JOG(243) 日本最強の外務大臣・陸奥宗光の外交に学ぶ外交術
卓越した外交力で清国を押しまくり、欧米列強の干渉を捌(さば)いた陸奥宗光の外交の基本を学ぶ。
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■1.中学生にでも務まる外交官!?■
日本外交の無気力状態が続いている。北朝鮮には膨大な米支援をしながら拉致された日本人は一人も帰ってこず、頭越しにミサイルを撃たれても人工衛星だと言い張られ、不法入国した金正日の息子は捕まえるどころか、恐る恐るVIP待遇で送り返す有様だった。
中国にも3兆円を超す膨大なODAを貢ぎながら、歴史教科書や靖国参拝で、叱られどおし。 2002年(平成14)年の北朝鮮難民が瀋陽の日本領事館に逃げ込んだ事件でも、中国の武装警察に踏み込まれて連れ去られるという主権侵害されながら、日本側からの同意があったとか、感謝まであった、などと、言われっぱなしだった。
援助はとられっぱなしで、何の国益にもつながらない。こんな外交なら素人にでもできるのではないか、と誰しも思ってしまう。わが国の外交は、昔からこんな「ていたらく」だったのだろうか?
いや、決してそうではない。明治の前半に日本の貧弱な国力にもかかわらず、卓越した外交力で清国を押しまくり、欧米列強の干渉を巧みに捌いて、見事な外交勝利を収めた外務大臣がいた。陸奥宗光である。今回は、陸奥宗光が日清戦争時に見せた外交手腕を辿ることで、現代の日本外交にいったい何が欠けているのか考えてみよう。
■2.情報収集■
日清戦争の原因を要約すれば朝鮮を服属国として自分の勢力下においておこうとする清国と、近代化もせずに朝鮮が惰眠を続けていれば、やがて南下するロシアに奪われて、自らの独立も脅かされると恐れた日本の争いであった。
朝鮮では政府の悪政への反感と攘夷思想から、1893(明治26)年頃から大規模な農民反乱(東学党の乱)が起きた。外国居留民は生命の危険を感じ、日本人は婦女子の引き揚げを準備し、男子は日本刀を携行して歩くという有様だった。朝鮮政府は清国に派兵要請を行い、北洋大臣・李鴻章は6月25日までに約3千の兵を派遣した。
東学党の乱が起きて以来、外務大臣・陸奥は十数年も朝鮮に滞在していた朝鮮問題の専門外交官に成り行きを子細にフォローさせていた。そして清国への派兵要請が決まった翌日には、その報告を受け、ただちに対応を始めた。
■3.政府方針の統一■
陸奥は、閣議で「清国が出兵すれば、朝鮮においてただでさえ偏っている日清の力の関係をもっと偏ったものする」として、「清国が出兵する場合は、わが国も相当の軍隊を出して、朝鮮における日清両国の力の均衡を維持すべきだ」と述べ、伊藤博文首相以下の各閣僚の賛同を得た。
明治15年の壬午(じんご)の乱、17年の甲申事変とも、清国側の優勢な兵力により、劣勢の日本兵力は惨敗し、朝鮮国内の親日勢力も一掃されてしまった。それでも日清両国間で、一方が派兵すれば他方も対等に派兵できるという条約が結ばれていたので、今回はこれをテコに対抗しようというのである。
日本側は秘密裏に派遣軍の編制を敏捷に進めたが、国内でも誰も気がつかず、政府批判者はしきりに朝鮮派兵を唱え、政府の怠慢を攻撃していた。派兵を決定した以上、清国との戦争になる可能性もある。その場合も考えて、陸奥は次のような方針を閣議決定した。
(1)清国との交渉の結果が出るまでは、日本軍の撤兵をしないこと。
(2)もし清国が日本の意見に同意しないとき、日本の独力で、朝鮮の内政改革を行わせる。
(1)は清国と朝鮮内政改革が合意に至れば、撤兵に応ずるが、(2)の場合は、日本単独の内政改革のために、清国の勢力を実力で排除する、という方針である。外交交渉といっても、一戦をも覚悟した上での交渉と、戦争を絶対に避ける事を前提とした交渉は自ずから進め方も内容も異なる。陸奥はこれからの対清交渉に際して、まずこの点での軍部も含めた方針統一をしておいたのである。
■4.ロシアの干渉■
陸奥の外交上の苦心は対清国だけでなく、日清の諍いに乗じて自らの勢力を伸長しようとするロシア、あるいは現状を維持して自らの既得権益を守ろうとする英国など第3国の干渉をどう防ぐかにあった。逆に清国側はこれら第3国の干渉を自らに有利に利用して、日本を押さえ込もうとした。
最初の干渉はロシアから来た。李鴻章が北京のロシア公使に調停を依頼したのを受けて、駐日公使ヒトロヴォーが陸奥に面会を求めてきた。ロシア政府は日清間の紛争が速やかに解決されることを希望すると述べ、清国が朝鮮から撤兵すれば、日本も撤兵に合意するか、と聞いた。
陸奥は既定の方針に基づいて、清国が日本と共同で朝鮮の内政改革にあたるか、日本が独力で改革を進めるのを妨害しないか、いずれかの保証を与えた上で撤兵するなら、日本も撤兵すると答えた。
ロシア政府は日本の態度が相当に硬い事を知って、さらに「日本が同時撤兵を拒否する場合は、日本政府は自ら重大な責任を負うことを忠告する」と通告してきた。ロシアからの宣戦布告も含めて、これから何が起こっても日本の責任だ、という脅迫である。
■5.ロシアの状況分析■
ロシアが対日戦争を決意していれば、これは重大な危機である。しかし、そこまでの決意があるのか。陸奥は伊藤博文首相と相談し、現時点ではロシアは実力で介入するほどには極東での戦備が整っていないという判断で一致した。そして新興のドイツ帝国の脅威を西から受けていたロシアは極東にまで力を割くことを好まなかった。またロシアの実力介入に対しては、英国やドイツの牽制も十分に期待できた。そこで陸奥は次のようにロシア側に回答した。
言葉は丁寧だが、内乱平定と内政改革が実現するまでは撤兵しないとの決意を示し、干渉を拒否したものだ。これに対するロシア側の回答は次のようなものだった。
ロシアは日本を脅して撤兵させ、あわよくば清国と朝鮮に恩を売ろうとしたのだが、日本の決意が固いのを見て、ついに干渉をあきらめたのである。ロシアの干渉が本腰ではない、と読んだ陸奥と伊藤の状況分析は正確だった。
■6.各国の立場、狙いを踏まえて■
日本側が「一戦も辞さず」との政府方針を統一し、正確な状況分析のもとで断固たる姿勢を示していたのに対し、清国側の態度は、日本を威嚇し、列強に牽制させればなんとかなろう、という場当たり的なものだった。
英国公使は清国政府が、朝鮮の内政改革と領土保全の二つの条件を承認すれば、英国は日本に撤兵の圧力をかけてみようと打診した。清国政府は、韓国が服属国に留まるなら、という条件で合意して、英国の日清調停が始まった。日本側は、無条件撤退のロシア案とは異なり、内政改革を認める案を出されては断れないので、在北京の小村公使を清国政府に接触させた。
ところが、清国政府は、ロシア側の干渉に期待していたため、まず日本が撤兵しなければ、協議に入らないと突っぱねた。小村公使は、英国公使に話が違うではないか、と抗議した。清国政府の二枚舌は、英国を大いに失望させ、日本はこの機会を捉え、英国の仲裁は失敗したとして「今後の事態の責任は清国側にある」と声明を出した。
英国はなおもあきらめずに提案を出したが、陸奥はもはや聞かなかった。その結果、英国は「今後、日清開戦があっても、上海は英国の利益の中心なので、上海およびその近辺では戦闘はしないよう約束してほしい」と申し入れしてきた。陸奥はもちろんイエスの返事をした。英国は既存の権益を守ることに主眼があるので、それが犯されない限りは、これ以上日本に圧力をかけることは意味がなかったのである。
米国も日本の強硬な姿勢を非難する警告を発してきたが、陸奥は米国公使に委曲を尽くして日本政府の立場を説明し、本国に報告させた。この根回しが、戦争終結時に米国の仲介を頼む伏線となった。当時の米国は清国にはいまだ利権も持たず、またその野心もなかったのである。
ロシア、英国、米国と、それぞれの立場や狙いを見極めつつ、陸奥は的確に各国の干渉を捌(さば)いていったのである。
■7.戦争終結の潮時■
7月25日の開戦後は、日本側が連戦連勝の勢いを示した。英露などの干渉は一応去ったが、日本が獲物を得ようとすればかならず実力を持って干渉してくる恐れがある、と読んでいた日本政府は、その前に一大勝利を収めて、要求を確保できるだけの立場を固めることを目指していたからである。
翌・明治28(1895)年2月には北洋艦隊の根拠地、山東半島の威海衛を占領、3月には遼東半島を完全に制圧し、さらに台湾占領に向かった。国内野党は勢いに乗じて、支那四百余州を列強と分割する、などと言い出していたが、伊藤首相は、もし北京を占領して無政府状態になったら、暴動が起きて列国が居留民保護のために干渉してくるし、また和平交渉の相手も失ってしまう、として、勝ち過ぎを戒めていた。
そこでアメリカの仲介を得て、3月下旬から、下関で李鴻章との交渉に入り、4月17日に以下の内容で合意に達した。
清国側は、日本側提案を英、露、仏の公使に通知し、日本側の条件の過酷なことを訴えていた。これを知った陸奥は、通商に関する部分を英国の新聞に掲載させ、各国も最恵国待遇(一国への最も良い条件は、他国にも平等に与えられる)により利益を得る部分があることを明らかにして、講和条約反対を封じる一手をうった。
■8.三国干渉、来る■
日本だけに獲物は渡さじ、と4月20日には早速、露仏独が日本の遼東半島保有は極東の永久平和の妨げになると、三国干渉を始めた。すでに日本の武力は底をついているので、ロシア海軍だけでも相手にできない状態である。陸奥と伊藤は、最後には譲歩せざるをえない、と腹を固めたが、すぐに受け入れては、連戦連勝に湧いた国内世論がおさまらないだろう。
そこで3国の日本大使に、それぞれの政府を説得させる傍ら、英米にも何らかの援助を得られるか打診をした。3国は要求を引っ込める気配もなく、英米も局外中立の意向であることがあきらかになると、国内世論も事の重大さに気がついて、粛然としてしまった。
そこで日本政府は「三国の忠告に基づいて、遼東半島の永久所有を放棄する」と明確な声明を行う一方、清国と批准書交換まで決着をつけて、その他の条件は確保しようとした。清国側はなんとか批准書交換を先延ばしにしたいという態度だったが、日本側が三国干渉をまるごと呑んでしまい、かつ休戦期間が過ぎれば日本軍の一斉攻撃が再開されるので、予定通りに進める外はなかった。陸奥はこう述べている。
ロシアはその後、日本が放棄した遼東半島を租借し、さらに大兵を満洲に送り込んで占領した。ドイツやフランスも利権を拡げる。準備も覚悟もないまま列強を日本への牽制に利用しようとした清国は、結果的には政治的無能ぶりをさらけ出して、以後、半植民地状態に転落していく。
■9.陸奥外交の示した原則■
陸奥の外交は、弱肉強食の帝国主義時代を生き抜くためのものであって、現代の感覚からその善悪を議論してもあまり意味はない。それよりも陸奥の示した外交術こそ、今の日本にとっても大いに参考にすべきであろう。
たとえば、(1)国際問題の起こりそうな地域を予測し、事前に必要な情報が集まるよう手配をしておく、(2)今後の起こりうる非常事態を予測して、政府内であらかじめ対処方針を統一しておく、(3)関係各国の立場、利害、思惑についての分析をもとに、余計な干渉を排除しつつ、利用しうる味方を増やす、(4)落とし所を探りながら、押すべき所は押し、引くべき所は引く、等々。
2002年(平成14年)の瀋陽事件では、これらは何一つとしてなされていなかったように見える。主権侵害には強硬に抗議すべきではあるが、その裏には、こうした周到な準備がなければならない。それがまったく出来ていない所に、わが国の外交の本質的な問題があるのではないか。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 岡崎久彦、「陸奥宗光上下」★★★、PHP文庫、H2
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■「日本最強の外務大臣に学ぶ外交術」について
■ 編集長・伊勢雅臣より
自ら第二の陸奥宗光たらん、との気概を持って、励んでもらいたいと思います。
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