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研究室を脱出せよ!【32】ポスドク、気づく。
内定が決まったことを田所教授に伝えるのは気が重かった。僕の話を黙って聞いていた教授は、驚くほどあっけなく「ああ、そうですか。」といって了承した。それでも、引継ぎの件だけは三井くんとしっかりやるように、と念を押された。結局、田所教授にとって大事だったのは人よりも研究テーマのようだった。
研究室のメンバーは、僕の転職についておおむね好意的に受け止めているようだった。特に、出張から帰ってきたばかりの黒岩さんは自分のことのように喜んでくれた。会う人会う人に、「おめでとう」と言われるのは、うれしいような恥ずかしいような、不思議な気持ちだった。
そういえば、田所教授は「おめでとう」とは、ひとことも言わなかったな。些細なことだったが、一度気になると持ち前の好奇心が顔を出す。僕は、研究室のメンバーで「おめでとう」といってくれなかった人を調べてみることにした。ただ、実験の結果は平凡だった。その言葉を口にしなかったのは田所教授と三井さんだけだったからだ。
三井さんに関していえば、僕のおこなっていた研究を着々と進めているようだった。このペースでいけば年内にも論文を提出する運びになりそうだ。
三井さんの発表以来、僕は毎日のように三井さんのとったウエスタンブロッティングの結果を眺めていた。今となってみれば、このデータのおかげで僕の転職が決まったようなものだったが、そうはいっても結果自体は到底納得のいくようなものではない。その点について、田所教授にそれとなくほのめかしてみたことはあったものの、とりつく島もないといった感じだった。
僕は毎日のように三井さんのバンドを眺めていた。眺め過ぎて、いつのまにかバンドの横にかすかに見えるシミが、人の顔のように見えてくるほどだった。なんだか田所教授みたいな顔だな。そんなことを考えていると、ふいに電撃的な考えが頭をよぎった。それは、あまりにも恐ろしい考えだったので、最初は自分で自分を否定した。いくらなんでも、そんなはずはない。
それでも、僕は自分の考えを拭い去ることはできなかった。僕は自分のPCに保存してある三井さんの論文のPDFデータを開いた。三井さんが1年ほどまえに投稿したものだ。その中から、ウエスタンブロッティングの結果をまとめた図を探し出した。それはすぐに見つかった。三井さんの書いた論文は、穴が空くほど読み尽くしていたのだ。
僕はバンドの一つを拡大して、フォトショップで開き直した。そして、左右反転の操作をする。そこには、田所教授に似たシミがはっきりと写っていた。僕はふるえる手で、ミーティング資料中の例のバンドを重ね合わせた。両者は完璧に一致した。
これが本当だとすると、三井さんはかつて出した別の実験の結果をそのままほかの実験データとして使ったことになる。しかし、なぜそんなことを!?
(... 捏造)
僕の頭の中を恐ろしい言葉が駆け巡った。
「ケンドー?」
そのとき、ふいに背後から呼びかける声がする。僕の心臓は飛び出しそうになった。
ふりかえると、そこには黒岩さんがいた。険しい表情は僕の顔ではなく、モニターの上に注がれていた。
「... 黒岩さん。」
「これ、いつ気付いた?」
震える僕の声には構わず、黒岩さんは落ち着いてそう尋ねた。
「ああ、たった今です。それより、これ、本当だとすると大変ですよ。近々、この結果の入った論文が投稿されるっていう噂を聞いたんです。田所教授がほとんど書き上げている、って。早く、田所教授に報告しないと。」
僕は興奮を抑えることができず、一気にそうしゃべった。黒岩さんは、ゆっくりとした口調でいった。
「これがさ、もしも本当だとすると大問題だ。だけど、ケンドー。お前がわざわざ報告する必要はなさそうだよ。」
黒岩さんはそういうと、かすかに微笑みながらいった。
「これからしばらく騒々しくなるぞ。」
それは、少しだけ悲しそうな微笑みだった。