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研究室を脱出せよ!【26】ポスドク、つまづく。
最後に残った一社の結果を待つ間、僕はエージェントを通さない求人にもチャレンジすることにした。
最初に調べたように、人材を募集する企業はエージェントを通した場合は成功報酬を支払うことになっている。その分だけ人材の獲得コストは割高になる。一方、企業のWebサイトなどから直接求人をかける場合は、エージェントを通さない分だけ安く人材を獲得できる。人材コストを抑えたい企業はあえてエージェントを通さないこともあるのではないかと踏んだのだ。
そうやって各企業のWebを探していくうちに、自分のやりたいことに非常に近い企業を見つけた。クライアント企業の社員モチベーションを定量化し、それを上げる方法のコンサルティングをおこなっているというのだ。採用ページを見ると、我々の事業は極めて新規性に富んでいるために、それまでの経験よりはポテンシャルを重視すると書いてある。また、転職エージェントを通した求人活動はおこなっていないとはっきり書かれていた。これだ、と思い書類を準備した。今回はこの企業向けに職務経歴書を自分なりにアレンジもしてみた。
一週間ほどして結果を伝えるメールが来たが、結果は書類不通過。今後の貴殿のご活躍をお祈りしております、と書いてある。なるほど、これがお祈りメールか。。
頼みの綱だった最後の企業の結果はなかなかこなかった。いろいろともめているのかもしれない。だとすれば、少なくともなんらかの審査に通っているのだろう。僕は、雑に準備した職務経歴書を出してしまったことを後悔した。
面談をおこなってから1ヶ月ほどしたある日、さすがに遅すぎると思い連絡をしようとしていたところにちょうどエージェントからメールが来た。
「今回の求人ですが、先方で既に採用者が決定したとのことですので、残念ながら今回はお見送りとさせていただくということです。」
そう書かれたメールを読みながら、僕は茫然とした。この文面を読む限り、僕の書類は最初から考慮されず、ほかに応募してきた人の選考過程が全て終了してから不採用の結果を送ってきたことになる。いやはや、怒っていいやら、情けないやら。
そういうわけで、打つ手を全て打ってしまった今、僕はどうしていいかわからず途方にくれるしかなかった。一体何が起こっているのだろう。
こんなとき、黒岩さんがいたら色々と相談に乗ってくれただろう。しかし、黒岩さんはあいかわらず出張続きで、ラボに顔を出すことは滅多になかった。残念だが自分で考えるしかなさそうだ。幸い、新しいエージェントになってからまだ一ヶ月程度しかたっていなかった。今ならまだ傷は浅い。一度しっかりと事態を分析してみよう。これだって実験、これだって実験。僕は呪文のようにそう唱えてみた。
まず、書類不通過を知らせるメールに書かれた「採用に至らなかった理由」という項目をもう一度見直してしてみた。そうすると、それらは大きく二つの理由に分かれることがわかった。一つはは、「組織の構成上、ポジションが合わなかった」というもので、もう一点は「その職種を経験したことのある人材を優先した」というものだった。
最初の「組織の構成上」というのは、おそらく年功序列と終身雇用を前提とした雇用システムのことをいっているのだろう。従来の雇用システムでは就業年数に応じた報酬が支払われているはずだ。そこに、事業経験はなく年齢だけは高くなってしまったポスドクが応募しても、対応するポジションがないというのはうなずける話だ。仮に採用されたとして、そのポスドクが同世代と同じ水準の報酬をもらうことになれば、いままで働いてきた社員の士気を低下させる事につながりかねない。そこまでして獲得したい人材であるのか、ということだ。
もう一点の事業経験の有無に関しては不可解だった。求人の募集要項を見ると、第二新卒扱いとなっており、それまでの経験は問わないと書かれている。それにもかかわらず、実際に採用されているのは極めて似たような職種を経験したことのある人材であった。この点に関しては、採用を担当している人事担当の気持ちを考えれば、なんとなく分からないでもないような気がしてきた。人事とはいえ、彼らはサラリーマンである。優秀な人材を獲得したところで、高い報酬が得られるというわけでもなかろう。これがアメリカのように上司が採用を直接担当し、グループのアウトプットによってサラリーが決定されるような仕組みであれば、単純な経験の有無だけで採用を判断することは少ないであろう。リスクを犯した採用をするインセンティブが十分に存在しうる。ところが、日本の従来の雇用システムではどんな人材を獲得しようとそれで給料が上がったり下がったりすることはないのかもしれない。それならばあえてリスクを犯さず、無難に経験のある人材を雇った方がいいに決まっている。
なるほど、こうやって考えれば巷で言われている「ポスドク問題」というのが良くわかる。要するに、企業での経験がないポスドクが転職市場に放り出されても、人材としての価値がつかないというわけだ。こうした日本の雇用システムの現状は良いとか悪いとか色々と言われているが、当時者としては当面はゲームのルールに従うしかないだろう。実験をする際に自然法則を恨んでもしょうがあるまい。
それにしても、と思う。不採用になった理由のどちらもが「経験」という大きな壁に阻まれていることはショックであった。研究者としての活動をしていく際は、これほど経験が重視されたことはなかった。修士課程から博士課程に進学する際はテーマを変えたし、ポスドクとして赴任したラボでもES細胞という、それまで触った事のない材料に手を出した。いずれも、それまでの経験がマッチしないからという理由で入学なり採用をを拒まれたことはなかった。その分、アカデミアで残っていくためには、どういった論文を何本書いたかという「結果」だけが問われる世界である。その点、企業への転職活動は30歳という年齢もあるのだろうが、結果よりは経験を重視しているようであった。
僕は、ここまでの考えをまとめるために図を書いてみることにした。
新しい世界へ飛び出すために、純粋に能力だけで選ばれる場合がある。大学などの受験や、資格の取得である。もちろん、世帯年収などの生育環境と学歴などに相関などがあるのは間違いないだろうが、それでも一応は努力した者、才能のある者がが選ばれる仕組みがある。戦略コンサルの選考は、ポテンシャル重視ということもあって、この範疇に入れることができるだろう。経験がなかった僕は、幾たびにも渡る選考を経て、能力が足りないという単純な理由で採用されなかった。
次に必要になるのが経験である。僕くらいの年齢だと、転職市場においては何よりも職歴が重要になる。なにをしてきたのか、それを伝えられなくてはならない。もちろん、戦略コンサルを受けたときに見つけたようなポータブルスキルがポスドクにはあると信じているが、そういった分かりにくいものよりも、直接的な経験の方がはるかに重要であることが良く分かった。
そして最後に来るのが結果である。何を残してきたのか。それを具体的な数字などで伝えなくてはいけない。アカデミアだと、ポスドクから常勤研究者へのキャリアアップがこれに相当する。企業の場合は良く分からないが、マネージャークラスや経営に近い人材などの転職は、それまでの結果が重要になってくるのは間違いないだろう。
こうやって考えてみれば、やりたいことだけを軸にした転職活動がうまくいくわけがなかった。そういえば黒岩さんに会った日、やりたいことが見つかりましたといったときに見せた不安げな表情は、このことを意味していたのかもしれない。担当エージェントは僕の話を興味深く聞いてくれたが、内心ではこの転職がかなり難しいことであるのを分かっていたのかもしれない。鉄砲を数打つうちに当たるであろう、という戦略だったようだ。どうやらエージェントにも当たりとハズレがあるようだ。
僕は、やりたいことばかり主張していた自分の態度が少し恥ずかしく思えた。大学を卒業したばかりの新卒の学生ならばいざ知らず、30歳にもなってやりたいこと、もないよな。とはいえ、やりたくもないことを嫌々やるような人生を送るのが正しいとも思えない。転職市場という大海原の中で、僕はどちらに向かって進んでいったらいいのか分からなくなった。
そのとき、ふと黒岩さんが良くやっていたような方法を試してみようか、と思った。僕はノートに直線を引き、「やりたいこと」と「やりたくないこと」と書いてみた。そうして、もう一方の軸には何が書けるのか考えみた。やりたいことと対立する概念といえば、
「できること、だな。」
とっさに閃いた考えを、さっそく書き込んでみた。
今回の僕の失敗の原因は、「やりたいこと」を軸にした活動だったからだ。自分に何ができるかは二の次にしてきた。入社して経験を積んでいくうちに、それなりのスキルが身につくだろうと思っていたのだ。実際、戦略コンサルの転職活動ではこの考え方である程度うまくいった。それは、戦略コンサル特有の「ポテンシャル」という考え方に依るところが大きかったのだ。ところが、一般的な転職活動ではこうはいかない。職歴などに代表される、「できること」が最重視される世界だったのだ。このことに気づくのに相当な時間がかかってしまった。
人生においてやりたいことを追及するのは大事だ。それが自分にしかできないことであるならばなお良い。問題は、そこにどうやってたどりつくかだ。いまの僕には、やりたいことから始める道は残されていないようだ。それならば、できることから始めて、その上でやりたいことができるようなキャリアを積めばいいのだ。
ここまで考えたところで、僕の手が止まった。
「ポスドクのできること、って何だ!?」