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研究室を脱出せよ!【29】ポスドク、ひらめく。
その日、清水さんからはいくつか書類を用意するように言われた。職務経歴書と履歴書に加え、今回は英文レジュメと呼ばれるものが必要だという。僕は、ホームページには職務経歴書と履歴書の英語版が必要と書いてあったようだが、とたずねると、
「それらを別々に書く必要はありません。ただ、外資系の企業では英語のレジュメが必要になることが多いので、そちらに関してはご準備の方をお願いします。」
と言われた。参考用のテンプレートも送るので、それを見ながら書いてください、とのことだった。ただし、実際に人事の方が見るのは日本語の方なので、英語レジュメはそれほど気合を入れて作成することはないとのことだ。
こんな細かいことは自分一人では決して分からなかっただろう。なんにしても、頼りになる転職エージェントほど心強いものはなかった。
職務経歴書に関しては戦略コンサルのときに使用したものをベースにし、従事したことのある実験や、使用経験のある機器などの情報を書き足した。履歴書は「志望動機」の欄を少し大きめに作り、「やりたいこと」よりも「できること」を重視した内容で書き上げた。
これらの書類を清水さんに送ると、さっそくフィードバックが帰ってきた。
「兼道さんの書類を拝見させていただきました。点数は80点。良く書けていますね。
ただ、志望動機につきましては以下に挙げる点を踏まえつつお書きになると、より良くなるかと存じます。
1. 研究者として企業で働くという選択肢もあるなか、なぜ「技術営業」という職を希望するのか。
2. 数ある企業の中から、なぜその企業をお選びになったのか。
3. ポスドクとしての経験が、入社後、具体的にどのように役に立つと考えるのか。
それでは、ひきつづき頑張っていきましょう!」
メールに書かれた丁寧なフィードバックを見ると、今回の転職活動に対する清水さんの強い思いが伝わってくるようだった。なにより、ポスドクとしての経験を踏まえた清水さんのアドバイスは、いままでの転職エージェントとは全く別物の迫力があった。
ただし、清水さんが他のエージェントと違っていたのは、かつてポスドクだったという経歴面というだけではなさそうだった。清水さんのアドバイスは、常に僕の良かったところを誉めつつ、それから問題点を指摘するというスタイルだった。あるいは、指摘された点について僕が自分なりの言葉で修正を加えていくと、必ずその点を評価してくれるのだ。清水さんとやりとりをしていくうちに、僕は「コーチング」という言葉を思い浮かべていた。他人に対してアドバイスを送ったり、問題点を指摘するという、そういった単純な作業にも高度なスキルが要求される。悪かったところだけ指摘しても、指摘された本人は自分が否定されたような気になって、あまりいい気持ちはしないものである。その点、清水さんのコーチングは常に的確でありながら、心地良く受け入れることができた。戦略コンサルの青木さんも優秀なエージェントではあったが、問題点をズバッと指摘するやり方は正直なかなか慣れなかった。そういう意味では、青木さんよりも清水さんのコーチングスキルははるかに高いようであった。
清水さんはこのことをどの程度意識してやっているのだろか。本人と話した感じでは、無理をして相手を褒めるような感じは受けさせなかった。そのスタイルは、あくまでも自然体という言葉がふさわしかった。そういう意味では清水さんもまた、意識することなく湧き出るスキルを強みとした職業についているようであった。
こうして書き上げた書類は、採用審査を無事に通過することになった。僕は、久しぶりの書類通過の連絡をかつて味わったことのない高揚感で聞いた。
書類のやりとりを終えると、次は面接の練習だった。東京まで行くことのできなかった僕のために、練習は電話越しにおこなわれた。いままで、電話で面接練習などしたことなどなかったので、ちょっと気恥ずかしい気持ちだったが、清水さんの声は真剣そのものだった。
「もし、あなたの上司がとても嫌な人間だったら、あなただったらどうしますか?」
何問目かの清水さんの質問に、僕はおもわず田所教授の顔を思い浮かべて声を失った。
「ふふ、そんなに真面目に考えなくてもいいですよ。ただ、これはかつて実際に聞かれた質問なんです。社会にでれば、あなたの想像しなかったような耐え難い場面に遭遇することもあるかもしれません。そんなときに、企業人としてどう対処するか。これも大事な能力なんですよ。」
そういって清水さんは笑った。
「さて、質問は以上です。ほかの質問には無難に答えられるようになってきましたし、志望動機もかなり固まってきました。この状態で面接に臨むのは問題ないとは思います。思いますが、ただ。」
そこまで話すと清水さんは一瞬だけ間を開けた。
「ただ、多くの候補者のなかから兼道さんが選ばれるには、あともう一点、なにかインパクトのある志望動機が欲しいような気もします。なぜ技術営業という職業なのか。それに対して、面接官の心に残る様な、そんな一言があればいいのですが。」
清水さんの懸念と同じものを、僕もずっと考え続けていた。僕の頭の中には、いつかの戦略コンサルの面接時の言葉が鳴り響いていた。
(それだけですか?だとしたら、なんだ、そんなもんか、って感じですよね。)
僕は、「もうひと頑張り、最後にしてみます」、といって電話を切った。
志望動機っていったいなんだろう。僕はそう考えながらラボの屋上に登った。こんなときはお気に入りの場所で頭を冷やそう。
本音のことをいえば、自分が応募することのできる職業がたまたまあって、書類がなんとか通った。だから面接を受けにきた。入れてやってもいいといわれたから入りたいと思った、それが志望動機だ、とでも叫びたかった。そのくらい、僕の転職活動はクタクタになっていた。
でも、とも思う。そんなこと、企業側としても百も承知なのかもしれない。それでもあえて志望動機を聞いてくるのは、自分達を納得させるような言葉、ストーリーをつむげる能力があるのか。そんなことを問われているような気がする。そして、その能力こそが、顧客に対して自社の製品をアピールする能力につながってくるのだろう。
やりたいこと、できること、どちらもはっきりしている。この職業はその交差点に位置するポジションなのだ。あとはそれを言葉にするだけだ。
すみわたった秋空に、はるか彼方に見える山々がくっきりと浮かぶ。コンサルの面接を受けた頃からすると、すっかりと空気も冷たくなり、遠くの景色がはっきりと見えるようになった。
遠くに見える山脈をぼんやりと眺めながら、いまこの瞬間にもあの山に登っている人がいるのかなあ、などととりとめもないことを考えた。そういえば、博士課程最後の年に記念にのぼった富士山はきつかったなあ。それでも頂上から眺める景色は格別のものだった。そんなことを考えていると、ふいにあるストーリーが頭の中を駆け巡った。それは、研究をしているときに新しいアイディアが浮かぶときとまったく同じような、強烈なものだった。
「これはいける。」
僕はそう確信した。