
研究室を脱出せよ!【33】研究室、飛ぶ。
田所教授のシミをみつけた日の翌日、研究所のメンバーに一斉にメールが流れた。送信元は、研究所の事務センターからだった。
「本研究所における研究室に関する報道が、近日中に流れるという情報がある。研究所の研究員、ならびに学生においては、外部からの取材などには一切応じないように通達する。なお、詳細については、今後行われる所内ミーティングにおいて報告する。」
最初、僕らはなんのことをいっているのがさっぱりわからなかったが、その日流れたインターネットニュースの見出しを見て納得した。
「国内幹細胞研究室において、不正疑惑」
その記事には、研究室の名前こそ書かれていなかったものの、見る人が見れば一目でそれとわかる内容が書かれていた。それは、田所研のことだった。
「国内の幹細胞研究で最有力とされる研究室において不正疑惑が出ていることが、このほど関係者の取材で明らかになった。この研究室では、有機蛍光分子という物質を用い、ES細胞と呼ばれる細胞が変化していくメカニズムを研究していた。関係者によると、この研究室から発表された論文に記載された実験事実について、再現性がないという報告が複数の専門家の間でおこっていたという。この事態を受け、日本幹細胞学会では近く、再現性を検証する専門委員会を立ち上げる見込み。国内学会がこのような不正問題に対して委員会を発足させるのは異例。」
日本幹細胞学会 会長 藤森教授のコメント:
「サイエンスは基本的には善意で成り立っている世界。不正問題があったとして、それを見抜くことは困難だ。我々は今回の事態を真摯に受け止め、今後、サイエンスのあり方がどうあるべきかといった議論の足がかりにしていきたい。」
この報道があった日以来、田所研は文字通り大騒ぎとなった。誰よりも驚いていたのは、田所教授自身であった。報道を受け、不正問題など起こりようがないと主張していた教授だったが、次第に明らかになる再現実験結果を前にして、次第に色を失っていくようであった。しばらくしたある日、田所教授と三井さんが教授室に10時間近く閉じこもっていた日があった。何を話し合ったのか知る由もなかったが、その日以来、三井さんがラボに顔をみせることはなかった。誰が流した噂か知らないが、教授室で土下座をしている三井さんを見た人がいるという。その後、三井さんは依願退職という形でラボを去った。
結局、三井さんの名前が入った論文は「撤回(Retraction)」という措置が取られた。撤回と言っても、論文自体がWeb上から削除されるわけではなく、本文の冒頭に大きな文字で「Retraction」という記載がされ、本文自体はそのまま残る。不正の汚名は、科学の世界から一生消え去ることはない。
不正があったのか、真実が明らかになるにはまだ時間がかかりそうだった。それでも、田所教授に関しては不正を発見できる立場にはおらず、むしろ被害者である、という主張が受け入れられ、直接的な処分が下されることはなさそうであった。
そうはいっても、研究費の執行については全面的に停止され、しばらくは研究をおこなえるような環境ではなくなってしまった。研究費雇いのポスドクはそれぞれバラバラに散り、学生は他の研究室へ移動することとなった。
こうして、田所研は音もなく静かに崩壊した。