一目千両、1回1億円!?博士号というキャリアで失う人生のトータル収支
今から30年ほど前のことになると思うが、「日本昔ばなし」というアニメでとても印象的なエピソードが放映されていた。かなり変わった話だったので、今でもよく覚えている。タイトルは「一目千両」という。あらすじはこんな感じだ。
どこかの街に、とても美人な女性がいるという噂があった。あまりの美しさに、その姿を見るためには千両必要だという。とある若者がその話を聞き、どうしても会いたくなっていても立ってもいられなくなった。そこで若者はせっせとお金を貯めて、ついには女性の姿を見ることができた。しかし見れたのはほんの一瞬、ふすまの隙間からチラッと見えただけだ。そこで男は追加でもう千両支払って再度見せてほしいと頼む。なんと男は女性に会うために二千両用意していたのだった。私を見たいという男性はたくさんいたが、二度も見たいと言ってくれたのはあなたが初めてだ。女性は感激の言葉を述べ、二人は夫婦になることになる。。
美しいと評判の女性をひと目見たい、ただそれだけの情念で付き動く男の姿は滑稽でありつつも、人間というものの本質的な姿を表現しているようでもあり、印象に残っている。
自分にとっての科学研究というのは、この一目千両に似ている。人類が築き上げてきた叡智の先端に足を踏み入れ、最先端の科学装置に囲まれながら、まだ見ぬ新事実を一目見ようと追い求める。知的好奇心がくすぐられる仕事だ。
とはいえ、プロの科学者としてのキャリアは狭き門だ。大学教員などのアカデミアポジションの競争は熾烈で、誰しもがなれるわけではない。夢やぶれて民間企業でのキャリアをスタートするのは悪くない選択肢だが、その場合には科学者として受けた専門教育は無駄になる。いわゆるサンクコストというやつだ。日本の労働市場環境では、ポスドクとしてのキャリアが収入や待遇にアドオンされる仕組みがないからだ。
(前回の記事)
前回の記事に記載したとおり、新卒チケットを手放してしまったポスドク研究者の場合、いわゆるメンバーシップ型企業への転職は現実的でなく、結果としてジョブ型の雇用システムに乗らざるを得ない。そうした場合、両者の経済的な差はどの程度になるか。
私はよくポスドクの研究者から民間企業への転職の相談を受けることがあるが、そんなとき説明しているキャリア形成のやり方として「二段階ロケット」説を唱えている。
まず一段回目のロケットとして、ポスドクから民間企業へ正社員としての転職を目指す。ポスドクというのは要するに非正規雇用の研究者なので、まずはこの不安定な身分からの脱却を目指す。年収の目標はずばり500万円だ。ポスドクの年収は300-400万円程度あたりがボリュームゾーンなので、キャリアプランとしては十分に納得できる水準である。
次に目指すのが二段階目のロケット発射だ。ポスドクの転職戦略というのは、前回の記事でも書いた通り、基本的にジョブ型雇用システムでのキャリアになる。その場合、年功序列による定期昇給というのは基本的に期待できない。つまり、何もしなければ年収500万円のままで職業人生を終えるというキャリアだ。これに満足できないと思ったら、転職するしかない。不思議な話ではあるが、ジョブ型雇用では同じ仕事でも転職するだけで年収を上げることができる。上昇幅は概ね100万円から、運が良ければ200万円近く上がることもある。こうして二段階目のロケットに点火しつつ(場合によっては三段、四段と繰り返しながら)年収を上げていく、というのが基本的なキャリア戦略となる。目指すべき目標年収は800万円である。この水準になれば、とりあえず都内で子供を育てながら生活するのに不自由はなくなる。ただし、ここから上を目指そうとすると難易度が格段に上がる。MBAホルダーや、英語を流暢に話す日本人以外の優秀な人材と競い合うことになり、再現性のあるキャリアとは言い難くなってくるのだ。したがって多くの元ポスドクにとっては、この年収800万円という数字が一つの最終目標となるだろう。
ひるがえって、一流と呼ばれる日系企業の場合はどうだろうか。多くのポスドクが民間企業への転職を検討しはじめる30代なかばから40代において、トップティアの大企業であればすでに年収800万円程度に到達しているケースも珍しくないだろう。つまりポスドクが転職したその時点において、300万円ほどの年収差がついていることになる。その後、年功序列による定期昇給を順調に繰り返していけば最終的に年収1000万‐1100万円程度まで到達するはずだ。(参考までに、令和4年の賃金構造基本統計調査によれば、従業員1000人以上の製造業における55~59歳の会社員の平均年収は約1150万円である。)ポスドクの最高年収800万円と比べて、やはり300万円ほどの差がある。
まとめるとこういうことになる。
元ポスドクと大手日系企業就職者では、キャリアの全期間にわたって年収にしておおむね300万円程度の差が生じる。30歳から60歳までの30年間、年間300万円の差があるとして、300万円 x 30年で9000万円、さらに福利厚生や退職金の多寡などを考慮すれば、生涯賃金にしておおよそ1億円程度の差が生じうる。
ポスドクからジョブ型企業への転職をした場合の生涯賃金は、おそらく2億円あたりをピークとした分布になるのではないか。一方、新卒で一部上場の日系企業へ就職した場合の生涯賃金は3億円あたりをピークとした分布になると思われる。分布の幅は上下で5000万円程度はあるかもしれず、もちろん個人によって様々なケースが考えられるが、おおよその傾向としてとらえれば、あるいは自分の体験や周囲のキャリアを見渡せば、1億円の差というのは妥当な数字に思える。
冒頭に紹介した昔話では、街で噂の美人を見るのにかかる費用が1000両であった。ポスドクの場合、世界最先端の科学技術にふれるのに必要なコストを計算すると、上記に上げた1億円という数字が出てくるのだ。
せっかく博士号をとって研究者になったのに、1億円ほど生涯賃金が上がるのならばいざしらず、むしろ下がってしまうというのはどういうことだと声を上げたい人も多かろう。ポスドク問題というのは、こうした待遇差に対する怨嗟の声ともいえる、という投稿をしたのはこういった背景がある。
ここまでの記事で分析した通り、このような生涯賃金差が生じてしまう一番の原因は「大企業の正社員」という貴族的特権階級の存在なくして説明できず、別に日本が理系人材や科学技術を軽視しているなどといった次元の議論ではないことは、注意しておく必要があろう。
さて次回はいよいよ、これまでの議論の集大成として、ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用のキャリアを歩んできた人材が混じり合う、スタートアップ界隈という非常に特殊な空間に関する分析をしたい。そこでもやはり、決して幸せになることのできない元ポスドクの悲哀が観測されるのである。
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