文章にすることについて
字書きってわりと不利だ。と思うことがある。
視覚情報にはどうしても敵わないし、そもそも戦う土俵が違うので比べるもんでもないけれど、小説なんて日本語できりゃ書けるじゃんと思われてそうだ。
実際そうなんだけど、まあそこで技量が出てくる。
私は最速の凡人笑なので早さにだけは自信があるし早いねと褒められることはメチャクチャある。でもそんだけなんだな〜とか考えるとそんなもんかとも思って納得してしまうのが悔しい。
小説の面白いところって、同じ文読んでるのに解釈が100人読んで100人違うところなんですよね。
あとは、私によくあるのはこういう風に伝われ!と思っているのとは全然違う角度から読み取ってもらえるものがあってびっくりする。
そういう面白さもあるから、というのもあるし、単純に私は小説でしか、文字でしか伝えられないから小説を書くしかないのだ。
小説を書くことに取り憑かれているといっても過言ではないだろう。
しんどいことがあるたびに、まだ書いていないものがある、書きたい、が死ねないに繋がる。こんなことを書いたらヘビー過ぎて引かれそうだが、私に残された最後の手段というか、外界に自分の存在を刻みつけるための行為として私は表現することをやめられない。
こうやってnoteにごちゃごちゃ支離滅裂なことを書くのも、自己表現の一環だ。
暗いことを書くとその分人が離れていくか、あるいはさっと読んでくれてもあー病んでるなー笑くらいなんだと思う。それでいい。理解には遠く、ただ残されるものが残るだけだ。
認められるようなもの、数字がつくようなものを好きになって文章に出来れば結果はそれなりだがついてくることも何となく分かってきた。
それをやってもどこか虚しいような、違和感があるのも分かった。書いている時の楽しさには変わりはないが、自分が本当に伝えたいものか?数字ばかりが一人歩きしてないか?と考えると、迷う。
わりと昔よりは数字とかフォローがどうのとか気にしなくなってきたけど、私の意思とか熱意なんてのは他人にとってわりとどうでもいいんだって認識をし始めて、ちょっと虚無って、それからまあいいかと腑に落ちた。そんなもんでいいかー、と思った。
そういう感じの日記でした。
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