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研究室を脱出せよ!【最終回】ポスドクたち、旅立つ。

引っ越しを翌日に控えた僕は、ラボに残した私物を取りに久しぶりに研究室の居部屋に向かった。あの事件が起こって以来、部屋に席を残しているのは一般企業へ転職が決まった僕と、渡米の準備をしている黒岩さんだけだった。

移転先を探すのに奔走している研究員達をよそに、黒岩さんはアメリカでの研究員のポストが見つかったと宣言し、僕らを驚かせた。驚いたのはそればかりではなかった。それまで田所教授教授に相手にもされなかった研究をまとめあげ、投稿の準備をしているという。さらに、論文の共著者には藤森教授と移転先のラボのボスの名前まで入っているのだという。どこをどういうふうにしたのか分からなかったが、いつのまにか共同研究という体裁をとっていたのだ。渡米先のボスのコメントでは、この研究はかなり独創的であり、極めてレベルの高い雑誌への投稿を真剣に考慮すべきとのことだった。信頼回復が研究室の復活には必要不可欠なのと、外面だけは良い田所教授にしてみれば、この話を断る理由はなかった。道義的ななことはよく分からなかったが、黒岩さんの逆転作戦勝ちであることに間違いはなかった。

それにしても、黒岩さんは一体いつからこれほどの準備をしていたのだろうか。あるいは、研究室の不正問題の件についても、相当早い段階から気付いていたのかもしれない。僕は、これほどの逆境にも関わらず研究をやり続けている黒岩さんのタフさに驚愕した。いまある現状のなかで最善手を打つ。黒岩さんはそんな自身の言葉をそのまま実行した。

そのとき、ちょうど黒岩さんが部屋に入ってきた。その手には、スーパーで買ったばかりのインスタントラーメンの袋がぶら下がっている。

僕は、かねてから聞こうと思っていたことを黒岩さんに聞いた。

「黒岩さん。」

「おうっ、なんだ。」

ラーメンの袋をうれしそうに破きながら、僕の方を振り返った。

「前から知りたかったんですけど、黒岩さんってなんで研究を続けてるんですか?」

いつも突然の質問を浴びせかけてくる黒岩さんも、このときばかりは立場が逆転した様にびっくりしたような顔をした。

僕にしてみれば、これほどまでに不遇なポスドク生活を続けるメリットが何も見つからなかった。それに、黒岩さんほどの地頭と達者な口があれば、一般企業への転職も実現可能な様に思えた。いや、僕は確信している。黒岩さんはかつて戦略コンサルなどへの転職活動を経験したことがあるに違いないと。

「そうだなあ。まあな。あれだ。結局は好きなんだよ、研究が。」

黒岩さんは、照れ笑いしながらラーメンをタンブラーに詰め込みはじめた。そのとき、ふいにその手を止めると、笑いながらホワイトボードに向かい始めた。

黒岩さんの最終講義が始まるな。僕はすぐそう気付いた。

「ケンドーさあ、アフリカ単一起源説って知ってるだろ?」

ほら、始まった。いつものように唐突な話題から始まる。僕はわくわくして耳を傾けた。

「ええ、人類の起源はアフリカから始まった、っていうやつですよね。」

「そう、その人類の起源っていう奴らがさ、アフリカから飛び出して世界各国に移住、拡散していったっていうやつだ。でさ、その、最初にアフリカを出たやつね、そいつ、なんでわざわざそんなことをしたんだと思う?」

僕は突然の質問に戸惑った。いつのまにか黒岩さんのペースだ。

「それは、んー、なんでしょうかねえ。アフリカの気候とか、食糧事情とか、そういったものが悪化したとか。」

僕はしどろもどろになりながら答えた。

「まあね、そういうこともあったかもしれない。だけどさ、だったらアフリカから人類が完全にいなくなったって良さそうじゃん。でも、現実は、アフリカに残ったやつもいる訳だよ。」

確かに言われてみればそうだ。黒岩さんは続ける。

「俺はさ、思うんだけど、飛び出していったやつっていうのはさ、単純に外の世界、未知の世界を見てみたかったんじゃないかって。でさ、その知的好奇心の遺伝子を引き継いでるのがさ、俺たち研究者なんじゃないかって。」

そう言うと、黒岩さんはホワイトボードに大きな丸を書いた。そこに、丸から出ていく矢印を書き加えると、「未知への憧れ」と付け加えた。

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「なんで好きなのかっていったらさ、理由はないんだよ。単純に気になるんだ、自分の知らない世界のことが。でもな、これだって役に立つこともある。実際、アフリカから出ていったやつらは新しい土地、獲物、鉱物、そういったものを手に入れられたわけだ。」

なるほど。僕は思わずうなずいた。

「なるほど、わかりました。そういう未知への憧れっていうのが、人類の発展にとって重要だったってわけですね。」

「いやー、そうとも言えんのだぞ。」

黒岩さんはは、いつものように意地悪そうに僕の意見を否定した。ディスカッションを心から楽しんでいるようだった。

「外の世界が気になるっつったって、いつでも安全とは限らないわけだ。恐ろしい外敵がいる可能性は高いし、病原菌にやられたら全滅。未知への憧れがいつでも良い結果を生むなんて誰にも分からんのだ。そういう時は、こうやって残っていた方が有利だとも言える。それにしたって、そこにピンポイントで災害でも発生したら終わりだけどな。」

僕はだんだん混乱してきた。黒岩さんは何が言いたいのだろう。

「こっからは俺の考えなんだけどな。」

そういって、黒岩さんは水性ペンを置いて僕の方を見た。

「大事なのはさ、こうやって残るやつ、出ていくやつ、両方いる社会なんじゃないか、ってな。そうやってリスクを分散する事が、結局は知りようもない未来に対する唯一の対処法じゃなのかって。まあ簡単にいえば多様性、っつうことになっちゃうんだけどな。」

多様性。それが黒岩さんの出した答えのようだった。

「残るやつ、出るやつ、どっちが良いかなんてすぐには分からん。お互いに攻撃し合うなんて無意味なことしないで、多様性を尊重するのが大事なんじゃないか?研究なんてさ、何の役に立つかなんて誰にもわからないさ。いや、結局は無駄金使っただけで、社会に何も還元されないような研究のほうが多いかもしれん。でもな、そういった研究の中から、人類をハッピーにするような良い結果が出てくるんだよ。直接的な見返りも大事だけど、そういう多様性を大事にする、っつのが結局は健全な社会への一番の近道なんじゃないか?」

そういうと、黒岩さんはホワイトボードの図をゆっくり消し始めた。

理由なんかない、単なる知的好奇心を追及して黒岩さんは研究の道を歩み続ける。それでも、その営みこそが、結果としてこれまでの人類の幸福実現を助けてきた。

僕はアカデミアの道を外れた。研究を続けている人にとっては亜流の道かもしれない。でも、そんなキャリアパスがあったっていいじゃないか。いろんな奴がいて、いろんな生き方をする。その多様性を容認する社会こそが、僕達が目指す道なんではないか。

黒岩さんが作りはじめたカップラーメンの匂いをかぎながら、僕はそんなことを考えていた。

(おわり)

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