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演出論『饒舌ほど興ざめなものはない』

映画であれドラマであれ、それがエッセイや広告のコピーであったとしても、饒舌に語ることは、せっかくのクリエイティビティを無に帰してしまうほどに罪深いものである。

なぜ饒舌さが罪深いものなのかは、
俳句を思い浮かべば、すぐに了解できるだろう。
いうまでもなく俳句に書き手の感情表現を直接表すことは最もやってはいけない禁じ手である。

先に"かなし"や"うれし"などを直接読まれてしまっては、
読み手が感じようとするその機会を奪ってしまうことになるだろう。
また短略化された”うれし”などの言葉は、読み手の想像の領域さえも、
いたずらに摘み取ることになってしまう。
情景が綴られているなか、読み手が何を感じるか、何を読む取るのかが、俳句の醍醐味なのであるからして。

読み手に感じさせたいのであれば、何も語らないことが重要なのだ。

映画のラストカットは突然に黒落ちするべきだというのが、
私の持論である。

ラストシーンに差し掛かったなと観客が了解するまえに、
突然画面は黒く落ちるべきなのだ。

突然黒落ちしたとき、観客の戸惑いは大きい。
あれ終わっちゃったよと。
そうなれば嫌が上でも、
この映画が何を語っていたのだろうかと反芻することになる。
ここからが映画鑑賞の醍醐味なのだ。
突然終わってしまった映画を前に、
報われない感情を埋め合わせようと
必死になってこの映画の語りたかったことを
自分なりに埋め合わせようとする、読み取ろうとする。
まさに俳句的世界が立ち上がるのだ。

すべてを否定するわけではないが、
観客のすべてがラストシーンだと了解しながら
悲劇は悲劇なりの、喜劇は喜劇なりの、
エピローグの音楽にのって、映画が終わっていく。
これほど通俗的で面白みにかけるエンディングはないかと思ってしまう。
それまでポカンと口を開けてみていた観客でも、
「ああ、面白かった」、「ああ、悲しかった」、「ああ、楽しかった」と、
ただただ受け身に動物のように条件反射するばかりとなる。
彼らの脳波は一ミリとも波動することがない。

ラストシーンにおいて冗長に語ることの罪深さについて、
『走れメロス』をもとにした寺山修司の面白い記述を見つけたので、
ここにその部分を引用してみたい。

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「シラーの書いたもっとも美しい「友情論」の叙事詩『走れメロス』が、太宰治の手にかかって、たちまち書斎型の心情につくりかえられてしまった。

死刑囚のメロスが、遠い故郷から、自分の死刑執行に間に合うように全力で野を超え、山を超えて走ってくる。それは自分の死刑のためではなく、身代わりに牢に入っている石工のセリヌンティウスの信頼のためである。

メロスは、セリヌンティウスの命をかけた友情に応えようとして、力のかぎり刑場へ駆け込み、あわや身替りに断頭台にのせられようとしているセリヌンティウスの、死刑執行の前に帰ってくることができる。

そこでシラーの叙事詩は、二人は顔を見合わせて、微笑しあって終わっている。」

(『幸福論』寺山修司より)

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「微笑しあって終わっている」。

なんて素晴らしい結末なんだ。

二人がなぜ微笑みをもって了解したのか、
そこにどのような感情がないまぜとなっていたのか、
ふたりを一瞬にして了解せしめたこの微笑むのもつ意味は。
そんなことをとくとくと説明する必要はないのだ。
笑顔で終わったというエンディングを前に、
ふたりの笑顔を想像しながら、
読者それぞれに、様々な思いに耽ていけばよいのである。
それこそが、感動するということの淵源ではないだろうか。

ところが太宰治版では、これに蛇足のような一抹が添えられている。
再度寺山修司から引用しよう。

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ところが太宰治は、それに「弁解」を書き込む。
セリヌンティウスは、
「メロス、俺を殴ってくれ、俺はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生まれてはじめて君を疑ったのだ。
もしかして、帰ってこないつもりだったのではないか、と。
だから、君が俺を殴ってくれなければ、俺は君を抱擁できない」
すると、メロスもあやまる。
「やはりこの三日の間、一度だけセリヌンティウスを疑ったのだ」と。
それから二人は、お互いを殴りあってからお互い抱擁する。

(『幸福論』寺山修二)
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なんたる蛇足。
せっかくの感動も消え失せてしまうではないか。

わかっていだだけただろうか。
オーディエンスに感じ取らたいのであれば、
饒舌に語ることへの欲望は、常に抑制しなくてはならない。

そして、この原理に立てば、
バックグランドに音楽をひくことさえも、
演出家であれば躊躇いを感じなければならないのだ。

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