【激おこ】男子=ブルー、女子=ピンクみたいなのいい加減にしろ【クロニクル】
コミュ障すぎてコメントが返せそうにない話をしなければと思いつつ(本当にごめんなさい)、27時間テレビ『関ジャニ∞クロニクル』について少々。
てかそもそも27時間テレビって(24時間テレビにも思ってたことだけど)そんなに長時間起きてたら具合悪くなっちゃうから、どうしてもやりたいなら完全セパレートの3部シフト制とかで出演者総とっかえでやったほうが健康的じゃね?みたいな。ことをずっと思っておりました。
まあそんなことはともかく。『関ジャニ∞クロニクル』といっても、今回はメンバーではなくスタッフというか制作側というかテレビの慣習に関する話(と余談いろいろ)です。
・衝撃すぎて巻き戻してしまった
これこれ。番組をしっかり見る体力がなかったので録画して、適宜早送りしながら見てたんですが、テロップと名札が男子ブルー&女子ピンクで、インタビュー中については男子ブルー背景「くん」付け&女子ピンク背景「さん」付けになってて、めちゃくちゃびっくりして早送りをやめて一旦巻き戻して、しっかり見てしまったという。10年前くらいの番組見てるなら仕方ないけど、まじか、2019年でこれか。こんだけランドセルがカラフルになった時代に男女二元論&男子ブルーで女子ピンクとかいい加減にしてくれ、となった次第。
おそらくなにも考えずにテレビの慣習に従っただけなんだろうと思いつつ、正直、あそこを男女でわける意味がわからなかったというか、どうしても色分けしたいなら、丸山隆平さんチーム=オレンジ、大倉忠義さんチーム=緑、安田章大さんチーム=青、横山裕さんチーム=黒、みたいにメンバーカラー=学校(競技)ごとでよくね?と。学校や競技の垣根より男女の垣根が重要とはまったく思えないし、性別で分ける必要性がよくわからない。呼び方だってそう。いま大学とかだと全員「さん」付けの先生も少なくないけど(慶應は全員「君」付け文化あるけど笑)、テレビってまだこんな感じなんだ....と不覚にもドン引き。作業における煩雑さというか機械的に処理できるって意味でも全員「さん」付けのほうが楽な気がするけど、なぜわざわざわけるのか。
慶應義塾では、先生というのは創立者たる福澤諭吉先生ひとりに限り、他の教職員はすべて「君(くん)」づけで呼ぶならわしがある。
福澤先生からすればどの教職員もことごとくが門下生であって、孫弟子なり、その又弟子なりにしてからが、その点ではたとえ塾生とてもまったく一視同仁といわなければならない。すなわち、そういう成り立ちがそのまま全教職員、いな全社中おしなべて、その敬称を「君(くん)」づけに統一させる基盤となっているものといえよう。
んで、慶應はどうでもいいので話を戻すと、こういうThe差別じゃないところでこそ価値観出るよなぁ、と思います。そして、だからテレビ見たくねぇんだよ、とも思います。だって不快なんだもん\(^o^)/いくら関ジャニ∞が面白くてもこればっかりは無理。男とか女とか、今はそんなので「色分け」する時代じゃねぇんだよ、と。
・ジェンダーに関してはかなり沸点が低い自覚がある
そんなこんなでキレつつも、同じようなこと思ってる人いないかなと思ってググっても(ググり方がよくないのか)なんも出てこんので、キレるポイントそこ?と思われるかもしれないとか思いつつ、いやでもこういうの放置して良いことないしな....とか思いつつ。
とはいえむろん最終的には、出演してくれた高校生全員に、あなたはシスジェンダーですか?って確認とって(これやったらたぶんアウトだけど:みんながみんなオープンにしたいわけでも、できるわけでもないし、カミングアウトの強制はハラスメントでしかないので)、男子と女子で名札の色変えますけどいいですか?っつって、当事者全員がokならまあもう勝手にやっていただくしかないのかな、とは思うんですが、そもそもの男女二元論が間違ってる、ジェンダーはグラデーションで、はっきり2色に「色分け」できるもんじゃないんだ、ってのは自明のことにしていかないとそろそろ厳しい気がしている。いろいろ。
LGBTQも念頭に置いてるけど、そうじゃなくても。「男らしい」「女らしい」に適応できない人、したくない人はいくらでもいると思うし、むしろそういう「らしさ」を(自ら選び取るのはありだけど)誰かから押し付けられるのは秒でスワイプして消す案件だし、なにより、今いつだと思ってんだ、っていう。昭和どころか平成も終わって令和なうっすよ。2020年も目前っすよ。
てか2020年で思い出したけど、『ZIP!』の東京オリンピック・パラリンピックに向けて云々かんぬんなKing & Princeさんが出てるコーナー(「MEDAL・RUSH」)のテロップでメンバーを「オネエ」いじりしてたのも素で引いた。「2020年の東京に向け汗をかけ」っつーコーナーでどうしてこういうことが起こるのか理解ができないというか、まずはオリンピック憲章でも読んだらよろしいんじゃないかと思うというか。
スポーツを通して差別のない社会の実現を掲げるオリンピック憲章。IOCは、2014年に憲章を改訂し、同性愛者への差別も許さない方針も打ち出した。そして今、こうしたスポーツ界の動きは、世界の大きなうねりとなって社会を変えようとしている。
全然関係ないけど、ジャニーズWESTの中間さんとかお呼びして、オリンピックやパラリンピックの競技が男女で分けられてることについて議論する番組とかやったらすごくなりそう(適当)。
いやでも真面目な話、生物学的に男性/女性ってのはけっこう一概に言えないところがあって、人によってはどこからは男性でどこからは女性ってひとつの基準じゃ決められないらしいんすよね。染色体も決定打ではなく、ひとつのホルモン値だけで測れるものでもなく、だから議論が続いてる。話が逸れるようだけど、どういう要素が有利とか不利とか(これはトランス関連で議論されてるやつ)についても。
のみならず、DSDの話でも思ったけど、世間で考えられてるほど性別って単純じゃない。
例えば、普通、「男性の体にはこんな特徴がある」、「女性の体にはこんな特徴がある」という風に人は理解しているけれども、この「男性の体」あるいは「女性の体」には様々な発達の度合いがあって、従来の捉え方よりも、はるかに広いと考えてみてほしい。この点で、「もう一つの性」、あるいは「第3の性別」というジェンダー的考えとは異なる、DSDの実態がある。
生まれの性別と相入れない自認を持つトランスジェンダーの人々との大きな違いは、DSDが性自認の問題ではないこと。セメンヤ選手自身も、「女性として生まれ、自分を女性として認識して生きてきた」と述べてきた。
例えば、男性か女性かの基準を考えるときに、外性器とか染色体だとか、あるいは精巣か卵巣かのどっちかなんだという風に、ある一つの基準にこだわりがちですよね。ただ、そういう風にただ一つの基準だけで判断すると、性別判断が間違ってしまうことがあります。
総合的に判断することが必要なんです。遺伝子までを含めて、染色体はこうだけれど、外性器の形状はこうで、性腺はこうで、子宮はこうで、遺伝子はこうで、と、その子自身を全体的に見て性別判定がされています。
総合的に見ると実は性別判定は可能ですけれども、染色体とか、性腺の種類にみんなこだわってしまう。強迫的になってしまうのです。むしろ、そういうことをしないということが、重要と考えています。実は、セメンヤさんの話でも、結局同じ間違いが繰り返されています。
素人的には、どこまでが才能として認められて、どこからが規定を満たさないということになってしまうのか、すげぇ曖昧に思える。
染色体がXYでも、女性に生まれるということが、実は普通にあります。
その女の子が間違って生まれてきたわけではなくて、間違っているのは、どちらかというと教科書の方ではないか、と思います。ほとんどの男性は(染色体が)XYではあるけれども、またほとんどの女性はXXではあるけれども、例外があって、XYでも女性で生まれることがあるのです。
世界陸上にいけるレベルの選手はみなさんものすごく努力してるにしても、一般人にはないような素質や才能があるんじゃないかと思ってるんですが、一部の素質はアリだけど、それ以外の素質はアウトってのは、フェアじゃないように見えてしまう。周りの選手からしたら、生まれつきの条件がずるいってことになるのかもわからんけど、そんなこと言ったらみんなそうじゃん?体格とか筋肉とか。ホルモン値で出場規制とかしてもどうしようもない気がする。
もう1点は、テストステロン値のスポーツ面での評価の件です。
DSDを持っていて、なぜXYでも女性で生まれてくるかというと、実は、体の細胞自体が、テストステロンに反応しない体の状態だからです。
どれだけテストステロン値が高くても、体の細胞がそれを受け付けないので、女の子で生まれてきます。このため、テストステロン値の高さ自体は、ほとんど基準にならないのです。
その中で、細胞の一部だけがテストステロンに思春期以降に反応するという女の子がいます。
でも、それでも、一部しか反応していないのです。一般女性がテストステロンをドーピングするのとは、まったく訳が違う話です。一般女性のドーピングの方が、よほどテストステロン値の影響がある。でも、DSD女性の場合は、テストステロンがどれだけ出ていても、全く反応しないという女性が実は一番多い。
数字でいうと、XY女子で、テストステロン値が高くてもまったく体が反応しないCAISの女の子が1万3000人に1人。一部反応するPAISの女の子がその10分の1の、13万人に1人。テストステロン値だけで測ることは、実は、できないのです。
・ついにジェンダーレス絵文字がきたか.....
なんかぜんぜんクロニクルの話じゃなくなってるけど、まじでなんというか、炎上させて楽しいとか思えるタイプでもないし(どちらかというとそういうことには関与したくない。時間の無駄すぎる)言及しなくて済むなら正直したくないけど、あり得なさすぎることが起きてたのでついうっかり吠えてしまいましたとさ。テレビは放っておいても消えてなくならないからね。放っておいてそのうち消えてなくなるものならなにも言わないという選択肢もあったけれども。というわけで、べつに批判したかったわけではなく、そろそろ勘弁してくれ案件があった、という認識でおります。
で、そんなことはともかく。
ついにキタ━━(゚∀゚)━(∀゚ )━(゚ )━( )━( ゚)━( ゚∀)━(゚∀゚)━━!!!!!
もちろん議論の余地はあるんだけれども。それでも現状取り得る選択肢のなかでもっともマシなことが起こった的な意味でよろこんでいる。いちおう。
あるツイッター(Twitter)ユーザーは「なぜ最初から全部中立的にしないのか、理解に苦しむ。おなじみの顔絵文字は中立的だった。そもそもなぜすべてに性差を与え始めたのかが分からない」と投稿した。
それはそう。
ただスクリーン上の包摂性を向上させようとするこの試みは、万人に歓迎されているわけではない。これらの絵文字は「従来の性差にあてはまらない人はこういう見た目であるべき」というイメージの押し付けだという指摘もある。
それもそう。
・余談of余談(語学ネタ+α)
なんかあれだよね。いつも迷うというか、考えてしまうのが、男女と言うときの男女って順番。語学やってると、特に。いつもhe(英語)とかil(仏語)が先って冷静にやばくね?みたいな。そんで、動詞の活用を覚えるときにil=彼とelle=彼女(まあフランス語はモノにも性別があるから日本語で言う「それ」もilやelleになるんだけれども)を適当にシャッフルしつつ勉強してみている。
よい時代がきてる٩( 'ω' )وと思いつつ、どういう表現をしていくのが適切なのかはけっこう考え中というか、検討中。
そして最後に、近頃読んで面白かった記事をぶん投げて終わろうと思います。どちらかというと、あんまりスッキリはしない話だけど、今後を考えるのに大事な視点なんだろうなぁ、とか。俺もここまでいろいろ言ってきたけど、男子=ブルーで女子=ピンクみたいな価値観しかしらない人からしたらパニック案件なんかなというのはわからんでもないし。だからステレオタイプを温存していいとは思わないけど、こちとらもうちょいマイルドな言い方とか身に付けたほうがいいんかなぁとか。これもまた考え中だから明確な結論が出てるわけではないけど\(^o^)/
どういう経緯でそんな話になったのかも忘れてしまったが、彼は「同性愛者が養子を引き取るのはダメだと思う」と、話し出した。理由を聞くと「子どもは親を選べないので可哀想だから」だそうだ。よくある回答だ。そして、ここは店だ。議論するのは不適切だが「そうですよね~」と流すことはできない。そこで私は「え~、でも妊娠して子どもを産むときも子どもは親を選べないよね? 施設に預けられた子どもが男女の夫婦に引き取られるときも同じだよね? 同性愛の人が引き取るときだけどうして可哀想になっちゃうのかなー?」とバカのフリして問うてみた。
すると、男性の表情がみるみるうちに歪んでいき、「だって」と癇癪を起こし始めた。
「だってわからないんだよ! 俺らはきちんと郷に従って食い下がって生きてきただけなのに、世間の常識が急に変わり出して、いきなり変化を求めるような社会の流れになって! 今まで当たり前だったことが間違っているとか急に言われ始めて、どうしたらいいんだよ!」
そう言って声を荒らげた男性はまるで、異国に漂着してしまい気づかぬうちに法に抵触して捉えられた人のようだった。彼の話した一言一句が同性のカップルが養子縁組をすることを否定する根拠になるとは微塵も思わなかったし、“世間の常識”は誰かの犠牲のうえに成り立っていたものなので、擁護しようとも全く思わない。ただ、荒れ狂う感情の波に揉まれ溺れている一人の人間を目の当たりにして気の毒だと思ったのも正直なところである。
「“世間の常識”は誰かの犠牲のうえに成り立っていたもの」っての、なるほど&それなすぎた。
(画像:いらすとや)