ある場所を求めて
最近考えていることがあります。
私はこれまで純粋に学びたい、教養を身につけたいという欲求からたくさん勉強し学習してきました。
本もたくさん読み、記録に残し、一次資料である論文などにも目を通してきました。
そうしてこれまでたくさん学習してきた中で、ある思いが芽生えてくるようになりました。
私は本を読むと、気になるところを抜き出し記録に残すようにしています。もちろん著作権の問題対策として引用元は明記したうえでです。
はじめのうちは本を読むにつれて、「あ、ここも」また「ここも」と、次から次へと気になるところがたくさんあって、そのたびに記録に残していたものですから、一冊の本を読むのにかなりの時間を要していました。
しかし、それが最近様相が変わってきました。
それは、本を読んでいてもあまり記録に残さなくなったのです。読み進めても、「ここに書いてあることはだいたい知っていること」などとして、あまり記録に残さなくなりました。
これが自信につながったと言えればいいのですが、なんか興味や関心がうすれてしまったのかなとも思ってしまいます。確かに、私に興味領域は主に心理学なのですが、それにしてもこの変化はいったい何なのでしょうか。
それとは別の変化も最近よく感じるようになりました。それは他者との会話の中で、自分がこれまで学んできたことを自然と知識のうちのひとつとして相手に伝えられるようになってきたことです。仕事でも議論の場でも、ごく自然にこれまでの学びで得てきたことを相手に伝えられるようになってきました。しかも、専門用語を難しく言って伝えるのではなく、できるだけ平易な言葉を用いて話せるようになってきたように思います。
そう、なんだかいつのまにか、これまでの学びで知識として得てきた(インプットしてきた)ことを、ごく自然に表現(アウトプット)できるようになってきたと言えるのではないかと感じるようになってきました。
議論の中で、自分の頭の中にある考えや意見が、次から次へと思い浮かんできます。言いたいことがどんどん湧き水のように思い浮かんでくるのです。いや、私だけ一方的に話し続けることは避けないといけないとはわかっているので注意していますが、なんか私としては少々気持ち悪さというか、ごこかしらの居心地の悪さみたいなものを感じてしまっているのが本音です。
しかしながら、このアウトプットの機会はなかなかありません。インプットする機会はちまたにあちこちにあります。本やネット、研修やセミナーなどあらゆるチャネルが存在しますし、そのニーズも多くあります。
そのようなニーズの多さから本は多く出版され、多くの人に読まれ、セミナーや研修も盛況になるのだと思います。
しかし、知識や経験をアウトプットする側からすればそうそう機会が多くあるわけではありません。最近、こういうことをよく思うようになりました。
以前は、あるコワーキングスペースで一度だけセミナー講師をしましたが、利用者の属性やニーズのアンマッチを感じ、最近は講師をすることには気が引けてしまっています。
アウトプットの場は、自分で探して作らなければならないことはわかっています。しかし今はそこまで具体的に動く時期ではないとも思っていて、そういう宙ぶらりんな状況なので悶々としてしまっている状況ということです。
以前に社会人大学生だったころ、その大学の勉強会や面接授業で先生(教授)と議論をよくしていました。そこでの議論はとても刺激的で先生との対話のすべてが自分の学びとなりました。そこでの経験は、今の私にとってかけがえのないものとなりました。
そういう学びの姿勢が自分の成長を後押ししてくれたのだと思います。
しかし、その時のような専門家の人と議論することは今はまったくなくなってしまいました。
そういう一抹のさみしさもあります。
アウトプットするって難しいですね。
今回の記事はここまです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
(了)