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JOG(544) 河口慧海の探検(上)

仏教原典を求め、慧海はインド、ネパール、チベットを6年間、旅した。


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■1.「雪と岩の間を旅する」■

 1900(明治33)年7月4日、河口慧海(えかい)はネパールとチベットを分ける峠の頂上に立った。岩場の雪を払って、荷物をおろし、一息ついて南方のネパール側を眺めると、ヒマラヤ山脈の白い峰々が虚空にそびえている。

 北方に目をやれば、初めて見るチベットは、山々が波を打ったように重なり合い、その合間を縫って雲間から幾筋かの川が光っている。

 3年前の明治30年6月に神戸港を出発した時、チベットに入るには三年かかるだろうと考えたことを思い出した。その計画通り、3年後の今、自分はここにいる。腹の底から愉悦の感情がこみ上げてくるのを感じた。

 麦の粉に雪とバターをこねただけの簡単な食事を終えると、慧海は立ち上がり、これまでと違って雪深い北側の斜面を、一歩一歩降りていった。慧海は、それまでの旅を、

空の屋根土をしとねの草枕雲と水との旅をするなり

 と詠んだが、それから後の旅は「空の屋根雪をしとねの岩枕」で、「雪と岩の間を旅するやうな訳で御座いました」と『西蔵旅行記』に書いている。

■2.「神秘の国」チベット■

 チベットは、南をヒマラヤ山脈、西をカラコルム山脈、北を崑論山脈に囲まれた、日本の6.5倍もの面積を持つ世界最大の高原地帯である。

 この高地にチベット民族は大乗仏教を核とする文明を築いてきた。1642年以来、チベット仏教の活仏(かつぶつ、仏の転生者と考えられている高僧)ダライ・ラマが代々統治してきた。

 19世紀に入るとチベットは外国に対する警戒心から国境を閉ざし、鎖国体制をとった。実際に19世紀初頭から20世紀初頭にかけて、西はコーカサスから東はチベットに及ぶ広大な地域で、南下を狙う帝政ロシアと、それを封じようとする大英帝国との間で諜報合戦が繰り広げられており、チェスに見立てて「グレート・ゲーム」と呼ばれていた。

 慧海がチベット行きの準備として、インドの高原都市ダージリンで師事したインド人チベット学者サラット・チャンドラ・ダースも、実は英国の秘密調査員であり、2度もチベットに潜入して、地理・社会・経済・政治などの調査を行っていた。これがチベット側に発覚し、ダースに接触したチベット人達が死刑・投獄・財産没収などの処罰を受けている。

 こうした鎖国体制と、世界の秘境とも言うべき地理的特性が相まって、チベットは「神秘の国」と呼ばれ、世界中の探検家、学者の関心を引きつけていた。

 また仏教学者にとっても、チベットは「神秘の国」であった。チベット人は7世紀には独自の文字を持ち、8世紀後半からは、その文字を用いて仏典翻訳の大事業を推進した。その結果、チベット大蔵経がまとめられたのだが、インド本国で散逸してしまった教典も含んでおり、仏教原典を求める学者たちがその入手のためにチベット入りを志していた。慧海もその一人だった。

■3.「一切衆生(生きとし生けるもの)は皆我が子」■

 河口慧海、幼名・定次郎(さだじろう)は、明治維新の2年前、慶応2(1866)年に和泉国(大阪府和泉市)堺に、樽職人の長男として生まれた。信心深い両親のもと、幼い頃から信貴山、高野山などの仏教聖地に親しんで育った。

 15歳の時に読んだ『釈迦一代記』で、長い修行の末に悟りを開いた釈迦が「一切衆生(生きとし生けるもの)は皆我が子」と言って、衆生救済の決意を胸に山を降りる姿に激しく胸を揺すぶられた。そして自分も出家して、衆生救済のために一生を尽くしたい、と願うようになった。

 家業を継がせたいと願う両親に、定次郎は出家の希望を説き続けた。明治20(1887)年9月、仏教界の人材育成を目指す哲学館という学校が東京に開かれた。定次郎はそれに入学すべく、ついに両親を説得して、翌年春に上京した。23歳の旅立ちであった。

 東京では、授業料と生活費の月4円を、朝の5時から午後2時まで団扇(うちわ)作りをして稼ぎ、その後、一時間歩いて哲学館に通う、という極貧の苦学生生活を送った。

 明治23(1890)年、定次郎は数え年25歳にして、東京の羅漢寺にて得度を受け、慧海の名を与えられた。

■4.「ネパール或は西蔵(チベット)に行かなくてはならぬ」■

 慧海はその後、宇治の万福寺・別峯院に2年ほど籠もって、仏教聖典の総集と言うべき大蔵経の読誦に取り組んだ。それらの教典を分かり易く和訳して広めたいと志したのである。

 しかし、そこで一つの問題に突き当たった。例えば『法華経』の漢訳は3種類あるが、それぞれにかなりの相違があった。

 素人にも解り易い経文を拵(こしら)へたいと云ふ考で漢訳を日本語訳に翻訳した所が果たしてソレが正しいものであるかドウか、サンスクリットの原書は一ツでありますが漢訳の経文は幾つにもなッて居りまして・・・甚だしきは全く其意味を異にして居るのもあり・・・何れにしても其原書に依つて見なければ此経文の孰(いず)れが真実で孰れが偽りであるかは分からない、是は原書を得るに限ると考へたです。(『西蔵旅行記』上巻、1-2頁、[1,p98])

 しかし、どこでサンスクリット語の原典を得るか。

 大乗教の仏典なるものは仏法の本家なる印度には跡を絶ッて今はネパール或いは西蔵(チベット)に存在していると云う。其原書を得る為には是非ネパール或は西蔵に行かなくてはならぬ。(『西蔵旅行記』上巻、2頁、[1,p100])

 ネパールでサンスクリット語の仏典を発見したのは、19世紀前半に英国東インド会社の駐在公使として21年も駐在したブライアン・ホートン・ホジソンであった。ホジソンは集めた大量の仏典をロンドン、オックスフォード、パリの図書館や研究機関に送り、ここからサンスクリット語による大乗仏教の研究というまったく新しい学問分野が開けていった。

 これに刺激されて、日本仏教界でも、仏典研究において西洋諸国に遅れをとってはならないと、チベット仏教探訪の必要性が唱えられていた。例えば、慧海の哲学館での同窓生である能海寛は『世界に於ける仏教徒』の中で、次のように唱えていた。

 日本仏教徒の責任として、同じ大乗仏教国であるチベットを探検し、仏典の原典や釈尊の正伝を探究するとともに、両国仏教徒の団結を計り、閉鎖国チベットの発展を図らねばならない。特にロシアが北から、イギリスが西から、フランスが南から、そして支那が東から迫っていて、チベットが一大戦場になりかねない今日、これは一日も猶予できない、と。慧海もまさしく同様の考えであったろう。

■5.「何ぞ旅行費なきを憂へんや」■

 明治30(1897)年6月26日、慧海は数人の知人に見送られて、神戸港から日本郵船株式会社の貨客船・和泉丸に乗って、出発した。日本にいても、チベットに関する正確な情報は手に入らない。とにかくインド辺りまで出かけてみるしかない、と考えていた。

 旅費の調達は思うに任せなかったが、「釈尊の教えられた最も謙遜の行乃ち頭陀乞食(ずだこつじき、食を乞いながら野宿などして各地を巡り歩いて修行すること)を行ふて行かんには何ぞ旅行費なきを憂へんや」という気持ちだった。そして大阪や堺の友人・信者たちが支援してくれた資金を手に、船に乗り込んだのだった。

 シンガポールで英国汽船に乗り換え、7月25日にカルカッタ港に着いた。この年、インドは大飢饉に襲われ、餓死者10数万人を出し、さらにペストが大流行していた。カルカッタに本部を置く仏教徒の組織・大菩薩会の救援要請に応えて、日本の各宗派が義捐金を送っていた。その縁で、慧海は大菩薩会に宿を提供して貰い、さらにチベット語を習いたい、との希望を聞いて、ネパール国境沿いの高原都市ダージリンに住むチベット学者サラット・チャンドラ・ダース(前述)への紹介状を書いてくれた。

 ダージリンに慧海は1年5カ月間滞在し、チベット語を学びながら、情報収集に努めた。ダージリンから北東に向かえば、すぐにチベットとの国境を越えて、首都ラッサに通ずる街道が延びていたが、いくつもの関所でチベット兵が厳しい監視を行っていた。

 慧海は、まずは大きく西に迂回して、ネパールに入り、そこからチベットへの道を探ることとした。1899(明治32)年1月5日、ダージリンを出発した。

■6.非常識な大回り■

 慧海はネパールの首都カトマンドゥの近郊に1カ月余り滞在し、各地から集まる巡礼乞食からチベットに向かう道の情報を集めた。カトマンドゥから北のヒマラヤ山脈を超えて直接ラッサに向かう間道はいろいろあるが、どれも12回も関所を通らねばならない。関所で尋問を受けたら、外国人でないかと疑われる危険が極めて高い。

 しかし、カトマンドゥからさらに北西に200キロほども迂回して、そこからチベットに入り、さらに200キロほど北西のマーナサロワール湖を回ってから、1000キロ以上も東のラサに向かう、というコースをとれば、関所を通らずに済む、という結論を得た。さすがにこんな非常識な大回りはチベット側でも想定していなかったのであろう。

 慧海はカトマンドゥから200キロほど北西のチベット国境近くの集落ツァーランに10カ月も留まって、土地の学僧についてチベット仏教を学びながら、さらにチベットへの潜入路の情報収集に努めた。じっくり時間をかけて慎重に情報を集めた上で断行するのが、慧海の身上であった。

 ツァーラン滞在中にも、慧海は15人ほどに酒を止めさせ、30人ほどに煙草の葉を噛んで辛い汁を飲む習慣を改めさせた。どの地にあっても、人々をよい方向に導く事が、菩薩道を行く者の任務と心得ていたのである。

 1900(明治33)年の新年を、慧海は例年のように天皇・皇后・皇太子の万歳を祝する読経式で迎えた。3月10日、百人以上の村人に見送られてツァーランを出発。 そして、冒頭に述べたように、7月4日、チベットに入った。日本を出てからすでに3年の月日が流れていた。

■7.「セライアムチ(セラの医師)」■

 慧海がチベットの首都ラッサに着いたのは、それから8カ月も後の翌1901(明治34)年3月21日であった。それからまもなく、中国人との触れ込みで、ラッサ北方の山裾にあるセラ寺に入学を許された。この寺はラッサ3大寺の一つと称せられ、当時7千人以上の僧侶が居住していた。

 ある日、散歩に出た慧海は、近くの僧坊の小僧が喧嘩で肩の骨を外して泣き叫んでいるのに出会った。多少、接骨の心得のある慧海が直してやると、これが瞬く間に大評判となり、病人が次々に押しかけてきた。仕方なく、慧海が中国商人の店から漢方薬を買ってきて、病人たちに与えると、薬など飲んだことのないチベット人には見事に効いた。貧乏人からは薬代もとらず、活きた薬師如来様かと崇められた慧海は「セライアムチ(セラの医師)」と呼ばれるようになった。

 この評判が法王ダライ・ラマの上聞に達して、目通りが叶った。法王は「長くセラに留まって僧侶及び俗人の病気を治すように」と述べた。これを機会に、慧海はラッサの多くの上流人士と交わるようになった。

 しかし、ダージリンで慧海に会ったことのある人物が、セライアムチは日本から来た秘密探偵だと言い触らした。危険を感じた慧海はすぐにチベットを脱出する覚悟を固めた。まず、ダライ・ラマ宛に「世界に大乗仏教を護持する2大国、チベットと日本が協力して、他の国々に正法を広め、衆生を涅槃に導く大方便を法王から授けて下さる事を請うために、自分はチベットに来た」との上書を書き上げた。

 ラッサで集めた書籍を荷造りしてカルカッタに送る手はずを整えた。さらにセラ寺での先生や保証人などお世話になった人々に金品を贈って恩を謝した。

 慧海がラッサから姿を消したのは、1902(明治35)年5月の事であった。400キロほど南西に一直線に下り、インドのダージリンに逃げ延びた。途中、5つの関所があったが、セライアムチの名声で押し通した。

■8.恩人救出のためのネパール入り■ 

 慧海は逃避行の途中でマラリアに罹り、ダージリンでしばらく静養を続けた。10月になって久しぶりにチベットからの一行がダージリンに到着したが、ラッサではセラ寺の教師や保証人など、慧海と接触のあった人々が逮捕されるとの報をもたらした。

 世話になった人々を罪に落としながら、自分一人逃げおおせるのは、日本人として耐え難いことである。慧海はその年のうちに、カルカッタに戻り、そこでつてを辿ってネパール国王への紹介状を得ると、再びネパール入りした。

 ネパールはアジアの新興国家日本に興味を持ち、初の海外留学生を日本に送り込んでいた。国王は慧海に会ってくれ、その熱情にほだされて、ダライ・ラマへの上書の取り次を約束してくれた。この上書は、恩人たちの釈放に一役買うことになる。

 1903年4月、慧海はボンベイから日本に向かう船に乗り込んだ。1カ月ほどの船旅であるが、故国が近づくにつれて、彼はこのまま帰るのが恥ずかしくなった。6年近くもインド、ネパール、チベットをさまよったが、自分はもとの凡夫のままである。しかし、一つの歌ができて、それが慧海の気持ちを軽くしてくれた。

日の本に匂う旭日はヒマラヤの峰を照らせる光なりけり

 仏日の光輝は至らぬ隈なく宇宙に遍満して居りますから何れの世界に行ッても修業の出来ぬ道場はない、日本も我が修行の道場であると観ずれば別段苦しむにも及ばない。

(文責:伊勢雅臣)

(次号に続きます)

■リンク■
a. JOG(123) チベット・ホロコースト50年(上) ~アデの悲しみ~  平穏な生活を送っていたチベット国民に、突如、中共軍が侵略を始めた。
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b. JOG(124) チベット・ホロコースト50年(下) ~ダライ・ラマ法王の祈り~  アデは27年間、収容所に入れられ、故郷の文化も自然も収奪された。
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■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け) 

1. 奥山直司『評伝 河口慧海』★★★、中央公論新社、H15 

© 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

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