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JOG(275)イチロー少年の育て方
現代の脳科学が明らかにする、やる気のある子の育て方、教育荒廃の防ぎ方。
■1.僕の夢■
ある小学校6年生の男の子が、次のような作文を書いた。
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僕の夢は一流のプロ野球選手になることです。
そのためには中学、高校と全国大会に出て活躍しなければなりません。活躍できるようになるためには練習が必要です。僕は三才の時から練習を始めています。三才から七才では半年くらいやっていましたが、三年生の時から今までは三百六十五日中三百六十日は激しい練習をやっています。
だから、一週間中で友達と遊べる時間は五、六時間です。そんなに練習をやっているのだから、必ずプロ野球選手になると思います。そして、その球団は中日ドラゴンズか、西武ライオンズです。ドラフト一位で契約金は一億円以上が目標です。僕が自信のあるのは投手か打撃です。
去年の夏、僕たちは全国大会に行きました。そして、ほとんどの投手を見てきましたが自分が大会ナンバーワン選手と確信でき、打撃では県大会四試合のうちホームラン三本を打てました。そして、全体を通した打率は五割八分三厘でした。このように自分でも納得のいく成績でした。そして、僕たちは一年間負け知らずで野球ができました。だから、この調子でこれからもがんばります。そして、僕が一流の選手になって試合に出られるようになったら、お世話になった人に招待券を配って応援してもらうのも夢の一つです。とにかく一番大きな夢は野球選手になることです。
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少年の夢は実現し、日本のプロ野球どころか大リーグでも屈指の一流プレーヤーとなった。イチロー選手である。
■2.狼少女カマラ■
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その8歳くらいの少女は四つ足で歩き、床の上に置いた皿に顔をよせてミルクを舌を使って呑んだ。言葉はしゃべれず、夜になると狼のように遠吠えをした・・・。
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1920年にインドで発見されたカマラは、生まれてから8歳くらいまで狼によって育てられた。宣教師だったシングという牧師に発見されて手厚く看護されたのだが、9年後に亡くなるまでほとんど言葉も話せず、「人間らしさ」も発達させ得なかった。推定17歳でも「3,4歳の幼児並み」と記されているほど、知性も人間性も未発達のまま亡くなってしまったのだ。ただし、すべてが未発達だったわけではない。暗闇でも目が見えた。
カマラまでいかなくとも最近の日本では、教室の中を奇声をあげて走り回ったり、すぐにキレて暴力をふるったり、雑踏の中で人の迷惑も考えずにジベタリアンしたりする、まさに動物のような子供が増えている。
天才イチローから狼少女カマラまで、同じ人間でなぜこれほどの違いがでるのか。その秘密は幼年期の脳教育にある事を現代の脳科学は明らかにしつつある。
■3.幼少期の大脳の驚くべき変容■
脳の基本的な構成要素は、神経細胞(ニューロン)である。そのニューロンどうしが、樹木状の突起をいくつも出して、それらの接点(シナプス)で化学物質のやりとりして、情報を伝える。コンピュータに例えれば、神経細胞が演算装置で、それらが相互にネットワークで繋がれた並列コンピュータと言ってもよいだろう。
人間の知性を司る大脳皮質の中には、ニューロンが140億個ほどある。そして幼少期にこの大脳皮質が驚くべき変容を遂げる。赤ん坊が持って生まれた膨大なニューロンが、生後1年以内に大量に死滅して1/6ほどになってしまうのだ。そしてその後もニューロンは新たに作られる事なく、緩やかに減り続ける。
生き残ったニューロンは、樹木状の突起を豊かに発達させ、他のニューロンとの間に多くのネットワークを作っていく。生まれてから6歳の頃までに、ネットワークの接点数は1.6倍ほどになり、その後、緩やかに減っていく。ニューロンを大量に作っておいて誕生後の環境で使われないものは死滅していき、よく使われるニューロンはネットワークを発達させていくのである。
たとえば赤ん坊の眼に様々な映像が飛び込んでくるが、その過程で視覚入力を受け取る脳の領域のニューロンが使われ、ネットワークが伸びて視覚能力が発達していく。不幸にも幼児白内障にかかって視覚入力が閉ざされると、それに関連したニューロンが死滅してしまって、その後で白内障が治っても、生涯にわたってものがよく見えない。
逆にアフリカのサバンナに住むマサイ族は、幼少期から遠方を見慣れているので、視覚能力が発達し、視力2などはザラで、5も多い。視力とは眼球の物理的性能だけでなく、脳の働きも大きいのである。カマラが暗闇でもモノが見えたというのは、このためだろう。またイチローも小さい頃からバッティングセンターで150キロものスピードボールを打っていたというから、それによって動態視力を高度に発達させたと考えられる。
■4.「幼年期の延長」■
こうした脳の劇的な変容に輪をかけるのが、人間に特徴的な「幼年期の延長」(ネオテニー)である。人間は生まれた段階ではサルよりもはるかに未熟であり、幼年期、少年期が、ほかの類人猿に比べると、1.5倍から2倍も長い。
幼年期は外界の刺激を受けつつ、脳がニューロンの大量死滅やネットワークの発達で、大きな変容を遂げる時期である。「幼年期の延長」によって、その変容が長期間続くことで、ヒトの脳はサルなどよりもはるかに柔軟に、かつ高度に発達する。
逆に言えば、サルは相当成熟してから生まれてくるので、生後の環境による個体差は小さいが、ヒトは生まれた後の幼児期に環境によって、大きく能力を伸ばしたり、逆に伸ばせなかったり、という振れ幅が極めて大きい、ということになる。人間だからこそカマラからイチローまでの違いが生じるわけで、サルならこれほどの個体差は生じないのである。
■5.子守歌、語りかけ、高い高い、、、■
カマラになるか、イチローになるか、その違いは幼年期の環境にある。もちろん遺伝的要因も30~60%程度あるので、誰でもがイチローになれるわけではないが、環境が悪ければ誰でもカマラになってしまう。したがって子供を立派に育てるには、幼年期の環境が非常に大切である。
言語能力を伸ばすには、幼児期に母国語にさらされる、という環境が不可欠だ。それも、単にラジオのニュースを流すという一方通行ではなく、母親が意識的に幼児に語りかけたり、カタコトをしゃべりだしたら、よく聞いて相手になってやる、という双方向の環境が効果的である。
音楽的能力についても、ゼロ歳児の頃から良質な音楽を絶えず聞かせると良い。聞かせる音楽はクラシックがよく、特にモーツアルトを聞かせるだけで、知能指数が10ポイントも伸びる、というデータがあるそうだ。また母親が子守歌を聞かせることで、音痴になりにくくなることが分かっている。
論理・数学的知能を伸ばすには、積み木をいじりながら、立体物を作らせるのがよい。また運動能力を伸ばすには、「高い高い」と身体を持ち上げたり、逆さまにしたり、適度に振り回したりすることが効果的だ。自分で歩けるようになったら、裸足で公園を走り回らせたりして、自由に運動させる。
こうして見ると、母親がいつも幼児と一緒にいて、語りかけたり、子守歌を聞かせたり、「高い高い」をしたり、積み木で一緒に遊んだり、公園で「あんよは上手」とヨチヨチ歩きをさせたり、という「当たり前の環境」が、子供をきちんと育てるためにいかに大切なことか、分かってくる。我々が一人前の大人になれるのは、幼児期の母親の愛情のおかげなのである。
■6.「群れ不適応」■
視覚や運動に関する能力は、脳の機能の中でも基礎的なもので、4歳ぐらいまでに完成する。読み書き、論理的思考などは8歳から12歳頃までには形成される。
能力の中でもさらに高度なものに、他の人々との社会関係を理解し、適切な社会的行動を行う「社会的知性」や、他者の感情を理解し、自分の感情を適切にコントロールする「感情的知性」がある。これらも遅くとも12歳くらいまでに、家族や遊び仲間の中で鍛えなければならない。
たとえば、サルを生まれた直後に母親から隔離して1年ほど人間の手で人工保育をし、その後、群れに戻す。すると、大抵の場合、そのサルは群れでうまく生活ができなくなり、同年配の子ザルからいじめられたり、オトナから攻撃されたりする。
こうした「群れ不適応」は生涯続き、オトナになっても適切な配偶行動をとることができない。このようなサルが死んだ後に脳を調べると、社会的知性や感情的知性をつかさどる前頭連合野という脳の領域でのニューロンが激減している。
面白いことに2歳以上になったサルに対して、同様の隔離をしても、戻した当初は多少の障害はあらわれるものの、その後は群れに適応できるようになる。サルの2歳は、人間の8歳に相当する。
8歳までに、家族の中で親、兄弟、親類などとの様々な関係を形成し、また近隣の年長・年少の入り混じった「ガキ集団」の中で遊んだり、喧嘩したりする、という経験の過程で、子供の社会的知性や感情的知性が豊かに発達し、大人になってから社会で活躍するための基礎能力を作っていくのである。
■7.「人間らしさ」を作る「自我」の働き■
人間の能力には、基礎的な知覚、運動などから、高度な感情的知性、社会的知性にいたるまで、さまざまなものがあるが、これらをすべて統御しているのが「自我」である。自我は自分の物理的、精神的状態を「自己認識」し、さらに目的に向かってさまざまな能力を駆使していく「自己制御」という役割を果たす。
イチロー少年が将来一流のプロ野球選手になろうと練習に励むのは、この「自我」の働きである。それは次のようにまとめられる。
・将来を展望して、夢を抱き、それを実現するための計画をたてる。
・夢の実現のために自発的、主体的に行動し、特定の行動に集中・熱中し、その過程で創造力を発揮する。
・集中・熱中している時に幸福感を感じ、目標を実現した時に 達成感を感じる。
このような自我の働きこそ、サルとヒトとを分かつ「人間らしさ」なのである。イチローから見習うべきは、このような「人間らしさ」を最高度に発揮したという点であろう。野球選手としての天才は、生まれながらの遺伝的才能を、この「人間らしさ」が開花させた結果なのである。
特に「御世話になった人に招待券を配って応援してもらう」事を夢に描くなどは、素晴らしい社会的知性の証である。全国の小学生が、それぞれ自分の目指す分野で、イチロー少年のような「人間らしさ」を発揮したら、どれほど素晴らしい社会となることか。これが教育の目指すべき「夢」であろう。
■8.脳科学が説明する「教育の荒廃」■
しかし、現実にはイチローのような少年はごく例外的で、「教育の荒廃」現象がわが国を覆っている。その原因も脳科学で説明可能のようだ。
たとえば「ADHD(注意欠損多動症)」と呼ばれる子供の精神疾患がある。注意が極端に散漫で何事にも集中できず、授業中でもじっと座っていられないで歩き回ったり騒いだりする。これは自我や感情的知性、社会的知性を受け持つ前頭連合野での機能不全を伴っている。その発生のメカニズムはまだ分かっていないが、遺伝的要因とともに、環境要因が複雑にからまりあっている、と言われている。
ADHDまで行かなくとも、「ADHD的」な子どもが増えているのではないか。たとえば、集団の中でうまくやっていけない「引きこもり」、自分の感情をコントロールできずにすぐにキレる「校内暴力、家庭内暴力」、自ら夢を描いたり、それに向かって主体的な努力のできない「無気力・無感動・無関心」、車内で平気でお化粧したり、騒ぎ廻ったりする「無神経」、、、。
■9.伝統的教育の脳科学的根拠■
これらの症状は、自我、感情的理性、社会的理性の発育不全であると説明されると、納得しうる。発育不全の理由としては、少子化や核家族化、都市化に伴う野原や広場の喪失などがあげられるが、「フェミニズム」や「ゆとり教育」など科学的根拠のないイデオロギーも、この傾向を助長していると考えられる。
女性の社会進出を支援するのは大切だが、だからといって数十万年にわたって人類の進化を支えてきた幼児教育における母性の大切さを根拠もなく否定することは、非科学的かつ犯罪的だ。前述のように母親が常に赤ん坊とに一緒にいて、語りかけたり、子守歌を聴かせたり、一緒に遊んでやることは、健全な脳の発育のために不可欠なのである。
母親が外で働かなくてはならない場合も多いが、一人の「保育士」が何人もの幼児を見る保育園だけでは不十分だろう。お祖母さんなど周囲の大人が十分に赤ちゃんの相手をしてやって欲しいものだ。
また家庭内で秩序を作り、社会の規範とルールを教え込むという「父性」の役割も社会的知性、感情的知性を健全に育むために必要である。中学や高校になってから生徒たちに規範やルールを自ら考えさせようという「学級民主主義」では間に合わない。
また特に小学校低学年に「ゆとり教育」を適用することは、肝心のニューロン間のネットワークを未発達のままにしておくことで、子供の知的能力に生涯取り返しのつかないダメージを与えてしまう。最近、子供に暗算や暗唱をさせることで驚くべき教育効果を出している教育方法が注目されているが、それも脳科学の理論から首肯できる。[a]
母親の愛情、父親の厳しさ、「読み書き算盤」といった伝統的な育児・教育環境に潜んでいた合理性を現代の脳科学は明らかにしつつあるのである。 (文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(230) 「ゆとり教育」が奪う「生きる力」
長文暗唱にいきいきと取り組む子供たちの姿は「生きる力」がどこから来るか示している。
b.JOG(177) 一周遅れのフェミニズム
最近の脳科学が発見した男女脳の違いからフェミニズムを見てみると、、、
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
澤口俊之、「幼児教育と脳」★★★、文春新書、H11