映画『シェイクスピアの庭』
2020年3月6日公開のケネス・ブラナー主演の「シェイクスピアの庭」をご紹介します。
1613年から1616年に52歳で亡くなるまでのシェイクスピアの3年間を描いています。
演劇界が湧きたっていたロンドンで、彼が共同所有していたグローブ座が焼失し、故郷のストラトフォード・アポン・エイヴォンへの帰郷と、彼を中心とした家族との生活がどのようなものであったのかを私たちに教えてくれます。
どこまでが真実であったかはわかりませんが、彼の生涯を知るうえで、とても参考になるのではないでしょうか。
シェイクスピアと言えば、複数の人名が上がることもあるぐらい、歴史上の人物とは言いがたいほどの不透明な人物として知られていますよね。
シェイクスピア別人説を疑われる根拠として、田舎町生まれの平凡な彼がなぜ上流社会に通じていたのかということなどが挙げられています。
ここでは、シェイクスピア本人説に沿って映画を楽しみたいと思います。
故郷を出て20年経ってからの突然の帰郷は、年上の妻や娘たちにも戸惑いを与えることになったようですね。
妻のアンは、彼に何かにつけてあからさまにチクチクと嫌味を言い、同居している次女のジュディスも不可解な言動を繰り返す、という不穏な空気のなかで、彼はある日「庭を作る」と宣言します。
それは、11歳で亡くなった長男のハムネットを偲んでとの理由からでしたが、これについても女性2人の素振りからは反対の意思が感じられるのでした。
ロンドンでの華やかな文筆活動を引退し、余生を送りにきた我が家に居場所がなかったことから見えてくる一種の「逃避」が庭づくりだったのかもしれません。
雑草を引き、土を耕す単純な労働が、彼にもたらす平和な時間のように感じられました。
シェイクスピアは、ことあるごとにハムネットを引き合いに出し、ハムネットがいかにかけがえのない存在だったかを家族に話します。彼としては単に息子を懐かしむ気持ちだったかもしれませんが、その都度、アンとジュディスからの謎めいた言動が返ってきます。
そこには家庭不和の原因となるものの正体が見え隠れしているようでした。
家族の一致した認識ですが、ハムネットには詩作の才能があり、シェイクスピアはそれをたいへん自慢に思っていて、息子から聞かされる詩のすばらしさにすっかり魅せられていたのです。
そんな自慢の息子の死が、いつまでも彼の心をとらえて離さなかったのでしょう。
また、家督を継げるのは男の子だけという避けられない事情も彼の目を曇らせる原因になっていたと考えられます。
当時のイギリス社会では、男性優位が厳然たる基盤となっていて、とにかく息子が生まれなければ家督が継げないしきたりだったようですね。
そう考えれば、ジュディスの「私がハムネットの代わりに死ねばよかった!」とか「私が女だから…」云々の発言の理由が理解できます。
現代の私たちには「どうしてそこまで…」と頭をひねるところですよね。ジュディスの行きすぎともとれるこだわりが私には引っかかりました。
しかし、その言葉の裏に、シェイクスピアには想像もつかない真実が隠されていたことを観客は知ることになります。なにがこれほどまでにアンやジュディスを戸惑わせ、苦しめるのかと私が感じていた疑問が徐々に明らかになっていくにつれて、耐えられないほどの悲劇が一家を襲ったことがわかってきます。
安らぎの引退生活どころか、次々と湧き起こる娘たちのスキャンダルにも翻弄され、唯一の心の拠り所であった自慢の息子ハムネットを悼むことさえ拒否されるに至って、彼の心は乱れ、荒れ狂います。
それがハムネットの死の真相を暴くことになる、映画の終わり近くのシェイクスピアとジュディスの激しい言葉の応酬でした。
たびたび止めに入るアンの気遣いも空しく、父娘は想いのたけをぶつけあい、ついに真実がジュディスの口から洩れ出ます。
それによって、数々の不和により、修復不可能に見えていた家族の亀裂が埋まり始め、真の相互理解へと向かっていくのでした。
この映画が真実かどうかは神のみぞ知るというところですが、シェイクスピアの生涯が掘り起こされ、現代の私たちに当時の社会情勢を示してくれたことに感謝の気持ちが湧きました。
シェイクスピアを演じているのはケネス・ブラナー。演劇人としても有名な俳優ですね。ジュディスと対決するシーンの鬼気迫る迫力は、息が止まりそうでした。力強く長いセリフの応酬は、映画史に残るほどの名演技となるかもしれません。
さすがに演劇で鍛えた彼の真骨頂だと思います。また、初めて気づきましたが、ケネスの声がすばらしかった。柔和で心に染み入る声の持ち主だったのですね。
ジュディス役のキャスリン・ワイルダーが、ケネスに一歩も引かない迫真の演技を見せており、もしかしてと思ったら、彼女も舞台出身の女優でした。こちらも強く印象に残りました。
妻アン役にはジュディ・デンチ。もう何も言うことはありません。
家族がついに許し合い、理解し合い、抱き合うシーンには胸を打たれました。
ラストにシェイクスピアがつぶやく『庭には野望でなく愛が咲くだろう』が彼の済みきった心情を表しています。