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研究室を脱出せよ!【25】ポスドク、再び走り出す。
青木さんからの電話を切ると、僕はその足で実験室に向かった。こんな朝早い時間ではまだ誰も来ていないかな、と思って部屋を覗くと明かりがついている。おや、と思って入ってみると三井さんが実験机に向かって作業していた。超がつくほど夜型の三井さんに、僕は実験室でめったに会ったことがなかった。今日も誰もいない深夜の実験室で作業していたのだろう。夜が明けて、この時間まで残っていたようだ。
僕は、さっき田所教授から言われた要件を思い出した。ちょうどいい、この機会にサンプルを渡してしまおう。
「あの」
そういって三井さんの肩越しに声をかけると、びくっと体を震わせて振り向いた。慌てたようなそぶりだったが、僕の顔をみるといつものような皮肉な薄ら笑いを浮かべて、僕の顔をじろじろ見始めた。僕は気持ち悪くてしかなかったので、さっさと要件だけ伝えようとした。
「さきほど田所教授と話しまして、サンプルを三井さんにお渡しするように言われましたので。」
そういう僕を、三井さんはただ黙ってニヤニヤ見ている。ああ、気持ち悪い。なんでこんな人に研究を手伝ってもらわなければならないのだ。いっそのこと、大事なサンプルは渡さないでおこうか。
そう思っていると、三井さんが口を開いた。
「ケンドー君さあ、就活してるでしょ。」
三井さんの突然の言葉に、僕は思わずたじろいだ。研究室には黙っていたのだが、いったい誰から聞いたんだろう。まさか黒岩さん!?
「えっ、ええ。ですが、研究にはなるべく支障がないようにおこなっていますし、定例のミーティングにはかぶらないように気をつけていますから。。。」
僕の言葉を聞いて三井さんは満足そうにうなずいた。
「やっぱりな、そんなことだと思った。この前、駅前でたまたまスーツ姿の君を見たもんだからね。だけど、まずいなあ。田所教授が知ったらどう思うだろう。先生はそういうのあんまり好きじゃないからね。」
そういうと、あとは黙って実験を始めてしまった。その言葉を聞いて、僕のはらわたは煮えくりかえりそうになった。僕は冷凍庫にしまってあるサンプルを取り出すと、無言で三井さんに差し出した。三井さんは黙ってそれらを取ると、礼も言わずに自分のサンプル立てに入れ始めた。
この部屋の空気を吸いたくもない。そう感じた僕は、走るようにして実験室を飛び出した。
研究室の悪魔の戦略を聞いて以来、黒岩さんは出張などで研究室を留守にすることが多くなった。ラボにいたとしても、一日中実験をしている状態で、まともに顔を合わせる時間もなかった。今日もラボに来るなり、データをノートパソコンに移し始め、「出張に行ってくる」といって部屋を出ていこうとした。僕は慌てて黒岩さんを呼び止め、戦略コンサルの結果を伝えた。黒岩さんは顔を歪め、残念そうな声で、
「そうか、駄目だったか。お前なら何とかなるかと思ったんだがなあ。こればっかりは運と縁だからなあ。残念だったな。」
といって慰めてくれた。
「ええ、でもしょうがなかったかなと思います。それよりも、自分の強みというか、やりたかったことがはっきりしたような気がして、かえって良かったです。」
そういう僕の声を聞いたとき、黒岩さんの表情がちょっとだけ曇ったような気がした。それでも、すぐにいつものようなでかい声で、
「まあ、がんばれ。お前がやりたいようにやるのが一番だ。」
といって部屋を出て行った。
その日から、僕の転職活動は大きく舵を切ることになった。
僕はまず、あたらしい転職エージェントを探すことにした。青木さんのいたエージェントはコンサルタント職専門だったので、求人に偏りがあったのだ。僕は、何ヶ月にも渡る青木さんのサポートを肌で体感し、転職活動におけるエージェントの役割の大きさを身をもって知ったのだった。これから新しい業界にチャレンジするにあたって、やはりプロフェッショナルのアドバイスをもらうことは必須なように思えた。
僕は、いくつかある転職エージェントの中から最大手のところに連絡を入れた。東京の電車の中で何度も中吊り広告を見ていたのだ。さすがに最大手だけあって、そこはQ市にもオフィスを構えているようだった。僕はさっそくアポイントメントを取ると、担当エージェントと直接面談をすることにした。
Q市の市街地にあるオフィスビル街の一角に、そのエージェント会社はあった。東京からだいぶ離れた土地とはいえ、人口50万人以上の都市の中心地だけあって、見上げるようなビルがそびえ立っている。とはいえ、戦略コンサルの面接で飽きるほど東京のオフィス街をさまよった記憶がまだ浅いのだろう、以前ほどの緊張感は感じなくなっていた。
担当の転職エージェントの人は僕よりも少しだけ年上の、こざっぱりした感じの男性だった。僕は今までの転職活動を簡単に報告すると、自分の考えていることについて説明することにした。
「戦略コンサルの転職活動をする中で、自分の強みというんでしょうか、いわゆるインターパーソナルスキルが強いのではないかという事に気付いたんです。そうやって思い返すと、自分がサイエンスをやる時に、いつが一番ワクワクしているのかというと、人と接するとき、具体的にいえば新しいアイディアをいろんな人とディスカッションしたり、自分の研究を分かりやすく人に伝えるための工夫をしているときだったり、そういう瞬間だということに気付いたんです。」
そう説明する僕の話を、エージェントの男性は真剣そうにうなずきながら聞いてくれた。僕は、転職活動中に浮かんだアイディアを話すことにした。
「戦略コンサルティングの業務の中に、組織変革というのがあるんです。傾きかけた企業の業績を上げるには、経営に関わるトップだけでなく、組織にいる全ての人のやる気を自発的に引き出さなくてはいけない。コンサルタントが考えたアイディアをトップダウンで指示しても、真の改革にはつながらないというんです。じゃあどうするか。大事なのは、当時者である社員同士がコミュニケーションを取り合い、自分達の問題として課題の解決に向かうことなんだそうです。」
僕の言葉を興味深そうに聞いていたエージェントの男性が口を開いた。
「なるほど。ですが、業績の悪い企業というのはえてしてそういう組織内の関係がぎくしゃくしている場合が多いですよね。逆にいえば、当時者同士が話し合えるような環境が整っていないからこそ、業績も落ち込んでいるのかもしれない。」
僕はうなずいて、こう答えた。
「ええ、おっしゃるとおりです。そこでコンサルタントが登場するんです。正確に言うとここではコンサルティングは行わない。それよりは、当時者同士がいかに意見を出しあえるか、そういった環境を整える役割を担うんです。こういう役割をファシレテーターというんだそうですね。僕はこの言葉を聞いたとき、非常に衝撃を受けました。これこそが自分がやりたかったことなのかもしれない。」
僕の目標は、プロフェッショナルのファシリテーターになること。それが、戦略コンサルの転職活動を続ける上で思いついたアイディアだった。
ファシリテーターというと一般的には会議などの司会進行役のことを指す事が多い。しかし、実際のファシリテーターの役割は多岐に及ぶ。ミーティングの雰囲気作りはもちろんのこと、新しい視点を導入するための発想法や、息抜きのためのゲームの用意など、こんなことまで、と思われるようなものまで含まれていた。こういったことは、研究者として携わってきた課題解決の経験と、インターパーソナルスキルという自分の強みを活かす上で、もっとも適した仕事のように思われた。
もちろん、すぐにそういった職につけるとは思わなかった。そもそも、そんな名前の役職があるのかどうかも僕には分からなかった。それでも、最終ゴールが見えてきたことで、次に進むべき道がおぼろけながら見えてきたような気がするのだ。
僕の話を聞いていた担当エージェントは、にこやかに微笑みながらこういった。
「なるほど、お話は良く分かりました。いや、さすがに戦略コンサルを目指してらしていただけあって、非常に分かりやすかったです。そういったことでしたら、ご希望にかなう求人をいくつかご紹介できるかと思います。」
僕は「さすが」といわれたときに少しだけ頬がゆるんだが、いや、戦略コンサルは全部落ちたんだったとすぐに思い直して、苦笑いした。
エージェントから紹介された求人は、社内研修などの教育関係や人事コンサルティングなど、どれも自分のやりたいことに近そうなものであった。僕は、紹介された求人はとりあえず全て応募してみることにした。
「わかりました。それでは、事前にいただいております職務経歴書をさっそく応募させていただきます。」
そういうエージェントの言葉を、僕はあれ?、と思って聞いていた。職務経歴書は確かに提出していたが、戦略コンサルのときに使ったものをそのまま出しただけだ。僕は、これからエージェントの人と何度も打ち合わせをしつつ手直しをしていくものとばかり思っていたので、意外に感じたのだ。そうはいっても、戦略コンサル用の職務経歴書は既に何度も書き直したものだったから、既にそれなりのクオリティーになっているものと判断されたのかもしれない。僕はエージェントの人の言葉に素直に従った。
応募した求人の最初の結界は、翌日すぐに来た。
書類不通過。
メールにはそう書かれていた。
その後も、パラパラと結界を知らせるメールが来たが、その全てが書類不通過の知らせだった。こうして1週間ほど立ち、一社を残して全ての書類が最初の審査を通ることもなく返ってきた。
僕は、戦略コンサルのときと明らかに違う事態に戸惑うよりほかなかった。