【保存用ログ】第03回[20200420-0426]『人間そっくり』
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にしむらもとい
ワークショップ第三回、始めていきたいと思います。note記事は今日中にあげますのでちょっと待ってください。今回はフィクションの回ですね。さしあたって初日は本の中身そのものよりも、まず普段皆さんがどんなフィクションに触れているのかを教えていただければと思います。
・どんな表現形式のフィクションによく触れているか(小説、純文学、ラノベ、マンガ、映画、テレビドラマ、アニメ、ゲーム、その他)
・どんなジャンルが好きか(SF、ミステリー、ヒューマンドラマ、恋愛、その他)
・具体的に自分が好きな作品を紹介
・その他フィクションに何を求めているか、など
二日目以降から角度を変えて話をしたいと思います。初日は思いついたことを自由に発言していただいたらと思います。思いついたことは好きなだけ発言してください。あと、前回採用した発言に関する「ルール」は今回はいったん「ナシ」で、好きなようにお願いします。
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にしむらもとい
僕は若い頃は純文学オタクでしたが、いまでは全く読まなくなりました。厨ニ病時代には安倍公房を狂ったように読んでました笑 思春期には村上春樹をかじりました。トマス・ピンチョンなんかも好きでした。ただ、フィクションとしては、現在はアニメマンガゲームという日本が誇るオタクコンテンツに一番触れてます。表現形式として、一番可能性を感じるからです。普通のエンタメ小説は読む習慣がなかったので、よくわかりません。映画も若い頃モテたくてミニシアター系のものをかじりましたが、あまりハマりませんでした。個人的に興味があるのは、今の時代にそれでもなお、皆さんが純文学に興味があるのか、純文学の境界線は何か、オタクコンテンツは純文学を代替するのか、というようなことです。
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A
私はあまり読書の習慣がないものですから、日頃はマンガ・映画・ゲームと言ったエンターテイメントでフィクションに触れております。
ジャンルとしてはヒューマンドラマ、コメディを好んでいると思いますが上記3つは何か特定のジャンルだけを扱うというより「SFの中で展開されるヒューマンドラマ」といったような複合的な内容が主かと思いますので自分でもあまりすきなジャンルがわかっていない状態です。
好きな作品としてすぐ思いつくものは「インセプション」「back to the future」「四畳半神話体系」ですね。いずれも現実では(今現在自分自身の身の回りでは)起こり得ない「夢の操作」「タイムマシン」「パラレルワールド」といったことを話の主軸に置くことでノンフィクションにはない話の膨らませ方をしており、そこに「異質なもの」としての魅力を感じます。
私としては「フィクションに求めることは何か」ということより「ノンフィクションに求めることは何か」を考える方が易しい気がします。個人的にはノンフィクションということで得られるものは「このことが実際に起こった」という情報のみだと思うのです。それについて正の感情か負の感情が起こるのは個人の好みの問題でしかなく、作品における要素の一部分に過ぎない。大切なのはその作品がどんな文体でどんなジャンルであろうと作品自体を面白いと感じるかどうかということではないでしょうか。
といったように考えてみるとフィクションというのは作品の影となるものであり、かつノンフィクションより上位にあるのではと感じますね。というよりノンフィクションが下位にある(一要素という単位でしかない)と言った方が良いでしょうか。
ノンフィクションまで出てきて長くなってしまいましたが言いたいことをまとめると、フィクションに求めるものは面白さであり面白ければフィクションでもノンフィクションでもなんでもいいというのが不文の意見でございます。
所長、私個人としては純文学に興味を持っていますよ。なれども私は純文学を文化としてでなく「日本文化を知る」といった教養として見ていますので、日本の伝統芸能を見たり、習字に触れてみたりといったノリで捉えています。教養とは何かはここでは置いておきます。オタクコンテンツも現代日本の文化であろうと思っておりますので、私個人としてはオタクコンテンツは純文学を代替する事はなく、能と歌舞伎のように並び立つものだと思っております。
ちなみに純文学を読んだ事はないです🤯
B
非日常の中の物語って面白いですよね。
自分が経験したことのない状況なのに、登場人物の心の動きとかより浮き彫りになるというか、リアルに感じられるようになると言いますか。
四畳半神話大系、気になります!森見登美彦さんは「夜は短し歩けよ乙女」は読んだのですが、こっちは読めてません(アニメ版もありますよね。)
アジカンが好きなのでアニメ版の主題歌をアジカンが歌っていることだけ知っています笑
にしむらもとい
@A オタクコンテンツは純文学を代替するのではなく「並び立つ」という感覚は非常に面白いと思います。文化的価値という意味ではそうかもしれません。でも、社会的影響力あるいは社会に果たす役割という意味では並び立つというよりはやはり「代替」に近い形にはなっていく気はします。皆がオタクコンテンツを楽しむ世界では純文学を楽しむ人は死滅すると思いますし。事実、A氏も純文学読んだことないわけだし笑 能や歌舞伎ほど純文学には実体(権利団体)がなく、保存力も働かないでしょうしね。
A
@B おっしゃるとおり、経験したことのない出来事をあたかも経験したように感じることができるのはとても不思議で面白いことですよね。そしてそれを可能にしてくれる、言葉選びをする作者というのがまた凄い…。映画になると自分の頭の中で場面を想像するなどの介入の余地はほぼなくなりますから、そういった経験というのは薄くなってしまいそうです。
僕は逆に夜は短しの方が読めていません笑
知人の森見さんオタクからすると四畳半の方は良くも悪くも森見さんらしくないそうですよ。アニメ版はアニメ版でこれまた良き…opとedもよき…
僕も世代ではないので詳しくは知りませんがアジカン好きです!ソラニン…宮崎あおい…
A
@にしむらもとい なるほど、視点が全然違いましたね…。所長の説に感化された感は否めませんが社会的な代替はおこるでしょうね。(キリッ
オタク文化も僕が子供の時ですら馬鹿らしいからやめろだの言われてた印象があります。それこそオタクなんて言われて馬鹿にされてましたもんね。その言われてた世代が大人になり、社会の主役を担うようになってきて馬鹿にされることが減ってきたこともすでに代替し始めている兆しの一つではないでしょうか。そして時が経てばまたオタクコンテンツに変わる新たなものがでてくるんでしょうね。逆に純文学がとって変わったものを考えてみるとまた視野が広がるかもしれません
なんだか社会的役割をエンターテイメントとして解釈してしまいましたが、所長の言いたいことと大きく乖離してないことを祈るばかりです…
所長が考える純文学の魅力、社会的役割とはなんなのでしょうか
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C
僕は最近は映画やアニメ等の映像作品ばっかりですね。SFとホラーをよく見ます。
ただ、ホラーは映像よりもむしろ小説のほうがゾッとする感が強かったりするので、小説も読んでます。
作家だと、鈴木光司や綾辻行人や三津田信三等がお気に入りです。ミステリー寄りだと貴志祐介とか好きですね。
(三津田信三の『どこの家にも怖いものはいる』はかなりぞっとしました。ホラー好きの方はおススメします)
私がフィクションに求めるのは端的に「非日常的なドキドキ」だと思います。普段の生活では味わえないドキドキ感を求めている気がします。その意味で、ミステリーであってもホラーであってもSFであっても求めるものは同じかなという気はします。
余談ですが、ドキドキ感を求めすぎて昔、廃墟探索をしていた時期がありましたが嫁に怒られまくって辞めました笑
B
貴志祐介さん、「新世界より」とか「悪の経典」でお世話になりました。悪の経典の悪役主人公はなぜか応援しながら読んでいました笑
ホラー系はあまり読まないのですが、「心霊」とはまた違う感じなのですか?それとも「リアル鬼ごっこ」(知らなかったらすいません)とかバイオハザードみたいな、身に危険が迫り寄る感じのお話なのでしょうか?
にしむらもとい
@C 「非日常のドキドキ」ということは、やっぱり体験を求めてるんですね。だから、行き過ぎると「廃墟探索」になってしまう。気持ちはわかりますが、奥さんの言う通り、やめた方が良いですね笑
僕のホラーの入り口はS・キング、はまったのはラヴクラフトですね。小6くらいのときに初めてラヴクラフトを読んでものすごい衝撃を受けた記憶があります。しばらく茫然自失して真顔で虚空を見上げていた気がします。いま読み直すとどう感じるかはわかりませんけどね。設定としてのクトゥルフ神話(ラヴクラフト作品などをベースにした神話体系)にそこまで興味があるわけではないんですが、単にラヴクラフトの作品には異常な引力を感じます。ホラーというよりはファンタジーに近いですが、様々な作品の下敷きにもなってますので、機会があれば原典にも触れてみてください。ただ、翻訳がゴミなものが多いようなのが難点です。
C
@B
ホラーは僕の好みはどっちかというと、「心霊寄り」になるのかなと思います。でも、幽霊が実際に出るかどうかというよりも自分の日常に近いかどうかという事が大事なエッセンスだったりします。日常と共通項が多ければ多いほど、ある一つの”非日常”の異質性が効いてきます。ゾンビ物はちょっとリアリティが持てないです笑
なので『リング』とか『着信アリ』とか大ヒットしたコンテンツは身近なアイテムを題材にすることで、うまく共感性を高めているなあと感じます。
@にしむらもとい
たしかに体験を求めてると思います。廃墟探検VRとか発売されれば、全然買うんですけどね~。
ラヴクラフト(クトゥルフ)は狂気のマッドサイエンティストがよく引用するイメージしかなかったので、少しかじってみようかと思います。笑
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B
中学生までは本当に小説をよく読んでいました。
新聞広告の新刊宣伝の中から、面白そうなものをピックアップして、母親に頼んで図書館で入荷予約を入れてもらうのが毎週の楽しみでした。
高校からはそれに加えてライトノベルもよく読んでいました。
・作品に触れる媒体
純文学と映画だけはあまり触れていませんが、純文学に関してはほぼ食わず嫌いというか、読む機会がないだけで嫌いではないと思います。小学生の時に(小学生なのに)にレ・ミゼラブルをすごく面白いと思った記憶もあるので、要は物語であればなんでも楽しめるタイプです。
ただ、映像媒体に関しては「自分のペース」で進めることができないので苦手です。特に映画は拘束時間が長いため避け気味なのだと思います。
・ジャンル
好き嫌いがありませんが、救いようのなり終わり方をする作品は悲しい気持ちになるので、少しは救いがあるタイプが好みです。
また未だに中世ヨーロッパテイストの剣と魔法のファンタジーには憧れがあります。
・好きな作品
人に勧めているものは
●小説 恩田陸「夜のピクニック」池上永一「テンペスト」
●漫画 「アルテ」「ランウェイで笑って」(共に最近アニメにもなっています)でしょうか。こういう話は、ぜひワークスペース上だけでなくオン・オフラインでしたいですね!
・フィクションに求めているもの
主人公目線になって没入する場合と、物語の傍観者ポジションに入る場合と共にありますが、自分の頭の中で描かれる世界は自分の中では非常にリアルなものです。なのでその世界の中を生きた自分が勝手に色々な経験をして、それを「現実」に持ち帰ってくるような感じでしょうか。なので、作品という「場」さえ用意してもらえれば、個人的には十分です。
にしむらもとい
@B 僕はラノベをあまり読んだことがないので、すごく興味があります。そこだけ拾うのはアレですが、ラノベって何なんでしょうかね。設定ベースで書かれる小説がラノベなんでしょうかね。純文学は、それを読んで育った人間からしても、いまとなってはなんだか押し付けがましくてしんどいです笑
映像媒体が自分のペースで進められないという苦手意識はよくわかります。個人的には映像媒体は、いずれ全てインタラクティブな「ゲーム」にバージョンアップされるべきだと思ってます。映像は、観るんじゃなくて中に入ってプレイしたいですね。
救いようのない終わりは好きではないというのは、ああ、エヴァンゲリオンとかは世代じゃないんですね(謎の括り)
剣と魔法のファンタジーは僕も一生憧れ続けると思います。そこにちょっとだけむき出しの欲望を足すと『ゲームオブスローンズ』ですね。『ゲームオブスローンズ』はちょっとおっぱい放り出し頻度が高過ぎですが、めちゃくちゃ面白いのでオススメしておきます。可処分時間全部奪われると思います。
それにしても、フィクションという全くの嘘の世界を体験してそこに現実感を感じるというのは、改めて考えると不思議なことではありますね。フィクションは全くの嘘ではないということですね、たぶん。
ちなみに、『ランウェイで笑って』はアニメだけ観ました。嫌いではない。
B
@にしむらもとい
何がライトノベルと言われると難しいですよね。
やっぱりイラストや挿絵が入っていたり、平易な文体であったり、学園が舞台であることによって、できるだけターゲットとなる学生層に馴染みやすく、小説という敷居を低くしたもの、というのが「本筋」のライトノベルなのではないかと思います。
挿絵やイラストや設定は、苦手な人が頭の中で物語を組み立てるための、正に「補助」としての役割なんだと思います。結果その「絵」そのものが作品の良し悪しの重要なファクターになっています。誤解を恐れずいえば、ラノベはモノによっては価値の半分が「エロ本」としての価値です。
ここからは超超戯言ですが、元気いっぱいの男子学生が純文学に食い付かないのは「可愛い女の子が出てこないから」という可能性すらあります。「羅生門」の「老婆」が「可愛い女の子」なら、それなりにライトノベルっぽい世界になりそうです。
エヴァはなんとなくエンドは知っているのですが・・・
タイムループものでも、「まどマギ」と「シュタゲ」の違いと言いますか。未来日記もその辺りでしょうか。シュタゲの紅莉栖の話のようにちょっとした救いがあると良いです。
所長がアニメを見ているというのが、なんとなく不思議ですね。養老先生がときメモプレイヤーという話を聞いた時も面白かったです。
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にしむらもとい
ワークショップ第三回の記事、上げました。
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D
僕は小さい頃から、小説・純文学の類は苦手でした。情景描写や心情描写があまりにも濃い(長い)ので物語の進むスピードが遅く、途中で読むのを断念してしまうことが多かったです(小学生の頃は読書といえば専ら解決ゾロリという可愛い少年でした。)
今でも少し抵抗はありますが、それでも大分読めるようになりました。
中学生に上がってからは背伸びして綾辻行人の“館シリーズ“を読み始めました。
個人的に「時計館の殺人」が結構好きです。いかにもっていうシチュエーションですが。
本からは少しそれますが、ミステリーで言うと「ダンガンロンパ」というゲームも自分の性癖にはぶっ刺さりでした。シナリオメインのゲームですが、学級裁判というシステムは斬新で発売当時はぶっ続けでプレイした記憶があります。
高校に上がると、すごく純文学に精通してる友人ができて、彼からすごくたくさんの本を紹介してもらいました。その中でも一番憶えているのが筒井康隆の「日本列島七曲り」
といのも、朝の読書の時間で読んでいたのですが、あまりにも可笑しくて沈黙の中クスクスと笑ってしまうキモムーヴを決めてしまいました。下品で馬鹿げた話が好きな方は是非
(ちなみにみなさんは小説で吹き出したってことありますか?自分はこの本が初めてだったので。)
最後にジャンルというより、物語の構成?といえば良いのでしょうか。
僕は「解釈の余地」を残してくれる作品が好きです。本にしてもゲームにしても映画にしても、それを一通り楽しんだ後に腰掛けて「この後どうなるんだろうか。。。」と余韻に浸るのがたまらなく好きです。そうした余韻に浸れる作品が自分の中では“名作”として心に残っています。
にしむらもとい
やっぱりみんな、純文学は苦手だったりあまり読まないんですね。時代背景もあるでしょうけど、僕は中高時代純文学(というかほぼ岩波文庫たまに新潮文庫)しか読まなかったので、それを読まずに育つことが逆に想像が難しいです笑 そもそも僕が中高時代にはライトなノベルなんてなかったですしね。いずれにせよ、純文学に関しては、たとえば編集者とか何らかのクリエイターを目指すとかそんな特殊な職業上の要請でもない限り、いまとなっては本当に読む必要はないと思います。趣味としての文芸は死にました。文芸は趣味ではなく研究対象だと思います。ダンガンロンパはプレイしてないですが面白そうだとは思ってました。筒井康隆は、なかなかの人物ですね。エンタメでブランドを確立しておいて、時々その中にひっそりと純文学を混ぜ込んで知らぬ間にたくみに売ってしまうという、非常に器用な作家です。おっしゃるように彼の短編はかなり面白いものが多いです。何だったか覚えてませんが僕も笑わされた記憶はあります。
解釈の余地、余韻というのは、僕も名作の条件にはなると思います。ただ、純文学ではそれは思想的な枠組みとして後に残るんですが、ライトな作品では枠組み(フレームワーク)ではなく設定(データ)の再利用という形で同人化されて消費し尽くされてしまう。僕自身、実際のところスピンオフ作品とかも大好きなんで、一概にそれを否定はできないんですが、消費文化も極まってるなぁとは思います。
C
綾辻行人いいですよね。僕も館シリーズ好きです。
筒井康隆のナンセンス系がイケる口なのであれば『文学部唯野教授』も合うかもです。大学社会に対する風刺モノですが、文芸批評論の概論もついでに学べるという意味でコスパ良しです。不謹慎要素も多数ですが。
解釈の余地、分かります。結末の後も自分の見えないところで物語が続いていくんだろうなぁと夢想すると、何とも言えない充足感があります。
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E
ここに挙げられている中でよく触れているのは漫画,アニメ,その次に小説,ラノベ ,映画,たまーに純文学と言った感じです.特にアニメは毎日一本は見るなど習慣化しています.確か中二くらいの時からアニメ見始めて,今まで毎クールごとに平均10本くらいは確実にみているので今までみたアニメは200本強ってことになります.
それ以前も読んでたと思いますが,ラノベとか小説も中二の頃から特に読み始めたと思います.その頃(2013年くらい?)はラノベアニメ全盛期後半で,確か友達に「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている(長いので以下“俺ガイル“)」を勧められて読み,感動してそこからハルヒとかSAOとか有名どころのラノベを読み漁りました.純文学は,俺ガイルの物語中で夏目漱石とかサンテグシュペリとか引用されているのをみて「なんか純文学読んだらかっこいんじゃね?」みたいなノリで買い始めたと思います(笑)まぁそれも夏目とか芥川とか有名な作家の有名な作品しか読まなかったのですが,読んでる当時はそこそこ楽しかったと思います.高一の時友達から読書感想文を頼まれて谷崎の「痴人の愛」で書いたりしてました(笑)今でもたまに純文学を買ったり読んだりしています.
漫画は小学生の頃から「こち亀」とか「NARUTO」とかが手元にあったのでその頃からずっと読んでます.アニメ化された原作の漫画を買ってみたり本屋でジャケ買いすることを覚えたらいつの間にか本棚に漫画が増殖してました.コミケにも毎回一般参加してるので薄い本とよく言われる同人誌も含めると手元にある漫画の量はえらいことになりそうです.映画は気になっていた作品を適当に見ています.映画を見ていない時期が結構続いていたのですが最近自宅にいるのが増えてきたのでまたAmazonPrimeとかで見始めました.戦争映画とか特によく見てます.最近見た中では「博士の異常な愛情」が面白かったです.
いつも適当に触れる作品を決めているのであまりジャンルにこだわっていないのですが,学園モノとか,あとまんがタイムきらら作品みたいないわゆる美少女ばっかり出てくる系統は好きですね(笑)百合っていう女子どうしの親密な関係とか恋愛を扱ったジャンルも見てて幸せになれるので定期的に摂取しています.最近自分の人生にハードSF成分が足りねえなって思ったので今攻殻機動隊SAC一期とPSYCHO-PASS見てます.あと「HELLSING」,とか「売国機関」とか血と硝煙の臭いと皮肉が充満している系統も好きですね.ジャンルが何になるかはわかりませんが.
好きな作品は,まず純文学なら芥川の「歯車」です.なんというか「歯車」は本当に精神を病んでしまった人間が考えている世界が表象されている気がして,その世界が醸し出す圧倒的な“静”の雰囲気がとても好きなんですよね.芥川は集英社文庫の二冊くらいしか読んでないのですが,「内的に自己の精神を追い詰めた」って感じがして他の作家より好きですね.対して,太宰はなんか普通に精神を病んだ人というかいわゆるメンヘラな感じがします(笑)
映画は,「鉄道員」と「最強のふたり」が好きですね.「鉄道員」は健さん×ローカル線×北海道の情景が美しすぎて冒頭からなぜか泣いていました(笑)「最強のふたり」は冒頭10分間の映像が全てですね.フランス人にしか作り得ないと感じさせてしまうような雰囲気が好きです.
アニメとか漫画は挙げたしたらキリがなくなるので(笑)著名っぽいものを外して一つずつ挙げると,アニメは「色づく世界の明日から」,漫画は「終末のワルキューレ」が好きですね.
「色づく世界の明日から」はストーリーはよく覚えてませんが(笑)とにかく画面と音楽が織りなす作品世界が美しいの一言です.色盲が作品に深く関わっているので余計画面映えを気にしているのかもしれません.
「終末のワルキューレ」は人類滅亡を決めた神々と、それを覆そうとする戦乙女によって選出された人類の英傑たちによるバトル作品(byWikipedia)っていう全力で,大真面目にバカやってるような感じがこれまで見た作品の中で最高レベルだったのでお気に入りです.
フィクションに何を求めているのかですけど,「今いるこことは違う,異なる世界に触れたい,その雰囲気に浸りたい」から見てるんじゃないかなーと思っています.なんというか,自分は漫画とかアニメとか見るときは物語を見るというより登場人物と,登場人物が根を下ろしている空間とか世界を見ている気がするんですよね.で,自分の中でいい作品というのは,見ているとき,その世界やら空間やらを鑑賞している主体意識がどこかへ飛んでいってしまうような作品のことのような気がします.
にしむらもとい
ちょっと拾いきれないですが笑 しっかり読ませてもらいました。良いオタクっぷりを発揮していただいて嬉しい限りです。アニメに関しては数が多過ぎて僕もカバーしきれてないのでまたいろいろ教えてください。ハードSFは得意分野ですが、ラブコメとかは詳しくないので。
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にしむらもとい
さて、なんとなく皆さんの趣味の輪郭っぽいものは書いていただきました。ありがとうございます。まだ書いていただいてない方は、別に締め切るわけではないので、引き続き、書けるタイミングがあれば書いていただければ嬉しいです。
というわけで、課題図書に入っていくわけですが、基本的に自由に何を書いてもらっても良いんですが、なんとなく方向性だけ示しておきます。
ざっと見た感じ、皆さん、こういう類の小説(と言えるのかもあやしい代物ですが)は触れた機会が少ないのかなと思われますので、率直な感想が聞きたいです笑 たぶん、退屈だったのではないかと思います。これは、純文学なのか、SFなのか、ミステリーなのか、戯言なのか。僕の趣味で申し訳ないけれども、やっぱりそういうメタ視点に行き着いてしまう笑 それを考えるとっかかりとして、まずは読後アンケート感覚で率直な感想をお願いしたいです。もちろん、感想にとどまらず話を広げていただいても構いません。
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C
■読後の感想(ざっくり)
前回の難しい数学の本から一転して今回は小説回という事で、どんな物語だろうかと胸を弾ませて読ませて頂きました。・・・ほとんどおっさんが同じ部屋でしゃべり続けるだけというまさかの内容に衝撃を受けました。本当これ、ジャンルでいうと何なんでしょうかね笑
疲れました・・笑。
「結局男は火星人なの?どっちなの?」という気持ち悪さを感じると同時に、この消化不良感自体が作者の意図したものだとしたら、この作者の伝えたいことは何だったのだろうという興味も湧いてきています。
自分は人間だ、地球人だというのは当たり前すぎて、ゆえにいちいち論証する必要すらないことです。つまり“公理”として我々の間で受け止められていることです。そこに、いや実は火星人かもしれないという者が現れたらふつうは拒絶します。そして“狂人である”と見下し、同じ議論の土俵にすら上がりません。しかし、ねちっこくねちっこく嫌らしくねっちょりと絡めとられるうちに段々と自分の信じていた“公理”に自信が持てなくなり、気づけば“対等な立場”として同じ土俵に引きずり出されてしまう。そこに本質的な恐怖を感じました。当たり前だとみなしているものって、突き詰めると結局はそう“信じている”だけでそうした心のバイアスを積み重ねて人間は心の安定を保持しているだけなのかもしれない。そして今回の主人公は人類が共通して持つ、余りに大きなバイアスをひっくり返されてしまったので多くの人類にとっては“あちら側の人間”になってしまったのでしょう。
バカリズムのコントで、男が同僚の女性のおっぱいを触るために女性の中の“人におっぱいを触らせるべきではない”という固定観念をあの手この手で崩していき、最後には・・・というモノがあります。そのコントの面白さは当たり前の公理を欲望のために詭弁で捻じ曲げていく男の滑稽さにあると私は感じるのですが、第三者である観客として眺めるからこそ余裕をもって楽しめるものでした。本書は、私は主人公に自己投影して私自身の公理が男からはがされていくような不安感を抱かせるものであり、“正気”を保つためのエネルギー消費が激しく・・よって疲れました。笑
にしむらもとい
note記事にも書きましたが、安部公房の小説は足し算ではなく掛け算として書かれていて、内容を丁寧に足し算して追いかけても意味がわからない。物語から計算式を抜き出して自分で積分計算しないといけない。だから、作者の意図を真剣に追いかけて読むと、めちゃめちゃ疲れます笑
ただ、『人間そっくり』に関しては、手法そのものは結構古典的なものかなと思います。実際、演劇やコントでよく似たような構図は見かけますね。安部公房にしては前衛的な趣が全く足りません。安部公房の小説というのは、本来、スネからかいわれ大根が生えてきたおっさんがそれをかじりながら自走式ベッドで走り出すといった、まったくもって狂った前衛的な世界です笑 ともあれ、これがおそらく安部公房による「SF」の定義であり、表現の中身ではなく形式の話をするのに向いた作品としてチョイスしました。
ちなみに、一番読みやすい安部公房は『砂の女』、真骨頂は『箱男』、前衛的雰囲気に溢れているのは『壁』ですかね。せめて、『箱男』だけはいつか絶対に皆さんにも読んで欲しい。あんな小説を書く人間は後にも先にも世界中見回しても、安部公房しかいないと思います。
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B
読書体験としての感想は、「解決パート」になってからのスイッチが入る展開から、ラストの「そう来るか!」という流れがかなりワクワクしました。ずっと意識を「男か男の妻か」に向けられていたので。ミステリとかでもそうですが、小賢しい私みたいな読者が今後の展開をなんとなく予想してみたりして、それをストンと躱されると「参りました!」となりますね。
自分の立ち位置は第三者として部屋の中での対話を眺めている感じでしたが、謎の男の繰り出す理屈に、次はどんな理屈を話すのだろうと徐々に男の話に魅入られて行きました。
「ほうほう、なるほど。それで?」という具合で、全く退屈ではなかったです。
「お話の内容」として振り返ってみれば、「地球病・火星病」の話は「胡蝶の夢」の話や、「人間そっくり」という部分については「哲学的ゾンビ」とか、少し違いますが「猿の惑星」を思い出しました。
「偏見のフィルター」ではないですが、やはり人間疑いようのない(と思い込んでる)前提の上に生活していると改めて感じました。
C
猿の惑星は意外な気づきでした。なるほど確かにそうですよね。
展開を予想外のところに裏切られると、うれしいですよね。僕はその良い意味での裏切りを味わうために、あえて推理脳をシャットダウンすることがあるんですが、そうするとアホの子みたいに感動できるんですが読書体験自体薄くなる気がします。笑
Bさんは読書体験のために読書の際、意識することってなにかありますか?
にしむらもとい
@B そうなんですよね、よくよく中身を考えると、わりとよく見かけるような平凡で古典的なアイデアでまとまってるんですよね。それを安部公房独特の手法で料理するとこんな気味の悪い味付けになるという……。ミステリーの要素もありますね。安部公房という作家は相当にひねくれた人だったと思いますが、これが彼にとっては精一杯のエンタメだったのではないかなと推察されます笑
@C 横から失礼します。個人的には、面白いかどうかは先が読めるかどうかと関係がない気がするので、推理脳シャットダウンはもったいないというか、作品をしゃぶり尽くす楽しみを減らしてる気はします。あくまで、僕の意見ですけどね。謎解きを小出しにしてもったいつけて引っ張るタイプの話とかは、先が読めようが読めまいがイライラします笑 もっと話そのものを面白くする努力をしろよと言いたくなる。でも、話それ始めてるかもしれませんが、謎解きが凝ってるミステリーは確かに面白いですね。謎解きの醍醐味としてのミステリーは、一時期、森博嗣(全てがFになる人)をかなり読み漁ってました。
B
@C @にしむらもとい
裏切られたときの快感から、「むしろ裏切られたい!」と思い始めるのはよくわかります笑。あんまし自分の推理が当たったことがないので、最近はナチュラルな感じで読み進めようとはしていますね。むしろ「わかんないから早く答えが知りたい!」と先を急ぐことすらあります。あまり賢い読み方ではないですねw
読書の際に意識することは、強いて言えば、人物についての動きとか、その人の容姿についての記述がある時は、それをちゃんと拾って構築するようにしていますね!(ほぼ無意識下ですが、結構気にして読みます)そのシーンが読書の「思い出」として残ることが多いです
C
@にしむらもとい
推理脳をシャットダウンしているときの感動と同時に訪れる残念感はひしひしと感じています。笑
良質なミステリーを補給しながらナチュラルな読み方を探っていこうと思います。
(『全てがFになる』『箱男』はぽちりました。』)
@B
ありがとうございます。
確かに読書の際に頭の中でビジュアル化されたものって記憶に残りますよね。
その分、実写化された場合の残念感は避けられませんが笑
にしむらもとい
@C その二作を連チャンで読んだら頭おかしくなると思いますよ笑
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B
■気になっていること。
こういった小説とか創作ってやっぱりその作者としての「描きたいテーマ」なるものはあるのですかね?
もし私個人が作品を作るなら、「伝えたいテーマ」というものは確実に根本に据えます。創作者が「どう感じるかは受け手の自由」とよく言いますが、個人的にはそれを否定しませんが、やっぱり「伝わって欲しい何か」はあります。
逆に自分が読み手の時は、「何かテーマを感じ取ろう」と意識して読むことはあまりありません。
本筋ではないのですが、よろしければ皆様の「作品とテーマ」観を教えてください。
C
テーマって何なんでしょうね
きっと作者には表現したい何かがあってそれを受け手に感じてほしいと思ってますよね。そしてそれを受け手が理解し、共感してもらうためにある程度咀嚼可能な状態まで翻訳し加工して”テーマ”として提示する、そんなプロセスの中の単語として僕は捉えてる気がします。
受け手全く無視の前衛芸術とかだとまた違うのかもしれませんが笑
にしむらもとい
@B 「作品とテーマ」というのは、恐ろしく深遠な問題に思えます。深すぎる笑
少しだけ思いついたアイデアを書き留めておきます。
たぶん、「愛」とか「正義」とか、何でもいいですが、そういう伝えたい「もの」をそのまま直接的に配置してしまうか否かが、ざっくりした意味での純文学かどうかの境界線だと思います。IUT理論を(無理矢理)アナロジーに用いると、読み手が作者にアクセスして宇宙際的な通信をした時に、読み手の宇宙の中の「愛」と作者の宇宙の中の「愛」が同じ挙動を示すかはわからない。だから、たとえば作者が「愛」なり何なりを伝えたいとして、「何」を伝えるかより「どう」伝えるかの方が確実に重要で、コンテンツの中身より通信の形式こそが重要なんだと感じます。直接的な中身そのものより、形式という構造の中にテーマを埋め込む。形式より中身の方が大事と思っている人が多い気がしますが、僕は、どちらが上とかどちらが重要とかはなく、そもそも形式と中身は不可分だと思います。ゆえに、表現の世界では、たとえるなら、確かにコップにカレーを入れて食べてもそれは自由だけれども、コップは本来飲み物を飲むことを想定して作られたものである、という程度には、受け手の自由は制限されるべきだとも思います。何をやってもいいわけじゃない。作者と読み手の通信が「形式的」に制御されて初めて、読み手に作者の意図が伝わる。もし、形式がなく、ただ内容しかないというはらわたのような小説があったなら、そこにたとえ作者の「愛」が描かれていたとしても、それは、はたして「テーマ」になってるのか、はらわたから溢れた「愛」は正しくコップで飲まれるのか、がすごくあやしく感じます。とは言え、テーマというのは、読み手が無意識にちゃんとそこで引っかかって勝手に立ち止まるように設計しないといけないわけで、作者の意図通りにテーマを汲み取る努力を読み手に要求するのは作者のエゴですね。そういう意味で、テーマは読み手に対してわかりやすくなければならないという必要もあります。
直接的であっては真意は伝わらないけれども、だからといってわかりやすさは担保しておかなければ、そもそも何も伝わらない。
クリエイターは、皆、そんな無理ゲーに挑んでるんだなと思います。
B
@C なるほど、「伝えたいもの(=意図)」がまずあって、それを受け手に「伝わる」形にしたものがテーマということですね。自分の中で「テーマ=伝えたいこと」というイメージだったので、Cさんのテーマ観は新鮮でした。
前衛芸術について考えると面白いですね。むしろ前衛芸術はかなり明確な「伝えたい」意識はありますよね。デュシャンの「泉」(衛生陶器(便器)そのままのやつ)とか。
パッと見では、(なんなら制作意図を聞くまでは)前衛芸術が伝えたかったことなどわからないですよね。それでもなお前衛芸術が存在するということは、その目的は「意図」→「テーマ」→受け手 への伝達ではなく、作者と受け手の「対話」の喚起にあるのかもしれないですね。作品が提示された時点では、間違いなく「意図」の共有は図られない。そこで受け手側が「これ何?」と疑問を呈したり、逆に「何なのだろうか」と考えることで、双方向のコミュニケーションが形成される。そういった意味で「新しい芸術」なのかもしれないです。
B
@にしむらもとい 「伝えたいこと」と「形式」と「テーマ」の関係性。考えてたこともありませんでした。
確かに「形式」と「中身」は不可分というのはそうですよね。
好きな異性に愛を伝えるのに、プレゼントを渡すのか、手作りの何かを渡すのか、歌を捧げるのか。はたまたストーキングするのか。極端な例ですが笑
作品を表現する言葉として「〇〇を浮き彫りにする」という言葉がよく使われますが、掘り出したいテーマの輪郭に迫るために、何を純粋化して掘り進み、何を複雑なまま残すのか。そしてそもそも何を掘るのか。そのせめぎあいがクリエイターの苦悩なんですね。
C
@B
そうですね。前衛芸術はもはや伝えたいというよりも、内側に留めておけずに溢れちゃったもの、という気がします。意識の共有という意味でのコミュニケーションはほぼ不可能で、むしろ受け手はそのエネルギーの高さ自体を価値として受け取り自身の内在物を発展させるために活用させるのかなという気がします。芸術は爆発ですしね笑
あと、個人的には”作品とヒストリーの関係”も気になります。陰鬱な戦争絵画も現代を生きる学生が書いたものと内戦を経験した片腕の老人が描いたものでは、たとえ同じ描写でも社会における評価は全くことなると思います。
作品そのものの価値とヒストリーは分化して捉えるべきか否か・・たまに考えてしまいます。
■12
にしむらもとい
さて。
「哲学、数学ときて、次の週は素敵な物語に泣いて笑って楽しむ週かな?」というわくわくを打ち砕いてとんでもなく斜めの角度からボールを投げ込み、すっかり空気をぶち壊した西村選手ですが、皆様、いかがお過ごしでしょうか😁
これはもう僕のビョーキみたいなもんでして、「文学!」と言われたら、文学そのものを楽しむより「文学とは何か」というメタを考えたくなる。それを考えるには、哲学なんかと同じで、エクストリームなものを触った方が「輪郭」をつかみやすい。というわけで、この作品を選んだわけです。ちなみに、僕はこの作品は、純文学というよりは「純SF」だと感じてます。「どこがSFやねん!」という声が聞こえてきそうですが、そんなこと言っちゃった日には、また僕による「SFとは何か」病が始まってしまいます笑 いや、始まるか……。
で、とりあえず、純文学って何だろうか、ということを考えるのに、皆さんのふんわりしたイメージをお聞きしたいです。たとえば、『文豪ストレイドッグス』というマンガ(アニメ)があり、いまや文豪ですら消費コンテンツ化の対象となることを免れ得ません。文豪も、かつてあれほどまでにその身にまとわりついたであろう「実存」をするするとはがされて、たとえばこの『文豪ストレイドッグス』というコンテンツでは、中島敦という「概念」がイケメン少年とかに擬人化されたりします。中島敦、その人は出てこない。一般的には、皆さんも、そういう距離感で文学に接している人が多いのかなと思います。文学を「対象」とする人はいても、文学の「中」を生きる人はほとんどいない。それは、時代性の問題で、良い悪いの問題ではないのだろうと思います。
「文学とは何か」はちょっとしんどいかなと思いますので、「皆さんにとって『文学』とはどういう存在か」を少しだけ語っていただけると嬉しいです。全然読んでないし人生において文学が意味を持つことなんて永遠にない、という人もいるかもしれませんし、なんか気にはなりながら横目にチラチラ見てはいるんだけど、でもだからと言って接近するわけでもなく、とにかくいまは日々の生活に追われて過ごしている、という人もいるかもしれません。僕にとって、文学は思春期の自分の根っこであり十分に育って枯れたものです。枯れたというのは、イメージが固定したという意味で、あながち悪い意味合いでは使っていません。僕にとって文学は、根源ではないけれども故郷ではある。そんな感じでしょうか😎
「皆さんにとって『文学』とはどういう存在か」ちょっとだけご協力いただければ幸いです。
F
叙述技法ましましで、日頃聞くようのない、かなり本意を掴むのが難しい本だと思います。自分の文学のイメージは、西欧のものから来たものが多く。ユリシーズの終盤は意図どころか、文法的にも意味がよくわからなっかたり、純文学は敬遠してしまいます。読んで学ぶというより、学んで読むみたいな。
C
私にとっての文学とはなにか。
一口に文学といっても純文学、大衆文学、詩集、随筆など様々な分野があって、なかなか難しいですね。
私が文学と出会ったばかりの小学生の頃、それはいわば“冒険”に近かったと思います。モーリス・ルブランの『ルパンシリーズ』やJ.Kローリングの『ハリーポッターシリーズ』はそれまでの人生で味わったことのない種類のドキドキを与えてくれました。
ある程度慣れ親しんできた高校生の頃は難しいものを読むために読書をする、という状態になっていた気がします。つまり、そのころには“冒険”ではなく、難解な本を読める“自分”を支える道具になっていました。
社会人になってからは、つらい現実を物語に没入することで忘れるためにまた純粋に楽しむ読書をしている気がします。つまり“冒険”を意識的に“道具”として使っている小賢しい自分がいます。
こうやって振り返ると、人生の段階毎に自分にとっての文学(というか読書)の位置づけは変遷しているようです。
これまでの自身の読書体験から逆説的に『読書』の機能を取り出すとそれは“疑似体験”という言葉に抽象化できる気がします。文字に含まれる意味を自身の中で読み取り再構築し、構築された世界を疑似体験する、そこから得られる感動はしばしば現実世界を超える感動や興奮を与えてくれる。読書の持つこうした機能を正しく作用させるには、受け手である自分にも対象に相応した読み取り能力としての知性が必要となり、高校生の私は難解な作品を読み取る行為そのものに快感を感じていたようです。(読み取ったつもりに過ぎなかったのですが・・・)
私は文学の持つ疑似体験作用をかつては無邪気に楽しみ、その後読み取れる“自分”という自慰行為のツールとし、そして自己逃避の手段として意識的に“無邪気な体験”を利用してきた気がします。あまり美しい遍歴ではないですね笑
とすれば私にとっての文学とは何か。なんなんでしょう。ここまで書いてまとまらなかったのでそのままあげてみます。笑
B
問われて見て気づきましたが、素直に私には「文学」というものの輪郭がさっぱり出てきませんでした。「文章」とか「国語(の授業)」とか、「小説」とか言われるとピンときますが、こと「文学」とくるとそれがありません。私が意識して「文学」という体験をしたことが無いんだと思います。文「学」と言うからには学問なんですよね。でも国語の授業はあっても文学の授業はない。でも大学には「文学部」がある。小学校で習う「公民」の先に「経済学」があるなら、「国語」の先に「文学」が有るのでしょうか。文章を読んだり書いたりすることは「文学」なのでしょうか。著名な作家の本を読めば「文学」体験なのでしょうか。やっぱり分かりません。
なので、私個人としての個々の「文学作品」についてのイメージをいいますと、やはり「読み物の中でも、高尚なもの」と言う感じでしょうか。「紅茶」と「お紅茶」の違いと言いますか、何がしかの敷居を感じます。「文学的センス」のある選ばれし人のみが、自然と文学作品に惹かれるのだろうと、そう思っているのかもしれません。
もっと単純に「文学=物語」と言い換えてみると、「イメージ(頭の中)の世界」と言えると思います。頭の中でのみ存在しうる虚構。書き手の頭の中と、読み手の頭の中の通信(IUTに引っ張られますね笑)それが私にとっての文学という存在というか、文学の意義だと思います。
にしむらもとい
たぶん、文学や純文学というのを読書対象のジャンルとしてのみ想定しているんだと思うんですが、「哲学」が読書対象のジャンルかと言うと厳密にはそうではないのと同じで「文学」も厳密には単なる読書対象のジャンルではない。「文学」は対象物ではなく「行為」だと思います。感じて書いて読む。その一連が文学なんで、読むことだけを取り出して文学を考えるから、わからないのではないでしょうか。「書く」欲求こそが文学であり、「読む」ことは後に残された残骸に過ぎない気もします。
■13
にしむらもとい
文学、特に純文学と呼ばれるものは、思春期に「僕には文学しかなかった」というレベルで触れなければ現実感を持たないものです。そして、純文学は単なる消費コンテンツとしての物語ではないと思います。以下、「文学」という言葉は、狭義に「純文学」を意図して使用してます。長いので続きはスレに埋めときます。
にしむらもとい
フィクションの話を上で少ししましたが、そもそも僕はフィクションとノンフィクションの区別を明確にしていません。そこに架空性の濃淡のスペクトルはあれど、それは連続的にしか感じられないので、僕には境界線を引くことが難しい。ファンタジーとルポルタージュの明確な境界線はどこなのか。そういう目線で言うなら、文学と哲学の関係を持ってくれば、宗教と科学の関係に似ていると言えなくもない気がします。哲学では高度に抽象化したシンプルな概念を論理的に操作します。文学では身体的具体的表現を用いて語り得ぬモノの輪郭をつかまえます。具体的表現とは自然言語の意味の揺れです。語り得ぬモノとは、語り得ぬわけですから、具体からは遠い抽象的な何かです。自然言語の意味の揺れを利用して影絵のようにモノの輪郭を表現する。表現の頼みの綱が自然言語の意味の揺れなので、表現手段としては豊かではありますが、再現性自体はかなり低いものにとどまらざるを得ない。つまり、表現の受け取り方に上手い下手が存在してしまう。それが、「文芸」の世界だと思います。もっと、端的に言うなら、文芸は「書く者」にしか開かれない。「書く」という行為に自覚的でなければ、文芸の表現を存分には楽しめない。だから、敷居が高く感じるのは当然だと思います。
思春期に息苦しさを感じて人生の出口を探したことのある人は、その行ないこそが「書くという行為」であろうと思います。主体的に人生のEND(終わり、目的)を探すという行為ですね。いわば、社会不適合者の最後のあがき、それが「書く」ということだと思います。「読みたいことを、書けばいい。」なんて本がありますが、およそ文学とは相容れないスタンスです。「嗚呼、何故だ、書きたいことしか、書くことはできないのだ。」「嗚呼、何故だ、読んでも読んでも、見つからないのだ。」それが文学だと思います。だから、生まれながらに文学と親和性の高い者は、同時に社会に対して親和性の低い者です。その一方で、趣味として明るく文芸に接する者もいます。それは、同人サークルで小説を書くようなタイプの人ですね。さらにそれが、少しばかり行き過ぎると、遂には文学研究者なんてものになる人もいるようです。いずれも、書く技術についてそれなりに自覚的であるなら、文学を読むことは十分にできるのだろうと思います。
ですが、真の意味で文学を感じる者は、大袈裟ですが、血の文字で文章を書く者だけかなと思います。文学にもし才能が必要なのだとしたら、それは社会不適合であることだけです笑 だから、「僕の人生にはいつも傍らに文学があった」なんてちょっと小洒落たことを言う人は、99%がフェイクです。本気で文学と共に生きた(生きざるを得なかった)人ならそんな表現はしません。
時代性の考慮もしておきましょう。そもそも、文学と言っても、古典的な作品なんかだと当時はエンタメ作品として機能していたものもたくさんあります。つまり、文学は本来的に高尚なものなんかではないということですね。それは、文学を読ませたいという、教育による刷り込みだと思います。今の時代、文学ないし文芸よりも遥かに表現力の高いメディアがたくさんあります。だから、文芸はなくなることはないにせよ、その機能は限定的になり、確実にそれまでに文学がはたした機能は他のメディアへ移行してゆくだろうと思います。能や歌舞伎との違いは先に触れた通りです。純文学を文化として保存しようという大きな権利団体などありません。
さあ、話をグッチャグチャにしてしまった気がしますが笑 ともかく、今の時代、文学なんてものは限定的な価値しか持たないので無理に読まなくて良いということを、僕は言っておきたい。そして、現代において文学の機能をもっとも代替しているメディアは、僕は、マンガでもアニメでもラノべでもなく、SNSだと思います。
『バーチャルオンライン思春期』
そんなタイトルで本を書きたいくらいです。
というわけで、皆さんに何か問いかけをしようと思ったんですが、ひとしきり言いたいこと言って終わってしまいました。多少見苦しいですが、もったいないという大阪人根性により、そのままあげておきます。何か、書きたいことが見つかった方がいらっしゃいましたら、ご意見いただけると嬉しいです。
B
@にしむらもとい SNS時代が到来したのは私がちょうど大学入った時ぐらいからと(2012年くらい)記憶していますが、そういえば生きづらさを感じた時や思いの丈をぶちまけたい時はSNS(長い文は主にFacebook)に書き込んでいました。
SNSは誰かに「公開」することが前提となっていますが、文学に関してもそれは基本的に「公開」することが前提なのですかね。私個人としては自分の中の「最も内的でグルグルと渦巻く感情」を言葉にしたいという欲求が高まって、それを何かの形式にしたためても、それを人様に公開する気にはなれませんでした。そういった時は即興のメロディに乗せてシャワーを浴びながらそれを歌う(叫ぶ?)ことが常だったように思います。
そういった意味で、自分は人生の出口を文学「書くこと」ではなく、音楽「歌うこと」に求めていたのかもしれません。
SNS観というのも、かなり世代によって変わると思うので、中高生時代にSNS全盛の皆さんの意見も是非聞いて見たく思います。
C
文学とは自然言語の意味の揺れを利用して、影絵のようにモノの輪郭を表現する、というところなんかすごいいいですね。アホな表現ですがグッときました。
読む、というより読まざるを得ないという不可避性の側面に気づかせていただきました。
僕はもう少し単純な人間であったので、血の文字で文学せざるを得ない人間ではありませんでした。自分なりに苦しい思春期は送ってきましたが、自分なりの苦しみへの抵抗手段は空想であった気がします。身近な人間を題材に時々の悩みに即応する様々な空想を耽らせることによって今思えば「書く」行為の何らかの代理をしていた気がします。
『VO思春期』楽しみにしています笑
にしむらもとい
@B そうですね。公開が前提というか、文学には誰かに聞いて欲しいという欲望が根っこにあると思います。「誰に届かずとも構わない」では、読者に伝わる言語的フォーマットにならないので、出口のないはけ口に留まるのかなと思います。誰かに伝わって欲しいと「願い」ながら言語的フォーマットで表現されたもの。最も広い定義ではそれが文学かなと思います。「願う」というのは、伝えたいことに確信はあるが、伝わることに確信はない、という状態でしょうか。
普通、文章は伝わることが十分に確信されながら書かれます。中身に確信がなくても、少なくとも伝わることには確信を持ちます。文学は、前週扱ったIUT的な歪んだ通信性(本当に引っ張られますね笑)に自覚的なのかなと思います。他者とのズレ、通信の歪みに自覚的だからこそ、他者にコンタクトしたいと願う。文学においては、他者との通信こそが出口な気もします。歪みそのものの定量化へ向かうと哲学になり、歪みを定性的にハンドルしようとするのが文学という表現も可能でしょうか。
SNSネイティブな世代の意見は僕も聞きたいですが、その世代間の壁は、思っているより大きな気はしています。
にしむらもとい
@C 空想で苦しみに抵抗するというのは、誰しもが通る道でしょうね。僕もそうでした。そこに、伝えたいという「願い」ないし、もう少し格好つけて言い換えるなら「祈り」が重なった時に、空想は「文学」になるのかなと思います。それが「輪郭」を表現するときの心理でしょうか。願いや祈りを込めてではなく、「他者に伝わる」ということがあまりにも素朴に信頼されすぎている作品は、そういう意味で文学性が低いと言えるのかもしれません。たとえば、設定を共有して展開される「ラノベ」は、その信頼の素朴さが顕著かもしれません。それと同時に、「ラノベ」の定義ではなく「文学」の定義から見るなら、形式にかかわらずラノベの中にも文学は存在すると思います。また、その他のあらゆる表現ジャンルにおいても、同様に「文学」は存在すると思います。
■14
にしむらもとい
今日は、一日の終わりに文学風(誰風でも何風でも構いませんがちょっと言葉遣いを自覚的にした感じ)に日記を書いてみるのはどうかなと提案してみます。小説の中で出てきそうな感じで日記を書いてみる。意外と難しいですけど、そんなものを書いて公開する機会などないでしょうから、良かったら書いてみてください。
B
4月24日(金)
その昔、「男もすなる日記というものを」といって始まる日記があったらしい。その日記は男性が女性になりきって書いたものらしいが、今日は私が作家になりきって書いてみることにしよう。理由なんて男が女になり切って日記を書く理由並みに無い。多分彼も私と同じく暇だったのだろう。もしかしたら当時も悪い疫病が蔓延していたのかもしれない。
どうでも良いが今日咄嗟にこの日記を書くことにしたので名を咄嗟日記としよう。私が今考えた。
咄嗟のことなので書く内容もそれなりだが、今日は免疫力をつけるなどという大義名分のもと、堂々と昼寝をした。最近は精神とペン先をすり減らす毎日だったから、これくらいの贅沢は良いだろう。人間、その気がなくとも大義名分があるだけで生き生きとするものである。
さて、日記の内容が昼寝な上に、昼寝をしただけで人間について語ってしまう私の浅ましさが露呈したところで、本日の日記はお仕舞いにしようと思う。咄嗟の出来事でバレるのが、人間の本性なのだ。
C
4/25(土)早朝
シンと静まり返ったオフィスに一人で座っている。周りのデスクには電話機や卓上カレンダー、文房具が雑然と並んでいる。今日は恐らくこのフロアにはあと二人しか出勤しないはずだ。
「明日出勤する。始発のバスでね。」そう言った私に妻からの返事はなかった。「夕方には帰るから。」そう独り言のように呟く私に妻は、スマートフォンのガラス越しに視線だけ寄越した。
頭を切り替えてメールを開く。無意味なそれでいてやたらと主張の強い文面が並んでいる。いくらオブラートに包もうと、透過する獣の臭気は嫌でも鼻を突き、生理的な嫌悪感を惹起させる。これで本人たちはビジネスメールだというつもりなのだからその厚顔さには驚きを禁じ得ない。
皆疲れている。飢えた心を満たすため他人の心を喰らい、それでも満たされない“何か”を求めて彷徨っている。鏡を見ることを恐れる獣たちはお互いに相手の獣性を心で非難し、自身を見つめる作業から逃避する。
私も最近鏡を見ていない。
にしむらもとい
某月某日
覗き返す深淵のような夜がやってくる。この生活を始めてどれくらい経っただろうか。曜日の感覚は既に忘れてしまった。ハローワールド。日々現実は更新され皮を剥かれるがそれでも現実は現実のまま変わらず行進は続く。夜が悪夢なのか悪夢が夜なのか。今日僕のもとに世界と自我を転倒せしめる林檎が届いたが今更そんなもの安楽死にも使えない。共有される断片に接続されるジェットコースターと迫られる選択。お前が見ている。100万人に見られることが英雄であるならば1人に見られることは何なのだ。喜劇王の排泄物を吸い取って膨らんだ使い捨ておむつが僕の脳を締め付ける。そして全ての視線を跳ね返す朝がやってくる。
「夜中にホラーゲーム配信した男の末路」
■15
にしむらもとい
ラストクエスチョン
この『人間そっくり』という作品ははたして文学なのか。あるいは何を目指しているのか。
「文学とは何か」 それについては、既に結構な情報量のログを蓄積したと思います。そこで、いま一度この問題を問うて、散らかったこのワークショップを収束させたいと思います。
素朴にただ感じるままでは、この作品が何であるかの判断を下すのは難しいと思います。「文学とは何か」という下敷きの理解がある程度なければ、判断を下すために必要な表現すら追いつかない。でも、難しいなら、真に正しいものを探求するという無理ばかりを求めるのでなく、暫定的にでも各自なりに何らかの「身の丈の判断」が下せるようになるということが、重要だと思います。難しければ部分的な考察でも構いません。何か表現できそうなことがあれば書いてみてください。これは、このワークショップ終了までの最後の課題とします。
ここまで全然流れに乗れなかったよという人は、最後に気軽にひとこと、作品の感想でも書き残してもらえたら嬉しいです。
ちなみに、参考までに、安倍公房作品は「故郷喪失の文学」などと言われることもあります。故郷喪失って、何でしょうね。
にしむらもとい
ちょっと文章が悪かったかもしれませんが
この『人間そっくり』という作品ははたして文学なのか。あるいは何を目指しているのか。
がクエスチョンです。もちろん「文学とは何か」の方が根っこなのでそちらに答えていただくのは大歓迎ですが、念の為。
■16
D
■流れに遅れてしまったもの感想
確か今回のワークショップの頭らへんで、フィクションやそういったエンタメに何を求めるか?という問いに対して自分は「解釈の余地・余韻」について書きました。この作品も妙に含みのある終わり方をしていて、今この感想を書きなぐっている瞬間も、はやくアノ男の”最後の問い”に対して、ある程度の答えを自分の頭の中からひねり出そうとしているところである。
作品全体の印象は皆さんとの意見と大方被るので省略。ですが、男二人のアノ会話の感じはなんとなくミルクボーイを思い出しました。会話量は増えていく一方だが、同じところをグルグル回っている感じ。小説に「型」というものはあるんでしょうかね?”村上春樹風”とかはよく見かけるんですが…
それにしても、単語の並びだけ(ほかに良い言い方が思いつかなかった)でここまで作者の個性が出るのも文学の面白さだなと思いました。と、久々にちゃんとした文学を読んだ男の感想。
■ラストクエスチョン
文学とは何か?という質問は僕に対して難しい。何たって大して文学作品を読んでこなかったから。だから確かな答えは出ません。今の時代は技術も発展して。文章や絵で表すよりもカメラで撮影したり、CGで架空のモノを創り出すことができる時代です。それなのに何故「文学」がまだ根強く残っているのか?そういう疑問が湧いてきました。一人の人間の世界観がその文字列に浮かび上がってくるでしょうか…よくわかりません
質問に質問で返してしまって申し訳ない。ちなみに、ぼくにとって「文学」とはエンタメです。映画やゲームと同じ。
■17
G
先週はワークショップに参加出来ず、昨夜やっと『人間そっくり』を読み始めた私が通ります。
全くもって乗り遅れているので、以下スレッド内に当初の所長のテーマ~文学とはについてつらつらと書いていきます。
G
○どんな形式のフィクションに触れているか。
→小説、映画、落語
読書は専らフィクション小説です。小説でいうとミステリー、SF、ホラー、所謂文学作品、ファンタジーなんでも漁ります。たまーになんか恋愛小説も。
小中学生時代はラノベも読んでいました。
映画は戦争、ミステリー、サスペンス、アクション、ついでコメディが多いですね。
落語(落語を入れていいのか?笑)はよく寄席に行っています。千葉に住みの実家東京なので。
G
○好きなジャンル
→小説はやはり、ミステリーと純文学
映画はハラハラするもの。ストーリーや設定、映像美など。(ジャンルではないけど、、、、)
落語は古典が好きです。でも、古典はジャンルより、噺家さんで大別するのが適切ですね。
C
@G
落語がお好きなんですね!
にわかですが、話術とかおちのバリエーションが落語家によって違ったりとか、すごく興味があります。
生の寄席に行けるのがうらやましいです笑
Gさんの画像?でいつか聞いてみたいことがあったのですが、それって映画『メッセージ』のやつですか?あの模様自体が言語を表しているというやつ・・
G
○具体的な作品
→小説:オススメしてたらキリがないので、ここに出てなかった、皆さんが読まなさそうなものを。
『好き好き大好き超愛してる』タイトルと中身は全く別物、アナロジーに気づかないと面白さ半減
『二進数の犬』ハードボイルド?作品
『旅のラゴス』筒井康隆作、読んだことある人も多いかも。
『自殺自由法』この作者は好き嫌いがハッキリ別れる。私はほぼ全作品読んでますが、頭おかしいし汚いしハチャメチャです。
『葉桜の季節に君を想うということ』恋愛ミステリー?有名ですが。
『限りなく透明に近いブルー』私が" 文学" とはなにかを掴んだ作品
もっともっとオススメしたいのですが、また今度の機会です。
映画:『ファイトクラブ』『メッセージ』『インセプション』『プリディスティネーション』『シティハンター(ジャッキーチェン:字幕Ver)』今回のワークショップのメインではないので思いついた順にタイトルだけ羅列しました。なんか、映画の種類がいわゆる○○○○ですね、、、
落語:上方だと2代目桂枝雀師匠、江戸落語は柳家喬太郎師匠、柳家三三師匠、桃月庵白酒師匠、古今亭菊之丞師匠
G
○フィクションに何を求めているか。
→フィクションに求めているものはフィクションです。
私は元々小説や映画に没入するタイプではありません。どこか、第三者的な立場から本を読み、映像を見るタイプです。つまり、小説も映画もそれ自体を楽しんでいます。ではなにが面白いか。面白い設定、登場人物、セリフ、トリック等、、でもこれってフィクションであろうが、ノンフィクションであろうが関係ないわけです。事実は小説より奇なりなんていいますし。
では、フィクションになにを求めるか→フィクションです。言い方をかえるとフィクション以外のなにも求めていない、もしくは面白さを求めています。
(ノン)フィクションを通じて興奮し、または心の琴線にふれたいわけです。
G
○純文学とは
→これは私の中ではある程度答えがでています。
のどごしのような後読感がある小説です。ビールでいうところののどごしです。
分かりにくいと思います。そうなんです。これは私の感覚なのです。
ではどんな小説に"のどごし" があるか。それは美しい日本語、素敵な日本語で綴られている小説です。
例えば『限りなく透明に近いブルー』、『雪国』、『伊豆の踊り子』、『春琴抄』
とか。
逆に言うと私は太宰治は文学とは思わない。。。これは面白い、面白くないとかとは別の指標です。
なぜ、美しい日本語で綴られていると文学か。
作者は無限にある言葉から選び出して文学作品(物語や詩)をつくります。その言葉によって情景、心情、時間、因果、事象等を表現します。そして、美しい日本語で綴られた作品にふれたとき、私の中に起きる影響は美術作品にふれたそれと同じなのです。これはもはや芸術だと思うのです。これは、別に的確な日本語である必要はないし、ストーリーが面白くある必要もない。テーマも理解もいらない。本一冊が一文であり、作品であると感じる。このような作品を読み終えた後に残るのはのどごしのような感性が開ける感覚です。
もちろん他の芸術作品と同じで、作品の時代背景、作者のバックグラウンド、文壇の状況、日本(現地)の風俗等を知ればより深い理解になるし、違う味わいもできるかもしれないです。でも、必ずしも必要であるわけではない。ただの娯楽ではない。そんなものが純文学であると考えています。
B
@G
純文学を芸術作品として見るという感覚、私も一冊丸々ではありませんが綺麗な「一節」を読むとそれが言葉によって綺麗に織りなされた洗練された織物のように、ある種実体をもつような感覚になる時があります。
文字媒体の作品の場合、「言葉遣い」がGさんの中で強く意識されると思うのですが、その場合読書体験はどのような感じになるのですか?頭の中で「文字」が描かれる感じなのか、その言葉遣いがイメージとなって頭の中で描かれる世界に反映されるのか、どのような感じなのでしょうか?良ければ教えていただきたいです!
G
○テーマについて
→・テーマの有無は?
どんな文芸作品であろうと、作者は『テーマ』をもって(意図せずとも)言語(日本語)で表現します。そこには、その文芸作品の設定、登場人物等でなければならない理由があります。いや、逆もあるかもしれません。その設定等で表現できるテーマが湧き上がるのかもしれません。
その『テーマ』を読み取るには時代背景や作者の生い立ち、思想なんかも必要でしょう。(あれば分かりよくなるぐらいか?)
でも、そのテーマを必ずしも読み取る必要があるのかといえば私は、そうではないと考えます。
作家には様々タイプがいます。読者を置いてきぼりにする作家、ちゃんとヒントを示しながら、誘導しながらテーマを書く欲求を満たす作家、インスタントなテーマで売れる書き方をする作家。勝手に読者が深読みする余白だけを用意する作家。
昨今のようにこれだけ多様な文芸作品がある中、所長が言っていた例を借りると、あえてコップでカレーを飲ませようとする作品もありだと思います。あくたで、あえてね。コップと思っていたものでもミクロ(あるいみマクロ)な視点でみれば器だったりするわけです。
・『テーマ』の伝達に焦点を絞る
文芸作品の普通のコミュニケーションと違う、面白いところは、テーマを発信する側(作者)が『テーマ』を文字に起こした時点で目的は達成しているところだと思います。相手(読者)が『テーマ』について理解しようが、どんな評価を下そうが作品としてはなんら問題ないわけです。作者がもし、読者に『テーマ』を忠実に伝えたければそう書けばいいのです。でもそれは果たして『論文』となにが違うのでしょうか。
・テーマを受け取る準備はあればいいけどやっぱり味わうのが一番
ファッションしかり芸術もそうですが、文芸作品も歴史の創造と破壊そしてリバイバルだとおもいます。知れば知るほど気づきが多くなるが、果たしてそれは本当の『テーマ』なのか、、、楽しんだもの勝ちなのか。
G
○所長のnoteについて
→安部公房と聞いて
うわっ!安部公房きたか!
って思いました。
『箱男』『壁』『密会』『棒になった男』でだいぶヘビーな思いをしたからです。
棒になった男は教科書にも取り上げられてた記憶があります。
所長は"語り得ぬもの" とありますが、わたしは"そこにあるなにか"だと思います。語り得ぬものでもあり(語り得ぬものである場合もあり)、具体的ななにかでもあるとおもうのです。
安部公房は伝統的だからなのかわかりませんが、私は、最先端であると考えます。最先端であると考える理由は、安部公房がポストモダン文学の前衛だからではありません。文学の可能性について広げており、それがいつ読んでもみても有効だからです。後やっぱりセンスがかっこいいと感じるからかもしれません。
G
○人間そっくりは文学か
→いや、SFです。
元々安部公房の多くの作品にはSF臭が漂っていると考えます。
この人間そっくりはそのニオイを強く出しつつ、シュールレアリズム的に安部公房が料理した作品であると思います。
じゃあSFとはなんぞ。まさに少し不思議であります。
これはSFの王道のように感じます。
いや、SFと文学は相容れないものではないか。。。
このままこの本の感想?とともにもう少し掘り下げると、、、
この本は火星人と地球人というアイデンティティ(公理)の不確かさと" ユークリッド幾何学的に考える同じ"とは違う 位相幾何学的な同じを読者にすりこませながら、主人公と同じようにめまぐるしく立場を入れ替えさせて、SFの世界観に引きずり込ませていく作品。
■18
A
私は文学を「物理学が式をツールにして物象の理を表現するように、“文字“というツール・公理を使って己の主張を表現すること」というだいぶ広義なものとして捉えました。そういう意味では文字を主にしたSNSも文学と言っていいのではないでしょうか。私からしてみるとエッセイとtwitterのツイートでの本質的な差はあまりわからないものです。(普段“本”と呼ばれている縦書き左開きの本を一つの文学の形式として新たに名を付けられると区別ができてなおいいのですが…。)
そう言ったことを踏まえると今回の「人間そっくり」では、屁理屈も理屈でありしっかり考えなければならない、というメッセージを不気味さと一緒に受け取ったので僕としては文学と言えます。火星という未知な存在も、主人公の部屋の淀んだ雰囲気も、火星人と名乗る男のやけに生々しい表情、最後の精神病院の無機質な感じも、屁理屈として断材することへのマイナスイメージなのかなと捉えました。
全く関係ないですが、私個人としては「この主人公、頭冷たすぎない?」と思いました。私なんかは、キ○ガイにみえても一貫性を持って理論武装してくる人には敬意を持って意見交換すべきと考えていますので、実際にこの男と話がしたいなという思いとともに読んでいました。皆さんが主人公だったら、やはり主人公と同じような距離を置きますでしょうか?
また、私から最後に皆さんに聞きたいのですが、皆さんにとって純文学の定義とはなんなのでしょうか?やはり古風な格調高いぶんしょうのことを純文学と呼ぶのですか?
■19
C
■安部公房『人間そっくり』は文学なのか?いったい何なのか。
ぐちゃぐちゃと考えながら書いてましたらあほほど長くなってしまいましたので、埋め込みます。(酒を買いに行かねば。腹減った。)
C
■安部公房『人間そっくり』は文学なのか?いったい何なのか。
文学とは自身の中に湧いてくる“語り得ぬナニカ”を自然言語で表現する「書き手」と、自然言語の揺らぎの波を乗り越えて“ナニカ”の輪郭を再現・共感しようと試みる「受け手」の間で行われる一連の営みであると定義してみる。定義上、必然的に文学作品には書き手の伝えたい何かが内在している必要があり、それは通常通信が困難な“語り得ぬ”ものでなければならない。通信の困難性と比例して伴う再現性の低さに「受け手」は高尚さ・取っ付きにくさを抱く。“純文学は敷居が高い”。また、通信の困難性が高いほど、文学としての純度は高まるが、それは同時に「書き手」の抱える苦しみの強さを表しているのかもしれない。文学としての価値が高まるほど「受け手」に届く確度は下がるという構造を抱えている。
では、『人間そっくり』は文学なのか。それを確かめるには『人間そっくり』の中に安部公房の伝えたい“語りえぬモノ”があったのか、裏を返せば受け手としての私がそれを受信したのかどうかを再考する必要がある。以前感想で書いた通り『人間そっくり』は、端的には自分が地球人であるという公理をはがされていくことの恐怖を表現したものであると受け取った。もう一度、安部公房という作家の人生を通してこの作品の意味を再考してみようと思う。
安部公房が生まれたのは1924年(三島由紀夫の1個先輩)で21歳の時に終戦を経験している。東京帝大(医学部!)在籍時、敗戦色が濃厚になり故郷満州に帰郷、そこで終戦を迎えている。その後サイダー売りなど満州での生活苦を経て、日本にて文筆活動を始めている。この敗戦後の満州で過ごした時間が彼に大きな影響を与えていることは想像に難くないが、安易な言葉で予想するのは辞めておいた方が良い気がする。故郷喪失の文学とは故郷満州での体験で得た人生観を形にした文学なのだろうか。もしそこに彼が感じているものがノスタルジーではなく絶望なのだとしたら、『人間そっくり』に繋がるものがある気がする。つまり、故郷という誰にでもある心の帰属先、証明することすら必要のない拠り所、これを破壊された時に抱いた“語りえぬモノ”を表現する手段の一つとして『人間そっくり』があるのだとしたら・・・地球人であるという当たり前のアイデンティティを破壊する行為を通して、彼の故郷喪失で抱いた“語り得ぬナニカ”を表現しようとしたのではないだろうか。但し、この予想は “終戦による価値観の転換”という安直な枠組みに当てはめるものであってはならない、という自戒を伴うものである。
以上を通して、私の結論として『人間そっくり』は安部公房流の文学であると考えた。また同時に“伝えたい何か”が相当に強い故に、文芸としての練度が高すぎて、通信手段としての再現性が小さい作品かもしれないとも感じた。
■20
B
■ラストクエスチョン
少し捻くれて「人間そっくり」が文学でないとするならばという仮定のもとに考えて見ました。(故郷喪失の「文学」と呼ばれているくらいですので恐らく正解は「〇」なのでしょうが)
さて、このワークショップを経て、また最後の「故郷喪失の文学」というヒントを経て、「故郷=心の拠り所=我々が地球人という仮定」といった構造が私にも見えて来ました。(@Cさんありがとうございます。)私たちが抱くこの前提を、この「人間そっくり」が揺るがしたことについては、私の中でも間違いのない事です。
文学を「書き手と読み手の通信」と私は非常に大雑把に捉えましたが、「故郷喪失」というメッセージの通信という観点から、「人間そっくり」は文学であると言えます。
それでもなお、「人間そっくり」を文学でないとするならば、私の定義した「通信」という形式を否定することになります。(通信でないから、文学でない)つまり、通信とは「送信」と「受信」とがセットになったものを指しますが、この作品は「受信」を伴わない一方的な送信行為であるのかもしれないということです。
この作品の目的が「故郷喪失」というイメージの送信でなく、「人間そっくり」をさながらミサイルに見立てた、受け手の「故郷」の破壊(物騒な表現ですが)そのものであるとすれば。それは最早「文学」を超えた何か(何かはわかりません。私の頭の限界です)なんだと感じました。
最後はほぼ妄想垂れ流しですいません。1週間ありがとうございました。
■21
F
20:80の法則(全体の20%に要旨80%が入っていることが多い)でこの本の2割位しか読んでいないので、本の中の具体的な話はできませんが、哲学的な問い、特に形而上学方面の問いを扱っているように思います。「なぜ私は私なのか」を問われて、自分なりの答えをもっていないとぞわぞわと恐怖してしまうような、その感覚の共有を目的にしているかと考えています。芸術の線引きが曖昧ですが、文学とは芸術の1つだと考えているので、この本をビジネス啓発本と同じく人生論の括りに入れています。
しかし、Cさんの話を聞き生い立ちも考えると故郷喪失の感覚やなぜ火星人なのかが理解でき、より広範囲に構えているような感があり、分類はあまり意味がない気もします。
■22
D
あまりにも浅い意見だったので再考ぉして投稿ぉ!
皆さんの意見を参考にしながら、「人間そっくり」が文学なのか?という問いについてダラダラと書いていきます。「やったー今回のワークショップは文学作品だから、簡単に自分の意見が書けるゾ!」なんて考えていたが、答えがない分ずいぶんと時間をかけて考えることになってしまった。頭痛い。
この作品が文学なのかを考える前に、どんな条件を満たしていれば文学とよべるのか? つまり文学の定義について自分なりに考えてみました。ざっくり言うと、「世界観の共有」かなと思いました。考え方としては、@Bさんと多少被るところがあると思います。だから「書き手と読み手の通信」という定義はとても自分の中ではスッと受け入れることができました。それと古郷喪失については@CさんやBさんの考え方が「それだ!」って感じで腑に落ちたので、二人の助け舟に勝手に乗りたいと思います。では、話を本題に戻して…(↓つづく)ぐちゃぐちゃと書いたので読みづらいですが...
D
■「人間そっくり」は文学なのか?
上の定義に沿って考えれば「yes」文学である。 (正直、もっといろんな作品に触れておくべきだったなと思いました。あの作品やらこの作品やらを比較できれば、もう少し違うおもしろい考えが浮かび上がってきたかもしれない。)
一個前の自分の書き込みで「文学はエンタメ~映画やゲームと同じだお~」なんてことを書いておいて、今から手のひらをクルクル回しますが許してください。未熟だったんです。
”文学”は映像を伴わない。文字だけで成り立つ。文章を読むとき、特にこういった物語文では、頭の中でぼんやりと文字が映像に変換される。みんなもそうだよね!!!!
だから世界観の”共有”なんじゃないかと思いました。阿部公房の頭の中の『人間そっくり』は誰にも覗けないが、ある程度似たような世界は創れる。きっと、皆さんそれぞれの「ラジオ局の男」や「火星人名乗る男」が心の中で、物語を読むにつれて形作られていったと思います。ビジュアル的な世界観だけでなく、登場人物たちの頭の中もそうで…
それを全部ひっくるめた世界を考える(筆者の創り出した世界に潜り込もうとする意欲)行為が”文学”である。という結論に至ってしまいました。「動詞じゃねえか!」っていうツッコミ待ってます。
きっと阿部公房の考えるオリジナルの世界観には誰もたどり着けないと思います。そういった誤差が文学をより一層深いものにしているんじゃないかとも思いましたが。だから、文学と映像作品を一緒くたにしてしまった自分が少し未熟だったなと反省しております。
こう考えると、実写版の映画が叩かれるわけがよくわかってきた。みんなそれぞれの「世界観」をもっていて、あまりにも”誤差”が大きいので失望してしまう…自分にそういった経験がないのは、原作の世界観と他者の作った世界観に違和感を感じたことがなかったからかもしれない。
うまい感じで締めることができませんでしたが、大体書きたいことは書けました。 終わり
■23
にしむらもとい
それでは、ワークショップを締めさせていただきます。お疲れ様でした。
※ラストクエスチョン
※この『人間そっくり』という作品ははたして文学なのか。あるいは何を目指しているのか。
最後に僕なりの回答を残しておきます。
にしむらもとい
実は既に上のどこかで述べてますが、僕はこの作品は広義の「SF」だと考えています。先にその話を少しします。「SF」とは何か。サイエンスフィクション、すなわち、空想科学小説ですね。もう少し狭い意味で定義するなら、未だ実現していない「未知」を、科学技術という側面から描いたものがSFかと思います。はたして、この作品の一体どこに科学技術が登場したでしょうか。
そうではないんです。この作品においては、仮説を立てて検証するという科学という「概念」そのものが形式として織り込まれています。科学(について)の小説ではなく科学(であるよう)な小説なんですね。科学を題材として何かを表そうとしているのではなく、科学的手法そのものを小説に不可分に混ぜ込んでいます。少しでも科学要素を伝わりやすくするために「火星人」という道具立てを用いたのかもしれません。別に「未来人」でも良かったし、「死人」でも良かったはずですが。
安倍公房は誰よりも表現の「形式」にこだわった人だと思います。むしろ、形式のみをもって表現となしていたような人です。文学というと、文体や表現そのものの「手触り」ないし「感触」をその特徴と感じる人がほとんどだと思います。そういう観点から見ると、安倍公房は、全く文豪ではないかもしれません。谷崎潤一郎などがその典型に入るでしょうか。この『人間そっくり』においても、文豪らしい感心するような表現など見当たりません。どちらかと言うと「変態的」表現に溢れています。
"半開きのドアの向こうから、シャワーを流す音がしはじめた。女の、変にロマンティックな襟つきのブラウスが、歯医者のドリルのように、ぼくの神経をかき乱す。"
たとえば、こんな表現が出てきますが、およそ「文豪」らしい表現ではないですね。安倍公房は「変態」的表現を好んで使います。それは、頑固にこびりついた日常の真っ平らな形式に強く立ち向かう覚悟であろうとも取れます。
僕は、「文学とは表現者が自ら伝えたいと思う願いに基づいてそのテーマの輪郭を描くものだ」と先に表現しましたが、安倍公房はよりその純度を高めんとして、自分の作品を「何らかのテーマを演算する計算式」とでも考えていたのではないかと思います。確かに、通常の文学のように輪郭のみを表現すれば、読者は今度はその輪郭の中身について主体的に想像力を働かせ始めます。それが文学の作用でしょう。しかし、輪郭からだと情報構造が単純過ぎて再現性が低い。そこをより綿密な「計算式」にしてしまえば、再現性は上がります。ただし、代償として再現される確率、伝達性が下がる。つまり、安倍公房の求める演算が実行できない読者は、彼の演算式の目の前では何もできず立ち尽くすしかなくなります。
これは、文学、文芸だけの問題ではなく、芸術全般の話でもあります。情報構造を単純にすれば再現性は低くなりますが、その再現レベルでの伝達性は高くなります。情報構造を複雑にすればするほど再現性は高くなりますが、伝達性は低くなります。これは情報「量」の問題ではなく「構造」の問題です。だから、短編は単純で長編は複雑というわけでもないんですね。実際、安倍公房の作品は短編の方が、より「わけがわからない」ものが多い笑 表現者からすると、伝えたいことの正確性(再現性)と伝達率を常にトレードオフに判断を下さなければなりません。安倍公房のように、迷いなく正確性のみを追求する(単純な表現の可能性を捨てる)ことを選択できるような潔い人間はなかなかいません。皆、少々正確さを捨ててでも多くに伝わることを望みますし、素朴でさえあれば素朴に伝わると信じています。
安倍公房が、内容ではなく形式あるいは演算式の文学者であることは伝わったかと思います。「故郷喪失の文学」なんて表現もあります。ワークショップ記事中で夏目漱石とも少し比較しましたが、要は歴史的伝統的文化との断絶が強く意識されていて、依って立つ「大地」を持たない根無し草的な資質が感じられるということかと思います。多感な時代を満州で過ごしたことも、当然関係しているでしょう。故郷を持たぬゆえ、何らかの伝統文化に帰属意識を持つこともできず、したがって伝統の形式を素朴に信ずることも叶わなかったわけです。だから形式の「中」で何を表現するかではなく、表現をどんな形式「で」行なうか、その時点から選択を始め直す必要がありました。いまとなっては、あらゆる価値観の多様化により、「故郷喪失」という概念それ自体も故郷となり得る気はしますが、当時はそこには大きな喪失感がともなったのでしょう。僕には安倍公房の作品はとても「痛々しく」感じられます。表現の「形式」という故郷(帰属する文化)を追い求めて「バガボンド(漂流者)」となった彼の心の中の最も「やらかい」場所が、このハードな作品群に見て取れます。もちろん、作品そのものの完成度はとても高くそういう評論もいくらでもできるのですが、「文学とは何か」という視点を持ち込んで見た場合、彼が故郷を追い求めて生きたことこそが、最も彼の文学の本質(形式)を表すのではないかと僕は感じるのです。文学とは、モノ、作品のことではなく、行為、生き方のことだからです。
安倍公房は紛れもなく文学を生きた人でした。しかし、彼の作品全てが、狭い意味でも十分に文学的であるのかというと、正直わからない。特にこの『人間そっくり』は「SF」表現の形式的な可能性を追求した、ある種彼の中で「閉じた」実験作です。これは形式の提示であり内容の表現ではない。ならば、文学よりむしろ数学の証明過程あるいは科学実験に近い。
そんな、ただでさえ馴染みの薄い「文学」のその中でのさらなる「例外」としての安倍公房、その人を通じて文学について考えるワークショップでした。
最後におまけとして二冊。
安倍公房は、正直なところ小説家というよりは劇作家のイメージの方が強い気もします。実際に自ら劇団を主宰していました。小説においても文章そのもののリアリズムよりも演出効果の計算が先に立つタイプかなと思います。が、若い頃の作品には生々しいものもありますので、一つ紹介しておきます。これは、紛れもなく文学です。
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さらに、安倍公房の実母、安倍ヨリミは、若かりし頃になんと驚くべきことに生涯で唯一編だけ小説を書いています。そして、現在も入手可能です。昔「ネタ」として読みましたが、完成度はネタのレベルではありません。息子公房とは全く異なる瑞々しい感性で描かれた人間の愛憎。公房を知ってから、この「誰に読まれることもなかったはず」の無名の名作を読むと、すごく不思議な気持ちになります。興味のある方は読んでみてください。
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