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JOG(279) 日本型資本主義の父、渋沢栄一

 経済と道徳は一致させなければならない、そう信ずる渋沢によって、明治日本の産業近代化が進められた。


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■1.「よき、をぢさん」■

 企業5百、公共・社会事業6百の設立に貢献した渋沢栄一が昭和6(1931)年に亡くなった時、青山斎場には約4万人もの会葬者がつめかけ、告別式を1時間繰り上げて始めたが、焼香の列をさばききれず、式を終わるまでに延々3時間半もかかった。

 各新聞はこぞって渋沢の生前の功績をたたえた。たとえば時事新報はこう評した。

 およそ公共的性質を有する重なる事業において、(渋沢)子爵が、直接又は間接にその指導者たり又はその援助者たらざるものはなかった。九十余年の長き生涯の晩年を、最もよく社会公共の為に尽くしたる渋沢氏の如きは、他に全くその例を見ざる所にして、即ち日本国民中の長老とし、日本公民中の第一代表者として、一代の尊敬を集めた所以(ゆえん)である。

 渋沢の起こした社会事業の一つに東京府養育院がある。35歳の時から50年以上も院長をつとめ、それも名目だけではなく、不良児童、虚弱児童、結核児など目的別に分院を設けたり、財界からの募金を募ったりと、実際の経営に尽力した。そこで育てられて渋沢を親のように慕っていたある鉄工所の経営者は、渋沢邸の庭に忍び込み、11月の夜寒の中を一晩、正座して陰ながら通夜をした。

 こうした渋沢の死を、左翼系の論者も惜しんだ。

 大きくして暖かみのある人格の世を辞するのは限りなき愛惜だ。渋沢翁は明らかにブルジョワジィの一人であるが、その故に翁を憎むものは不思議にない。・・・無産政党の人達でさへも「よき、をぢさん」と考へてゐる者が多い。

■2.パリへの留学■

 渋沢は武蔵国血洗島(現在の埼玉県深谷市の近く)で、藍商売も営む裕福な農家に生まれた。昔、板東武者たちが争いを繰り返して、血まみれの首を洗った所から名付けられた土地柄で、渋沢も農家生まれとはいえ、気性が激しかった。数え24歳の時、幕府外交の不甲斐なさに憤って、近隣の同志70名ばかりを率いて、横浜の外人居留地に火を放ち、手当たり次第に外人を斬り殺そうと企てた。

 この時は、京から戻った従兄弟に天下の情勢を説かれて思いとどまったが、幕府に追われる身となった。しかし、ひょんな事から、人物を見込まれて一橋慶喜の家来に取り立てられた。慶喜は幕府の中心人物であり、開明派として天下に声望が高かった。

 1867(慶応3)年、パリで開かれた万国博覧会に、将軍となっていた慶喜の弟の清水昭武を名代として派遣することになり、渋沢はその随行を命ぜられた。慶喜は「渋沢は将来有為の人物だから、渋沢自身のためにも海外に遊学せしむべきだ」と考えたのである。

 パリに滞在中に、大政奉還の報が届いた。渋沢は幕府滅亡は時の勢いであり、あわてて帰っても仕方ない。むしろそのまま留学を続けた方がいずれ祖国のためにもなると考えた。理財に明るい渋沢は、幕府からの送金を国債や鉄道債でかなりの額を積み立てており、節約すれば2年は留学を続けられる。病院や貯水池、下水道、はては借家の契約書まで熱心に研究を続けた。

■3.新しい日本の夢■

 ナポレオン3世は、一行の世話役として銀行家をつけ、さらに昭武の教育監督役として騎兵大佐をつけてくれた。日本なら金貸し商人と高位の武士とではまるで身分が違うのに、二人はまったく対等で、時には友人同士のように肩をたたき合ったりしている。重要な用件では大佐は銀行家の方に意見を聞いている。農民の子として代官にいばりちらされた経験を持つ渋沢には、新しい世はこうでなくてはならないと思った。

 ベルギーで製鉄所を見学した後、謁見した国王いわく、「我が国の鉄は品質がよく、値も安い。ぜひたくさん買い付けるよう願いたい」。国王ともあろう人が商人のような口を聞いてまで国を富まそうとしている、と渋沢は驚いた。西洋諸国の武力が優れているのも、経済力の裏付けがあってこそである。新しい日本も、大いに経済に力を入れ、身分を問わず人材を登用しなければならない、と感じ入った。

 こうした経験から、合本組織による事業を日本中に広げていきたい、という夢が膨らんでいった。身分などには関わりなく、知恵あるものは知恵を、金あるものは金を出し合って、皆で力を合わせて事業を育てていく。今で言う株式会社である。

■4.国造りのシンクタンク■

 約2年の留学を終えて渋沢が帰国したのは、年号も改まった明治元(1868)年11月。留学中の節約と利殖で残した2万両余りを慶喜が隠棲していた静岡藩に返済して、「奇特な男だ」と役人たちを驚かせた。当時の静岡藩は旧幕臣の流入で人口が急増していたため、米不足、仕事不足の苦境にあった。そこで渋沢は早速、藩からの出資も受けて合本組織の「商法会所」を作り、製茶・養蚕などの事業育成を目的とした貸付けを始めた。

 しかし、それも1年経たぬ間に、明治新政府に呼び出され、大蔵省への出仕を命ぜられた。慶喜の側で静岡藩のために尽くしたい、と渋沢は抗命したが、大蔵省を取り仕切っていた大隈重信に「静岡藩一藩の利益よりも、日本全体を考える事こそ、我らの本懐ではないのか。英明な慶喜公が自分一人のために、君を静岡に留め置こうなどと思われるはずがない」と言い負かされてしまった。

 渋沢は大蔵省に勤め始めると、すぐさま、省内の人材を集めて新しい国造りを立案する部局が必要だと大隈に訴え、改正掛を発足させて、自らその掛長に任命された。ここでは貨幣制度、税制、全国の測量、度量衡の統一、郵便制度、鉄道敷設などを議論し、まさに国造りのシンクタンクであった。また廃藩置県と同時に、各藩の藩札の流通を禁じ、全国統一の紙幣に切り替えるなどの処置を成功させた。

 実業の面でも、群馬県の富岡にフランス人技師を招いて、近代的な製糸工場を作らせた。従来の手作りの生糸では太さがばらばらで、外人バイヤーに買いたたかれていたが、富岡で作られた生糸は、それまでの日本産生糸の評判を一変させ、フランスのリヨンや、イタリアのミラノからも注文が殺到するようになった。これが契機となって、生糸が日本の重要な輸出商品として育っていく。

■5.日本最初の銀行設立■

 渋沢が特に力を入れたのが、銀行の設立である。三井組、小野組という江戸時代からの両替商に共同出資させ、第一国立銀行を設立した。名称は米国のナショナル・バンクに倣ったもので、バンクを「銀行」と訳し、「ナショナル」を「国立」としたが、純然たる民間企業である。日本最初の近代的金融機関であり、始めての合本組織であった。後に第一銀行から、第一勧業銀行を経て、現在はみずほ銀行となっている。

 明治6年には国家の財政状況を無視して、大蔵省の頭越しに予算増額を決めた江藤新平に反発して辞職、第一国立銀行の総監(後に頭取)に就任した。この後、日本鉄道会社、日本郵船会社、サッポロビール、王子製紙、東洋紡など数多くの企業の設立に参画していく。

 渋沢は「論語と算盤」という言葉をよく使い、道徳と経済を一致させる必要を説いた。具体的には、大勢の人々の力を合わせて、利益は薄くとも国家のためになる事業を育てることであった。それは決して空念仏ではなく、自分一人の利益のために公共を犠牲にするような実業家には、自ら身体を張って戦いを挑んだ。

■6.許せない海運独占■

 渋沢が許せないと感じた事業の一つに、新興の岩崎彌太郎の三菱商会があった。当時の輸送の中心である海運を三菱商会が独占していた。西南戦争で政府紙幣が濫発されて、その価値が下落すると、三菱は政府紙幣による支払いを認めず、銀貨に限った。これで運賃は実質7割も上がった。

 九州の金持ちがたまりかねて、汽船1隻を買って海運業を始めたが、岩崎は汽船一隻をその後につけさせ、行く先々で大幅な値引きで積み荷を横取りし、ついには廃業に追い込むという始末。

 渋沢は、三井や大倉などの豪商に呼びかけて、明治13(1880)年8月、風帆船会社を設立した。その会社がまだ船を持つ前から、岩崎は妙な噂を流して妨害を始めた。風帆船会社は渋沢が投機に失敗して、その穴を埋めるために株を募集して金を集めようとしている、というのである。そのとばっちりを受けて、実業界の人材育成のためにと渋沢が後援していた商法講習所(後の一橋大学)も、東京府議会の議決で廃止されそうになり、渋沢は自ら資金援助をして存続を図った。

■7.激烈な競争の果てに■

 渋沢は守勢に立たされつつも、計画通り事業を進め、第一船の新倉丸が函館に到着すると、商人たちは歓呼して迎え、鮭、鱒、こんぶなどの荷を満載しても、なお積みきれない有様だった。風帆船会社は帆船の数を増やして、岩崎に挑んでいった。

 明治16(1883)年1月、岩崎の独占を問題視する政府のお声掛かりで、他の中小の海運会社を合併して、共同運輸会社が事業を始めた。全国から公募した株式による合本会社である。この新しい会社が全国の航路で競争を挑むと、岩崎も死に物狂いで向かってきた。運賃は急落し、神戸・横浜間の下等運賃は5円50銭が25銭にまで下がった。しかも両社競って新造船を投入し、大幅なスピードアップが図られた。

 採算を度外視した競争に、両社とも経営に行き詰まり、ついに政府が調停に乗り出して、18年9月、両社は合併し、日本郵船が誕生した。競争としては引き分けに終わったが、岩崎の不当な独占を打ち破ろうという渋沢の目的は達せられたのである。日本郵船は、その後、日本を代表する世界有数の国際的海運会社として成長し、わが国を戦前において世界第3位の海運国に発展させる原動力となった。

■8.外人商人の横暴■

 同時期に渋沢が挑戦したのが、横浜の外人商人たちであった。当時、日本の輸出の大半を占めていた生糸は、これらの外商たちが荷を引き取って船積みしていたが、彼らはすぐには金も払わず、預かり証一つ渡さない。しばらく様子を見て、値段が下がりそうだと、不良品だと難癖をつけて突っ返す。日本の問屋たちが不満を訴えても、外商たちは足並みを揃えて不当な商法を押しつけてくるので、相手にされない。

 渋沢は日本の問屋を結束させて「連合生糸荷預所」を設立し、商談が成立した荷については、日本側で検査も計量も済ませて、代金引換で外国商館に手渡すという仕組みを考えた。

 外商36人は、荷預所の開業前から、商業の自由を阻害する不当な組織だと、アメリカ大使を通じて外務省に抗議してきた。さらに外商たちは、横浜の生糸取引を一方的に停止させ、挙げ句の果てに生糸以外のすべての輸出商品の積込み拒否、外国銀行による日本人への貸し付け停止という挙に出た。

 清国の広東では、清国商人は信用できないからといって外商たち自身で同様の生糸取引所を設立している。日本側が同じ事をしたからと言って、攻撃するのは矛盾も甚だしい。日本各地の農家や商人から激励や応援が届き、全国的な世論に高まっていった。

 外商と日本側の農家・商人との全面対決の様相を呈した所で、渋沢は密かにアメリカ公使館で外商代表との協議に入った。外商側も海外からの注文に応えられず、困りだしていたのである。

 協議の結果、荷預所に代わって共同倉庫を作る事にし、取引条件も、「預かり荷に対して預かり証を公布する」「代価や検査期限を契約書に明記する」「不当な不良品扱いについては、立会人が仲裁し、それに応じなければ、一同で取引を拒絶する」という内容で、ほぼ日本側の要求を全面的に取り入れた形となった。

 各新聞は、「正義が貫かれた」「日本の農商あげての奮発が実った」と讃えた。渋沢が立ち上がらなければ、清国広東のように外商たちの収奪が続き、日本の輸出の大半を担っていた生糸産業でさえ貴重な外貨を稼げない、という事になり、わが国産業の近代化は大きく立ち遅れたであろう。

■9.もし一身一家の富むことばかり考えていたら■

 岩崎の海運独占や、外商たちの不当な搾取に対して、渋沢は一実業家として果敢に戦いを挑んだ。このような私利私欲が幅を利かせていては、健全な経済は発展しない。経済活動の根底には、公益を重んずる道徳がなければならない。それが「論語と算盤」を説いた渋沢の信念だった。弱肉強食の資本主義とは一味違う「合本主義」とも言うべき日本独自の資本主義思想である。

 わたしが、もし一身一家の富むことばかり考えていたら、三井や岩崎にも負けなかったろうよ。これは負け惜しみではないぞ。

 我が身、我が家の代わりに渋沢は企業5百、公共・社会事業6百の設立に貢献して、国家と国民を富ませた。渋沢が昭和6(1931)年に91歳で亡くなった時につめかけた4万人もの会葬者は、日本国民がいかに渋沢に感謝していたかの証左である。

 渋沢が横浜の外人居留地を焼き払おうと物騒な事を考えていた頃の日本は極東で鎖国を続ける一小国であったが、その60余年後、渋沢が亡くなった時には、わが国は世界の五大国の一つとなっていた。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
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■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 城山三郎、「雄気堂々 上・下」★★★、新潮文庫、S51

2. 渋沢史料館、渋沢青淵記念財団竜門社(ホームページ抹消)

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■ 編集長・伊勢雅臣より 

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