勝手に感情を強制するなって思った話
こんにちは、タツミです。
皆さんは「感動ポルノ」という言葉を聞いたことがありますか?
パッと見た印象だと、「ポルノ」という言葉遣いに性的なものを感じるかもしれませんが、そのような意図は全くありません。
「感動ポルノ」という言葉は障害者のアクティヴィニストとして社会貢献をし続けて来たステラヤング氏(故人)がオーストラリアのウェブマガジンである「Ramp Up」で初めて用いた造語らしいです。
意味としては
を指します。
有名なものとしては24時間テレビですね。
あなたは24時間テレビにどのような印象を持っているでしょうか?
人それぞれ感じることが違うし、それで全然いいのですが、
いわゆるこれが「感動ポルノ」と呼ばれる考え方にあたります。
そして、あまり肯定的な意味として捉えられはしません。
え?これって何がいけないの?って思ったかもしれません。
24時間テレビを最初にみた僕も正直同じことを思っていました。
と言っても当時は純粋な子供だったので、障害者がーーーというよりは、出演者に興味があったり、マラソンをしている欽ちゃんを応援したかったりという動機の方が強かった気がするのですが。。
ずっとこんな考えで楽しめていればよかったのですが、悲しいかな。成長して学ぶことで見えている世界も変わって来ました。
ともあれ、一見素晴らしいと思える24時間テレビから始めて感動ポルノ、ひいては個人の属性の話まで深掘りたいと思います。
頑張らなければダメなのか?
24時間テレビでは、しつこいくらいに、「頑張り」「挑戦」が誇張されていました。障害者が何かを頑張って成果を出すことがこれでもかというくらいに褒め称えられていたんです。
いや、頑張ることや挑戦自体はいいことだと思うし、その結果成果が出ることは素晴らしいと思いますよ。本人の努力で勝ち得たものですから。
でも、「障害者が」って枕詞は必要ですか?
この枕詞には以下のような意図が隠れていると思います。
もちろんこの言葉を使っている全ての人がそう思っているとは感じていませんが、わざわざ「障害者が」という言葉遣いをすることに意図を感じるんです。
障害者に「かわいそうだけど、頑張っている姿は素晴らしい!」というレッテルを貼って、感動を生み出すことを強制的に期待させているような・・・
強制力を強く感じます。
このように、24時間テレビは「障害者」を「感動を生み出す対象」として意図的に挑戦ストーリーに組み込んでいるのではないか、という点で感動ポルノなのではないか?と言われて来ました。
理性を全く無視し、障害者を矢面に立てて、「共感」を呼び起こす一種の道具のようにする。
考えすぎですかね?
言葉にこだわり持ちすぎですかね?
僕はそうは思いません。
何しろ、
僕自身も障害者で、この課題については何度も考えて来たからです。
もし、障害者であることを打ち明けていたら・・・
僕は先天性小腸閉鎖症という病気で、生まれつき小腸の一部が腐っていました。
ものすごく小さい頃だったので、全く記憶がありませんが、当時両親は、初めての子供が死んでしまうんではないかとものすごく不安だったそうです。
おかげさまで、手術は成功し、18年ほどの経過観察を経て僕はほとんど治療のいらない体になりました。弊害と言えば、腸が弱いので少し食べるのが遅いくらい。本当によかった。
だから、今自分が生きていること、健常者と同じように暮らせていることにものすごく感謝しています。
そんな僕ですが、障害者であることを打ち明けていたのは、親友と呼べる人1人だけでした。
なぜかというと、障害者ということを打ち明けることで「特別扱い」されることが嫌だったからです。
勝手に、僕という人間が侵食されていく感覚。
周囲の人が勝手に僕を作り上げていくのが容易に想像できました。
考えてみてください。
クラスの前に魔女裁判のように立たされて、こう言われる瞬間を。
障害者というレッテルが貼られた瞬間にそれが呪いのように体にまとわりついてくるのが気持ち悪い。
障害者というのは僕の属性の一つであるだけなのに・・・
それが全てであるかのように扱われるのが怖い・・・
そう感じました。
障害者であることを公表することで「ありのままの自分」を見てもらえなくなるくらいなら、この事実は隠しておこう・・・
心のどこかに鍵をかけてしまった瞬間です。
インタビューで子供の性格を強制する親や近所
もう少し、例を挙げさせてください。
「うちの子供はこんなに素直な子だったのに・・・」
「真面目で大人しい子だと思っていた」
な〜んてセリフ、聞いたことありませんか?
あれも一種の感情の強制というか、「共感」してもらうという意図が含まれているような気がしてなりません。
こう感じるんです。
私たちは、どうやっても他人を100%理解することなんてできません。
だから、たった一面だけを見て、その人に付与された(かに見える)属性で勝手に期待してもあんまり意味ないはずです。
他人を思考で縛ることはできない。思考し、行動するのは本人でしかないんですよね。
重要なのは「意識すること」。
ここまで読んでくださった人に伝えたいことは、決して「人に期待するな」とか、「偏見を持つな」ということではありません。
ていうか、それはそもそもほとんど不可能です。
重要なのは意識。
自分がある種「強制力」のようなものに引っ張られていることを感じ取ることができれば、「偏見」を持つことはあっても、それだけで人やものを判断することはだいぶ少なくなるはず。
感性で物事に触れ感情を生み出すことも大切な一方で、冷静な理性で判断を重ねていくことでもっと個人が大切にされるワクワクした社会がつくらると思うんです。
自分もライターとして言葉に携わることがあるので、言葉で相手を縛ることがないように充分気をつけたいと強く思います。
最後に
思いの丈を語っていたら3000文字近くになってしまいました。
ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。
勝手に期待することで、期待された人の一部は「自分の『ありのまま』」を出す気力がだんだん削られていきます。
「期待した」人はそんな姿を見て、「あんなに期待したのになあ・・・」とがっかりすることでしょう。本当は勝手に期待しただけなのに。
自分はこんな思いをする人を少しでも減らしていこうと本気で思っています。
「きっかけ」はなんでもいいので、自分や自分の活動を通して何か一つでも「あなたらしさ」を取り戻す出来事につながってほしい。
そう心から願っています。
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長野県長野市生まれ -> 立命館大学 -> 新卒フリーランス。
普通であれなかった、とある人間です。
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