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【保存用ログ】ワークショップ第12回[20200622-0628]『知的複眼思考法』【読書会】

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■1

UMD
おはようございます。
今週はどうぞよろしくお願いします。

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UMD
批判的読書とは後述する読書ではない。自己主張のための論駁は主観を多く取り込んでしまうし、油断すると論点がズレていく。そのため、本読書法と紙一重の攻撃的な読書法、これに陥らないように注意喚起する。

■3

UMD
批判的読書の肝は、論理を丹念に追いながら読んでいくことにあります。本読書法を用いて、まあ学術的な仮説等、特に説得力が異様にある文章(これは多くの人に受け入れられる一因である)、それらを読んでみてほしいのですが、今週は皆全員で同じ文に対しリアクションした方が学びになりますので、後に課題文を掲示したいと思います。例は後述します。その際、段落ごとよりも一文ごとを検討していくと(論理性を徹底的に検討していくと)、ボトムアップ的にまとめられると思います。例えば、以下のような批評を書いてみました。
ミームという語を造った、遺伝子学者であるリチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」の理論は、断言口調の論理展開に伴う極度な一般化がなされている。確かに、自然科学という分野においては、個体差の限りない消去により残った共通するものが重要という前提のもと「個」に対して無原則であることが求められる。しかし、この巧みなレトリックにより矛盾が隠蔽されてしまい、遺伝子の初学者には広く「遺伝子の揺るぎない真実」が流布してしまった。
(後の著書において、筆者は論理展開を反省する旨の自己批判をしている)

UMD
「著者の前提を探り出し、それを疑う」は、複眼思考にとっては重要であります。また、いくら立派に見える主張でも、根拠となる事実が間違っていては台なしです。出されたデータを鵜呑みにしないことも忘れてはなりません(マスコミのあからさまなモノ以外は微妙ですが)。

■4

UMD
要はどう読むか、につきます。何かを知ろうと思って読むのか、それとも自分なりに考えるために読むのか。知識受容型から知識創造型に変わるためには、どうしても考えるための批判的な本の読みかたが重要になってくるのです。

■5

UMD
本書中の例と批評も挙げときます。
例文(一九六六年に書かれた文章であることを踏まえて、今の時代とのずれを考える。どのような前提が変わったのか。どの部分は変わらないのか)  日本とアメリカとを比べて、どちらがストレスやテンションが多いだろうか。アメリカの生活は一見大層気楽で、豊かで、暮らしの苦労はなさそうに見えるけれど、アメリカに暮らして、彼らの生活に深く触れてみればみるほど、実際は、その逆のような気がしはじめてきた。彼らの生活のテンションは、日本のそれよりはるかに高いのではないかと思われる。  だいいち、アメリカには年功序列というものがない。大過なくじっとしていれば、年とともに給料も地位も上がるというようなことは、絶対に期待できない。それどころか、クビがいつとぶかわからない。会社はその人の仕事がその給料に値しないと判断すれば、いとも簡単にクビをきってしまう。逆に、充分の働きがあり、いまよりもっと高い地位と給料で雇ってくれる会社があれば、即座にいまの会社をおさらばして、その良い地位につくこともできる。働きがあれば、自分で自分の地位をあげてゆく方法はいくらでもあるが、反面、働きがなければ明日にも地位を失うかも知れない。それが上位になればなるほど厳しいのである。 (盛田昭夫『学歴無用論』)

UMD
解説  日米の比較は、誰を念頭に置いているのかによって、その意味が違っ てきます。トップマネジャーについて比べているのか、それとも一般のワーカーか。 とくに現場のワーカーを念頭に置いているのだとすれば、この記述には疑問も出てきます。第二に、仕事の面でのストレスやテンションを問題にする場合、仕事から解放された余暇の部分が日本とアメリカとではどの ようになっているのか。それによっても、人間の生活全体としてのストレス やテンションの度合いは異なってくるはず。この点についての記述がないことも、著者の前提を探り出すうえでヒントになります。第三に、「 バブル 崩壊」以降のリストラ時代の現代から見ると、後半の記述のどこが時代遅れ に見えてくるのかも、チェックポイントのひとつです。三〇余年という年月 を経て、盛田氏の認識が、日本の現実とどのようにずれているのか、いまだに合致する部分はどこなのかを考えていくと、六〇年代の「 常識」と現代 の「 常識」の差が見えてくるはず。

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UMD
[課題文]
若い女性の元気ぶりがとりわけ目につくにつれ、男性のふがいなさが気になる。最近、花嫁学校ならぬ花婿学校ができて話題になった。  食生活ひとつとってみても、女の子たちはさまざまな洋食の食べ方を覚え、あちこちの有名店での試食、エスニック料理、果ては本場のヨーロッパ旅行でのグルメ体験という具合に豊富な体験をもつ。それにひきかえ、受験戦争一筋に脇目もふらずやってきた男の子たちは、「いま輝いている」女の子と見合いをしても、うろうろ、まごまごするばかりで、何もかも母親に任せていたマザコンぶりが今さらながら現われて、女の子にすっかり馬鹿にされてしまう。  かくて、花婿学校の誕生となったのだが、これはもう男の子個人の問題というより、社会自体の問題といえそうだ。というわけで、若者論は男女ごちゃまぜ論ではなく、男女異次元の視点に立たねばならぬと思う。  男の子たちは、再びこの世に生まれ出るなら女になって生まれたいと思い、今の日本では、男は責任ばかり背負わされて何もいいことがない、と考えているかのようである。  これはたぶん、日本の社会が産業社会から消費社会へ移行したことと無関係ではないだろう。もちろん、受験競争が男の子の心に大きな影を落としていることは否定できない。しかし、より大きな理由は、産業社会の人材養成から消費社会の人間教育へと学校制度や教育目標が移行しつつあることにある。そのプロセスでの教育が、不十分なせいではないか。  記憶を重視する教育は産業社会に必須のものだが、消費社会では創造性や臨機応変さが求められる。家から学校、学校から塾というパターンの繰り返しでは、創造性や臨機応変さは育つまい。だから、いよいよ見合いをしても、どこのレストランに行けばよいか、彼女の好みは何かの配慮もなく、まるっきり雲をつかむみたいで、ただもう押し黙ってしまう。かくて「もうあきれてものがいえない」と彼女に心底から軽蔑される。これは単に男性と女性の問題ではなく、大きな社会の変化という視点が求められているといわなければならない。

UMD
以下の点を念頭において進めるといいかもしれません。
1.読んだことのすべてをそのまま信じたりはしない。
2.意味不明のところには疑問を感じる。意味が通じた場合でも疑問に感じるところを見つける。  
3.何か抜けているとか、欠けているなと思ったところに出会ったら、繰り返し読み直す。  
4.文章を解釈する場合には、文脈によく照らす。  
5.本についての評価を下す前に、それがどんな種類の本なのかをよく考える。  
6.著者が誰に向かって書いているのかを考える。  
7.著者がどうしてそんなことを書こうと思ったのか、その目的が何かを考える。  
8.著者がその目的を十分果たすことができたかどうかを知ろうとする。  
9.書かれている内容自体に自分が影響されたのか、それとも著者の書くスタイル(文体)に強く影響を受けているのかを見分ける。  
10.議論、論争の部分を分析する。  
11.論争が含まれる場合、反対意見が著者によって完全に否定されているのかどうかを知る。  
12.根拠が薄く支持されない意見や主張がないかを見極める。  
13.ありそうなこと(可能性)にもとづいて論を進めているのか、必ず起きるという保証付きの論拠(必然)にもとづいて論を進めているのかを区別する。  
14.矛盾した情報や一貫していないところがないかを見分ける。  
15.当てになりそうもない理屈にもとづく議論は割り引いて受け取る。  
16.意見や主張と事実との区別、主観的な記述と客観的な記述との区別をする。  
17.使われているデータをそのまま簡単に信じないようにする。
18.メタファー(たとえ)や、熟語や術語、口語表現、流行語・俗語などの利用のしかたに目を向け、理解につとめる。  
19.使われていることばの言外の意味について目を配り、著者が本当にいっていることと、いってはいないが、ある印象を与えていることを区別する。
20.書いていることがらのうちに暗黙のうちに入り込んでいる前提が何かを知ろうとする。

この客観的読解法は生きる上で決して切り離せない「言語」を誤認しないために重要だと考えます。
マッキー
■書かれた時期について
「お見合い」が時代遅れなものとしての断りなく出ていることから少し古い年代のエッセーかと思います。受験戦争からゆとりへ、詰込みから創造へ、との論調も考慮すれば、80年代後半から90年代くらいかなという雰囲気がします。
■書かれた当時と現代のジェンダー感覚差異
(1)教育に対する感覚
「・・・それにひきかえ、受験戦争一筋に脇目もふらずやってきた男の子たちは、・・・」の文章から著者は、受験戦争の担い手から暗黙的に女性を外しています。著者の感覚が当時の中庸的感覚であるのなら、現代と執筆当時は女性の進学と教育についての”常識”が大きく異なっていたんじゃないでしょうか。
(2)男女の役割や関係性に関する感覚
男性はレストランで女性を引っ張らなければならない、という感覚は端的に違和感を感ます。そう思っている人は現代も多いでしょうがそれをエッセーとしてなんのエクスキューズもなく執筆する感性は現代ではもはや古臭いでしょう。
(他)
また、全体的に若年男性への批判が容赦ない。これは女性差別が今よりもまだかなり激しかった30年ほど前の知識人にたまに見られた論法で、男性を過度に批判することで、ジェンダーバランスを取ろうとする潜在意識が存在する場合があります。現代はそれは逆差別として批判されつつあります。誰に対してどこまで批判は許されるか、というものは両者の権力差に依存するという構造を思い起こしました。
■末尾文の根拠
「これは単に男性と女性の問題ではなく、大きな社会の変化という視点が求められているといわなければならない。」
の根拠が明示されていない気がしました。産業時代の教育を受けた男性が消費時代の女性とうまく適応できていない、という前提を背後に感じますがその根拠が示されていないため、あくまで著者の感想に留まるかなと思います。ただ、disりたいのではなく、そうした教育改革の移行期における社会不協和に何かしらの違和感を覚えていたのだなあと感じると同時に、現代の教育批評家と批評構造は類似しており、一種のアナロジーだなあと感じた次第です。
組長
筆者が語っている一般的な若い男性像は、受験戦争に身を投じ、家と学校と塾の往復をして学生時代を過ごしてきた若者を指しており、かなり若者の「上澄み」に限った議論だと思いました。
さらに、家と学校と塾の往復によって創造性が身につかないというのは筆者の私情による受験教育disのように思えます。ゆとり教育だ!と言って現在のような状況になっていることを鑑みても、創造性を育むためにも最低限の知識は必要だと思います。
このような視点がないことからもこの文章が現在の感覚では語れないほど過去の文章であることも感じ取れました。

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