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世界最古の米国憲法から日本が学べること

僕が米国憲法について語るとき、必ず最初に指摘するのが米国憲法の古さである。1788年に発効した米国憲法は、成文化された憲法としては世界で最も古い。

歴史の浅いアメリカなのにそんなはずはない、と考える人は多い。しかし、1788年の世界を振り返っていただきたい。その頃の日本は江戸幕府第11代将軍徳川家斉の時代。欧州は君主制。テレビどころか電気もない時代はだいぶ昔である。

たった70年の憲法史しかない日本が、230年もの歴史を誇る米国から学べることは少なくない。

たとえば、常に変化していく時代の流れに憲法はどう付き合っていくべきなのか、という基本的なこと。

わかりやすい例を挙げると、米国憲法は大統領が陸軍と海軍の司令官であると定めているが、空軍には言及していない。飛行機がなかった時代に書かれた憲法なので、ある意味当然の話である。しかし、もちろんのこと、今の米国大統領は空軍の司令官である。

このギャップをどう埋めるのか。空軍が「陸軍・海軍」に包含されると見做すのであれば、それは解釈論である。だが、文言に関わらず解釈論で対応していくことには、解釈論の限界が明確ではない、なんでも解釈論で済んでしまう、といった極めて根本的な懸念がある。

だからと言って、解釈論は認めず、すべて憲法改正で明文化すべきというものでもない。目まぐるしい時代の変化に、いちいち憲法を改正することで対応していくのは現実的ではない。

では解釈論と憲法改正双方を取り入れるべき、というのであれば、その線引きはどこなのか。

この結論なき議論が、米国の大学や法学院ではしばしば繰り広げられている。そしてこれは、日本であった、集団的自衛権の行使を容認するには憲法改正が必要なのか解釈の変更で済むのか、という議論を思い出させないだろうか。

さらに、日本における憲法改正の議論が活発化する中、憲法とそれを解釈する裁判所から何を期待すべきか、という点についても米国から学べる。 

憲法の役割に関して弁護士や憲法学者に聞けば、多くは国家権力を抑制し少数の権利を守ること、と答えるであろう。そして、その保護を実際に執行していくのは最終的には裁判所であるとも。

しかし、裁判所が「正しい」判断をするといった保証はない。時には暗い米国の憲法史がそれを示している。連邦最高裁は歴史上数々の悪名高き判決を下しており、その一つは南北戦争という内紛勃発のきっかけになり、もう一つは労働者保護の法律を無効にしている。

これら間違った判決は民意に真っ向に対抗するものであった。最高裁のエリート判事数名が国民1億人の絶対多数の声を「是正」することが民主主義の国において相応しいのかは、200年たった今でも絶えない議論である。

さらには、過去の米国国会や大統領は最高裁の判決を度々無視してきた。その都度、軍も予算権限も持たない司法府は、 民意の支持という強い後ろ盾をもつ立法府・行政府に対して無力であった。

こういった事態から、日本も決して無縁ではない。小泉純一郎が首相だった時、裁判所が小泉首相による靖国神社参拝を違憲と判断した際、小泉は公然として参拝を続けると言い放った。この対決が、司法府と行政府に求められる・期待される役割について議論する絶好の契機だったのにもかかわらず、大した論争もなく過ぎ去ってしまったのは、なんとも残念なことだった。 

僕は日本人に、日本憲法について深く考察してもらうために、米国憲法についていろいろ学んで欲しいと思う。

僕はたまにロースクールで米国憲法の教鞭を執るが、僕の授業が少しでも生徒にとって「憲法」という、とてつもなく深く、しかしまだまだ日本では本格的な議論がなされてない課題について考えるきっかけになったことを願う。

[注:この記事は2019年7月に自分のブログに載せた投稿に微修正加えた上で再掲したものです]

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