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研究室を脱出せよ!【8】ポスドク、決意する。
興奮冷めやらない僕は、考えをまとめるために取りあえずノートを取り出した。
まず、戦略コンサルのやっていることだが、これは相変わらずよく分からなかった。クライアントとの守秘義務があるために、具体的な事例が出てきにくいらしいのだ。それでも、いくつかのページをみているうちに、意外とこれは実験と近いのではないかという感想をもった。企業の経営を改善するためには、まずは現状の分析をする。そのうえで、問題点となっている箇所がどこか仮設を立て、その仮設が正しいかどうか、様々なデータをつかって検証するのだ。これは、はっきりいって僕ら研究者が毎日やっていることとほとんど変わらないようだった。異なる点といえば、分析対象が自然なのか、それともマーケットなのか、といったくらいだ。
次に、戦略コンサルに対する僕の思いについて考えてみた。
第一に、未知のものに対する憧れという僕の基本的な価値観に合っている。戦略コンサルになれば、いままで体験したこともなかったビジネスの最前線が勉強できる。
第二に、戦略コンサルというのはものすごく人材を大切にする文化があるそうだ。20代、30代の若手が企業のミドルやトップに対してアドバイスをするわけだから、しっかりとした経営の知識をもった人材を育てる必要があるのだ。さらに、グローバル社会においては日本以外の企業との関わりが当然あるので、語学研修もかなり充実しているそうだ。スキルを身につけるにはまたとない機会である。
第三に、戦略コンサルというのはかなりの高給取りだという点が挙げられる。いままでは給料のことについては真面目に考えないで生きてきた。というのも、つい半年前まで学生だったからである。29歳まで学生だったのだ。しかし、黒岩さんと人生の天秤のついて話して以来、今の待遇が果たして適正なのか分からなくなっていたのだ。その点、戦略コンサルの給料はかなりいいらしい。その分、とんでもない激務が待ち受けているそうだが、今だって研究の為に一日中ラボいる生活を考えれば、自由時間なんてほとんどないが別に苦痛ではない。
と、ここまで考えてみたものの、こりゃ駄目だな、とすぐに気がついた。新しい体験ができてスキルも身につき、その上給料まで良いとなったら、そりゃあ誰だってやりたいと思うだろう。これは本当の動機ではないな。自分が戦略コンサルについて調べたときに感じたワクワク感を伝えるにはどうしたらいいのだろう。
さらに困ったことに、ここに書いたのはあくまでも自分からの想いだという点だ。いくらこっちが好きだといっても、向こうが自分のことを好きでいてくれる保証はどこにもない。そもそも、ビジネスに対する経験がない人間が、企業のトップに対して経営のアドバイスがなんでできるのだろうか。戦略コンサルティング会社がわざわざポスドクを雇う理由は一体なんだろう。
そうやって考えてみれば、ポスドク生活を辞めて戦略コンサルになろうというのは、到底かないっこない無謀な挑戦のように思えた。一方で、あの翻訳者が工学博士から戦略コンサルへと転進できたこと、コンサルティングと研究とが極めてよく似ていること、そしてなにより、この職業を調べたときの興奮を思い出すと、どうしてもチャレンジしてみない訳にはいかないような気もした。
あくる日、このことをこっそりと黒岩さんに相談してみると、意外なことに黒岩さんは「それはいい考えかもしれないな。」といった。さらには、職探しにあたってはエージェントを使うといいぞ、とまでアドバイスまでしてくれたのだ。
「ただし、お前が就職活動を始めたということは黙っていた方がいいかもしれない。このことは俺とお前だけの秘密だ。以上。」
黒岩さんはそれだけいうと、顕微鏡室の暗室のなかに消えていった。
「あの、エージェントっていうのは一体...。」
と僕があわてて聞くと、
「そのくらい自分で調べろっつーの。」
という声が部屋のなかから聞こえてきた。
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