私は何も知りませんよ。あなたが知っているんです。【前編】【物語シリーズ 考察】
こんにちは、タツミです。
新年明けまして、おめでとうございます🎍
今年もあっさり6日が過ぎてしまいました。
この記事は今年最初の記事。
せっかくだから、楽しんでもらいたいなと思い、コラムチックな記事を執筆することにしました。
「何でもは知らない。知ってることだけ。」このエピソードは約2年前、Noteを初めて書こうと志した僕が心を込めて書いた最初の記事です。
おかげさまで、物語シリーズのファンを中心にさまざまな方に読んでいただくことができました。
あれから時はたち、僕を取り巻く環境や考え方も大きく変わり。
改めて、かつて心を打たれた名言について考えてみました。
考えを巡らすにつれ、この言葉は単体で存在しうるものではないことに気づき、より深い解釈ができそうだと思ったので、筆をとることにしました。
普段の発信とは少し毛色が異なるとは思いますが、実は僕はマンガやアニメの名言・曲から何か学びを得て、自分の中に取り込むことが大好きです。
学び、というと、おおげさかも。意味づけの方が正しいですかね。
自分の考えていることをしっかり言語化しておきたいなー、と思うので。
もしかしたらシリーズ化するかもしれません(笑
まあ、とりあえずやってみるということで、
楽しんでいきましょ〜〜!
読む前の注意
この記事は物語シリーズ『続・終物語』までのネタバレを含んでいる可能性があります。ネタバレを避けたい方はブラウザバックを推奨いたします。
また、記事の内容上、物語上の固有名詞が登場しますが、物語シリーズを読んだことのない方でも、「こういう発言をした人がいるんだなあ〜」くらいに捉えておいてもらって大丈夫です。
ただ、原作小説を読んだ or アニメを見た後に読むと、より理解が深まると思います。
羽川翼と忍野扇の対称関係
改めて羽川のセリフを見てみます。
以前の記事ではこう解釈していました。
・自分が過去に触れてきたもの
・過去に憧れてきたもの
・過去に調べてきたもの
自分の世界の中で積み重ねたものが「知識」という形で、文字通り「血と肉になって」取り入れられる。結果として得られたものを「知っていること」というのでは、という解釈です。
知識を使って人の役に立つことはできるけど、あくまで知っているのは「自分の知っていること」だけ。
自分の世界で経験したことのないものは知らないし、使えない。
というドライなようで、確かに納得できる言葉だ。
と思っていたのを覚えています。
詳しくは前回の記事にも書いてありますので、そちらもご覧ください!!
一方、作中後半で登場する忍野扇というキャラクターがいます。彼女のよく口にする言葉は。
というもの。
ネタバレになるのですが、実は忍野扇は主人公である、阿良々木暦の自己批判精神が生み出した怪異(=化物)のようなもの。
暦自身が否定したい、みないふりのままでいたい暦自身の姿なのです。
つまりこの言葉は、嫌いな自分が自分に言っているのと同じだと解釈できます。
この言葉と人物の関係から考えると
と考えることができるのではないでしょうか。
少し複雑ですね。
一言でいうと、
「人が救えるのは、あくまで自分自身だけだ。」
ということではないかと僕自身は思っています。
作中でも屈指のイケオジキャラである忍野メメも同じことを言ってました。
僕はこの1年で、ライフコーチングという対話での自己理解を続けているのですが、コーチとの対話の場でも、あくまで話をするだけで、最終的にぶち当たるのは自分がどう感じるか、どうしていくかなんですよね。
僕のコーチは自分で考えて出した答えには同意してはくれます。
でも、答えを提供してくれるわけではないし、それでいいと思っています。
少し乱暴な言い方ですが、知識などを使って他人を助けられたとしても、それは結果論でしかないと思うんです。
最終的には助けられた本人がどう意味づけをして、どう解釈して、どう結論づけるかはどうすることもできないし、知ることはできない。
人間はラジコンじゃないんです。
人との関わりの中で、自分だけではコントロールできない部分は必ず存在するし、する必要はありません。
望んでいる環境も、叶えたい願いも、答えさえも「相手」の中にある。
分からないとしたらそれは、まだ見えていないだけ。
あるいは見ないふりをしているだけ。
つまり、
「私は何も知りませんよ。あなたが知っているんです。」
ということではないかと思うのです。
自分を見て、人を救おうとする羽川翼と、
自分を見て自分を救おうとする忍野扇。
ここまで長々と考察を続けてきて、対称関係が描かれた2つの言葉なんだと改めて思いました。
さらにいうなら、羽川が『猫物語』でたどり着いた一つの答えも『障り猫』という形で別の自分に出会ったのがきっかけでした。
自分が見たくなくて隠していなかった部分
(『苛虎』という怪異として具現化)
を目の当たりにし、傷つき、人に頼りながらも最後には自分で乗り越えた。
黒い自分と白い自分が混じり合った、限りない「グレーの自分」として
生きていこうと決意した。
「ただいま」というセリフに、他人の姿ばかりが目に映っていたけど、自分という存在の元に帰ってきた姿、そして自分のことを新しく知り始めた姿が描かれているのだと僕は感じています。
実際に元々黒染めだった髪の毛の一部も白くなっていますしね。
羽川翼が知らないことは「自分」の中にいつもあったんです。
羽川翼が苦しみ、羽川翼が向き合い、羽川翼が折り合いをつけて解決した。
出来事は羽川翼の中で始まり、終わっているんです。
物語シリーズを貫くテーマの一つ
少し話は変わりますが、上記の2つのセリフ、特に羽川のセリフは「物語シリーズ」のあらゆるところに登場しています。
考察を踏まえて考えると、「自分を知る」「自分と向き合う」というのは、長年続いてきた「物語シリーズ」の根幹を貫く大きなテーマなのではないかと思うのです。
例えば、戦場ケ原 ひたぎは自分の支えきれないプレッシャーを『重し蟹』に背負ってもらおうとして、体重を失いました。
八九寺 真宵は、不運な事故で死んでしまった悲しみや悔しさなどの複雑な感情から、存在を失いながらも『迷い牛』の地縛霊となりました。
その後、『くらやみ』との邂逅を経て、地縛霊の自分とも向き合い、一度は消えるものの、のちに神となります。
神原 駿河は『レイニーデビル』による左腕、そして不本意な形で叶えられた3つの願いと。
撫子は『蛇切縄』による嫉妬の呪いや、押し殺していた自分の感情と。
そのほかにも、蜂、不死鳥など、何らかの形で具現化した怪異ですが、その裏には取り憑いた者のコンプレックスや心の中に封印されていたものの存在がありました。
怪異に向き合うことで自分にも向き合う。
人間的に一つ成長する、あるいは何かを失うことで前に進む。
そんな姿が描かれているように思えるのです。
何百年も生きてきた、忍野 忍 (『キスショット=アセロラオリオン=ハートアンダーブレード』)でさえ、かつて眷属とした、死死累 生死郎(ししるい せいしろう)の自殺という過去に強い罪悪感を感じており、
死闘の末に生死郎を自分の一部として取り込むことになります。
この描写には、今までずっと向き合うことのできなかった過去を、
「それも自分自身なのだ」と折り合いをつけ、苦しみながらも
前に進んでいこうとする、強い葛藤と覚悟を感じます。
フィクションも、ノンフィクションも。
このように、わずか10歳の少女から約600歳の吸血鬼まで、誰しもそれぞれの悩みを持っています。
フィクションの世界だけではありません。
悩みを持っているのはノンフィクションの世界に生きる、僕らも同じです。人が持っている悩みや、自分、自分に起きるあらゆる出来事に向き合い、意味づけることは「生きる」以上、逃げてはいけないものだと僕は思います。
ところが、私たちはよく自分や他人のことを「知っている」気になります。あるいは、「間違えて知っている」ことを知識として思い込んでいる場合もあります。
次はそのことについて考えてみます。
長くなりそうなので、今日はここまでにします。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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新卒フリーランスエンジニアとして独立し、Web制作を行いながら様々な人や考えに出会い、新しい自分に出会っていった僕が、「ささいな日常から学んだ気づきや、ありのままの自分で仕事を作っていく考え方」について発信していきます。
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【簡単な自己紹介】
長野県長野市生まれ -> 立命館大学 -> 新卒フリーランス。
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ゲームと、唐揚げ、物語に触れることが趣味。
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