JOG(105) 憲法の国際ベンチマーキング ~ 日本国憲法、無改正期間の世界記録更新中
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■1.日本国憲法、無改正期間の世界記録更新中■
「日本国憲法は、世界の約180カ国の憲法の中で、15番目に古い」という事実をご存知だろうか?世界の憲法を古い順にトップ5と、敗戦国の日独伊のみ紹介すると、[1,p17]
我々は、戦後の「新憲法」は世界でも新しいものとなんとなく思っているが、こうして他の国々と比較してみると、実はそうではないという、思いがけない事実が浮かび上がる。このような比較を産業界ではベンチマーキングと言い、自社を客観的に評価して、「井の中の蛙」にならないよう務めている。今回は、憲法論議の最初として、まずこのベンチマーキングで、客観的な事実認識をしておこう。
上のリストで断然目立つのは、日本の「無改正」である。21位まで見ても、他に「無改正」の国はない。改正を憲法のバージョンアップととらえると、現行バージョンでは、日本国憲法が世界最古となる。わが国は50年以上も憲法改正なしの世界記録を更新中なのである。
■2.世界で唯一の平和憲法?■
日本国憲法は世界でも唯一の平和主義憲法であり、第9条を世界に輸出すべしなどと説く人々がいる。これもベンチマーキングで検証してみよう。
まず、日本と同様に「国際紛争解決するための手段としての戦争放棄」を憲法で謳っている国々は、アゼルバイジャン、エクアドル、ハンガリー、イタリア、ウズベキスタン、カザフスタン、フィリピンと7ヶ国にのぼる。
さらに「国際紛争の平和的解決」、「侵略戦争または攻撃的戦争の否認」、「平和を国家目標に設定」、「中立政策の推進」など、何らかの形でこれら平和主義条項を憲法に取り入れている国家は実に124カ国に及ぶ。
歴史的にみても最初に平和主義条項を唱えたのは日本国憲法ではない。第一次世界大戦の反省として、1919年のベルサイユ平和条約、1924年のジュネーブ議定書、1925年のロカルノ条約などを経て、1928年に締結された不戦条約では、「国際紛争解決の手段としての戦争」と「国策遂行の手段としての戦争」が違法とされた。
「国策遂行の手段としての戦争放棄」は、1931年のスペイン憲法や1935年のフィリピン憲法に取り入れられた。1940年のキューバ憲法は「侵略戦争の否認」を明記している。これらが平和主義憲法の嚆矢である。日本国憲法の平和主義は、決してオリジナルでも、トップランナーでもない。
ただし、日本国憲法がユニークなのは、「平和主義=非武装」としている点である。非武装を謳っている憲法は世界でも皆無である。それなら、この「非武装主義」を世界に輸出するか?
しかし海上自衛隊が第7位にランキングされるなど、世界でも有数の規模を誇る自衛隊を持ちながら、これを軍隊ではないと強弁して、「非武装主義を見習いなさい」と持ちかけても、世界の人々はジョークとしてしか受けとらないであろう。
逆に、平和主義条項で世界の国々から、学ぶべき点がある。たとえば、核兵器の廃絶を憲法に謳っている国々が少なくない。カンボジア、リトアニア、アフガニスタン、ベラルーシ、コロンビア、モザンビーク、ニカラグア、パラオ、フィリピンなどである。わが国は唯一の被爆国として、世界に反核を訴えているが、真に反核を国是とするなら、当然、憲法にその旨を明記すべきだろう。[1,p19]
■3.基本的人権は完備しているか?■
「基本的人権の尊重」においても、日本国憲法は世界に誇るべきものだ、と思っている人が多い。しかし、さすがに50年以上も改正を怠っていると、世界の新しい人権思想の潮流から取り残されつつある。
1990年代に制定された新憲法65のうち、実に51の憲法が、環境に関する条項を設けている。この傾向はすでに70年代から始まっており、たとえば、1978年のスペイン憲法では、「何人も、人格の発展にふさわしい環境を享受する権利を有し、およびこれを保護する義務を負う」とある。
同様に、65の新憲法のうち、44はプライバシーの権利を明記している。特にクロアチアなど最近の憲法は、コンピュータの発達を反映して、個人データの保護を取り入れているものまである。
「知る権利」については、65のうち25カ国が取り入れている。さらに、外国人の権利保護、高齢者・身体不自由者の保護、消費者の保護、スポーツ・余暇の奨励、文化および伝統の保護・育成など、人権条項の多様化が進んでいる。
半世紀以上も前のままの日本国憲法には、当然これらの新しい概念はなく、抽象的な「幸福追求の権利」で済ませている。
もう一つ、人権は当然、無制限ではありえない。日本国憲法でも第12条に、「国民は、これを濫用してはならない」とあるが、これはいかにも抽象的なお説教に過ぎない。どういう場合が「濫用」なのかが定義されていないと、法文としては不十分である。
たとえば、1966年の国際人権規約では、表現の自由は「国の安全、公の秩序、または、公衆の健康または道徳の保護」の観点から制約に付されるとしている。
基本的人権とは、具体的にどのような権利を含み、それがどのような場合に制約を受けるのか、この点を明確化しようという真摯な努力を国際社会は続けているのである。これこそ真に人権を尊重する道であろう。[1,p25]
■4.非常に整った憲法?■
日本国憲法は、全体的に格調高く、非常に整った憲法であると評価する向きがある。はたしてそうであろうか。例えば次の2つの条文を比較してもらいたい。
ほとんど、同じような内容である。全体でもわずか103条しかない憲法に、どうしてこのような繰り返しがあるのか。
実は、占領軍総司令部が作成した草案は、97条に近いものだったが、そのような歴史的・芸術的表現は、日本の法文の体系に合わないとして、日本側が書き改めたのが第11条なのである。
総司令部もいったんは日本案を了解したのだが、後で「実は、あの条文はホイットニー将軍(総司令部民生局長)が自ら筆をとった自慢のものだから、せめて後の章にでもいいから入れてもらいたい」と懇請してきた。
そこで、第97条として生かされることになった。ホイットニー局長は自分の自慢作が残ったことにいたく満足して、日本側担当者の手を握って何度もお礼を言った。この担当者は、「いったい、どこの国の憲法を手伝いにきたのか」という錯覚をおこしそうになったという。[1,p210]
外国人へのごますりのために、本来不要な条文が追加されたというのは、世界でも例がないに違いない。
■5.悪訳、誤訳■
文章自体の格調を見てみよう。前文は次の文章で始まる。
この文章を読んで、一度で文章の脈絡が理解できる人がどれだけいるのだろうか? たとえば、「決意し」というのは、「行動し」や「確保し」までも含めているのか、どうもよく分からない。これではせっかくの「決意」も空振りである。
このように英語文脈をそのままにして、単語だけ和訳した結果、意味の通らない文章になってしまうのは、英語の初学者が良くする失敗である。
「国会における代表者を通じて行動し」という表現も、通常使われる日本語ではなく、意味がよく分からない。原文を見ると"We, the Japanese people, acting through ~" とあり、これは「~を代理として」という意味である。とすると、冒頭の文章は、「日本国民は、正当に選挙された国会議員を代理として、以下のことを決意した」という文脈だということが分かる。
総司令部から、48時間以内に和訳せよ、と言われて、大急ぎで作業した所から生じた誤訳であろう。ある国の憲法が、外国語からの翻訳であり、原文に遡らないとなかなか意味も通じない悪訳や誤訳を含む、というのも、世界に類のない珍現象に違いない。[2,p202]
■6.改正基準の厳しさ■
このような日本国憲法に対して、国民の46%が改正を支持(反対は39%、朝日新聞の平成9年4月調査)している。しかし、改憲がどれだけ容易かを見てみると、ここにも日本国憲法の特異性が見える。
日本国憲法は、衆参両議院の総議員数の2/3が賛成して、ようやく改正の発議ができ、さらに国民投票にかけて、過半数の賛成を必要とする。
大日本帝国憲法では、衆議院、貴族院の2/3以上の出席があり、その2/3が賛成すればよかった。ちなみにアメリカ憲法の場合は、上下両院議員の出席者の2/3が賛成し、あとは、州議会の3/4が賛成すればよい。総司令部は、自分たちの作った憲法がすぐには改正できないように、もともと緩やかであった大日本帝国憲法の改正基準を、自国よりもさらに厳しくしたのである。
日本国憲法が、80年近くもの無改正期間の世界記録を更新しつつあるのは、このあまりに厳しい改憲基準のためである。まさに総司令部の狙いどおりになったのである。
■7.立憲政治を腐食させる護憲派■
憲法改正を議論するためにようやく設けられることになった憲法調査会に関して、朝日新聞の社説は、次のように述べる。
上述のいろいろな欠陥にも関わらず、世界で唯一、80年近くも無改正のままとなっている事実を踏まえれば、「いま、なぜ憲法を調査するのか」という主張の異常さがよく分かろう。国民の半数近くが改憲に賛成しているという自社の世論調査をも、無視する主張である。
一字一句の改憲もさせまいという「護憲派」の姿勢は、次の2点で、健全な立憲政治の発展を阻むものである。
第一に、改正を封じられた日本国憲法は進化をやめたシーラカンスの如く「生きた化石」となりつつあり、世界の思想進歩から取り残されつつある。
第二に、現実と遊離した憲法の辻褄あわせのために、解釈改憲に頼らざるを得ない。たとえば、国民が改正を望む大きな理由は、現行憲法に「知る権利」やプライバシー権、環境権のないことであるが、朝日の社説では、「条文に文言がないことが、これらの権利の実現を阻んでいるのだろうか」と述べ、「幸福追求の権利」を活用すれば良いと言う。
「幸福追求の権利」から玉手箱のように「知る権利」でも、「環境権」でも、何でも取り出そうというのは、解釈改憲そのものであり、自衛隊を軍隊ではないと言いくるめる詐術と同じである。
法文はいかようにも解釈できる、というのであれば、国民は法に対する信頼を持ち得ない。法に対する信頼は立憲政治、法治国家の基盤であり、それがない所では民主主義も発展し得ないのである。
(文責:伊勢雅臣)
■参考 ■
1. 「日本国憲法を考える」、西修、文春新書、H11.03
2. 「日本国新憲法制定宣言」、日本を守る国民会議、徳間書店、H6.4
3. 朝日新聞、社説、H11.07.30
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/★★読者の声★★_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
渡邉英一さん(56歳)より
「日本国憲法・・」を読んで。
改めて、憲法前文を読んで「これは、自虐憲法だ。」との思いを深くしました。
特に腹が立つのは、「 ・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」のくだりです。
これを日本語に翻訳すれば、「先の大戦で極悪非道の大罪を犯した我等日本国民は、前非を悔い、戦勝国の(お慈悲と)公正と信義にすがって今後は真人間への更正の道を歩む事にしました(どうぞ今後の私たちを温かく見守ってください。お願いします。)」という事になりましょう。
極東軍事裁判史観に端を発する自虐史観はこんな所にも周到に張り巡らされていたのかと愕然としました。
終戦直後は、確かにこのような心境もうなずけない事はなかったが、それにしても、法学部のえらい先生方はこのくだりを学生にどのように講義したのでしょうか。憲法学者とやらの見識を疑います。
さらには、現在の近隣諸国の何処が「公正と信義」の国なのか、「護憲、護憲」と繰り返す護憲派の連中や、朝日新聞の論説委員に具体的に教えてもらいたものです。
しかし、百歩譲って現行憲法を護っても、北朝鮮や共産中国に我が国は武力行使可能と私は考えています。
なぜなら、北朝鮮は「ヤクザ国家」であり、尖閣列島の海域を侵す共産中国は「盗人国家」であり、憲法前文に掲げられた崇高な「公正と信義」の国でない事は明らかであるので、そのような国家に対してまで、紛争解決の手段としての武力行使は放棄してない(9条反対解釈)と考えているからです。
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