に実権が移った。頼朝の子・頼家は二代目将軍についてが、粗暴を理由に伊豆の修善寺におしこめられ、ついには殺される。後を継いだ弟の実朝も暗殺され、将軍家は断絶した。
これを機に、将軍職を返上すべきとする後鳥羽上皇と、上皇の皇子を将軍に迎えて幕府を続けようとする北条氏との対立が決定的となった。承久3(1221)年5月、後鳥羽上皇は北条氏追討の軍勢を全国に呼びかけ、鎌倉御家人の中にも朝廷側に走る武士も出た。
東書版は「後鳥羽上皇が幕府に対して兵をあげると、頼朝の妻・政子は、鎌倉の武士たちに、頼朝の御恩を説いて結束をうったえました」との説明書きの下で、「北条政子のうったえ」を次のように伝えている。
■6.「その場合はやむをえない、弓矢を捨てて降参せよ」
「部分要約」と断ってあるが、要約されていないところに重大な箇所がある。このあたりを、村尾氏はこう記している。
すなわち、御家人たちは今まで、将軍の命令は天皇の命令であり、彼らは常に「官軍」として胸を張って戦うことができた。それが今度ばかりは、もしかしたら後鳥羽上皇御自ら官軍の先頭に立って、自分たちは「賊軍」になってしまうかもしれない、という立場に追い込まれたのである。
10万余旗を引き連れて出発しながら、途中で引き返したという所に、泰時の動揺ぶりが窺われる。
■7.「朝廷は逆臣のために誤られて道に合わない勅令を発し給うた」
「北条政子のうったえ」は、こういう動揺の中で出されたもので、いかにも「尼将軍」とまで呼ばれた断固たる意思を示している。しかし、その北条政子にしても、「後鳥羽上皇を討て」などとは言っていない。村尾氏は「北条政子のうったえ」をこう要約している。
政子が訴えたのは、朝廷を敵とするのではない、朝廷を誤らせている「逆臣」を退治せよ、という事である。この論理によって、朝廷に対する公的な忠義と、幕府・頼朝に対する私的な忠義の相克対立は消え去り、動揺は収まった。
「北条政子のうったえ」は、天皇は国家統治の正統性・権威の源泉であり、実際の政治を行う権力者ではない、という我が国の政治的叡知の伝統に則ったものであった。
逆に言えば、自ら武士を招集して、幕府討伐に立ち上がった後鳥羽上皇の行為は、この叡知の伝統から踏み外したものであったということができる。
「北条政子のうったえ」を紹介するなら、ここまで説明すべきだろう。東書版の「部分要約」では「山より高く、海よりも深い」頼朝公への私的恩義のみが言及され、当時の武士たちが朝廷の権威をいかに恐れ、政子がその動揺を抑えて、公的な忠義をいかに回復させたか、という我が国歴史の根幹には触れていない。
■8.日本の政治的叡知に根ざした幕府制度
鎌倉からの大軍は朝廷側の軍勢をあっけなく破った。戦後処理として、後鳥羽上皇は隠岐に、その皇子である順徳上皇は佐渡に送られた。同じく皇子にあたる土御門上皇は事変には関わりがなかったが、両上皇の配流を見るに忍びず、進んで土佐に移られた。
北条一門は、三上皇を遠島に配流する名分を「天下万民のため」とした。そして土御門上皇の皇子の仲恭天皇にかわって、後鳥羽院とは別系の後堀河天皇が皇位を継がれた。
他国なら、ここで皇室など廃止して、北条氏自らが新たな皇帝となる所だろう。しかし、我が国においては、天皇の権威のもとで、自らが統治者としての正統性を得て、国家を統治するという頼朝の発案した幕府制度がそのまま継続されたのである。
この幕府政治は、江戸時代末まで700年近く続いた事からも、日本の政治伝統に根ざした叡知であったことが分かる。さらに明治以降の帝国憲法も、現在の日本国憲法にしても、統治者の選び方は変われど、天皇が統治者に正統性を与える、という点では変わらない。
武家が実権を握る新しい時代に、日本の伝統的叡知を幕府政治という形で具現化したのが頼朝であり、それを現実政治の中で確立したのが北条氏であった。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み
2.藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
3.村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
4. 上横手雅敬『日本の歴史文庫06 源平の盛衰』★★、講談社、S50
■おたより■
■編集長・伊勢雅臣より
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