「読んでいない本について堂々と語る方法」レビュー
過去記事を漁っていたら、おっと、懐かしいのが出てきた。
読書レビューをやっているのなら、これは絶対に外せない一冊です。
タイトルは結構おちょくった感じにも感じますが、実態はそんなにふざけた内容ではなくて、かなり真面目な本です。
著者のピエール・バイヤール氏は大学で文学を教える教授なんですが、なにせ本人が「読書嫌い」という、じゃぁなんでそんな仕事を選んだんだよ!とツッコミたくなるんですが、ともかく、仕事柄、読んでない本についても語るっていうか、本職だとしても世界に全部ある本なんて読めるわけないじゃん!的な開き直りから、如何に「本を読まずに本を語る」ということを詭弁くさい文章を交えながら話を進めていきます。
そんななかで、読書という行為について、読書を通じて考えるというメタなことを考えます。
まずもって「そもそも読書という行為が高尚と言えるのか?」
なるほど、考えて見れば、このタイトルの書を手に取る人を想定して考えると、内心を見透かされたような気がする、どきっとする質問です。
読書を高尚と考え、かつ、たくさん本を読んでいると見られることがプラス評価になると考える人が、思わず手に取りたくなるタイトルですものね。かなり鋭い質問です。
こういった切り口から、読書という行為についてメタに考えることができる。一つの本を選ぶということは、同じ時間別の読む機会のあった本を捨てることになるわけで、読書をすることは、同じだけ読めない本も増えるという二律背反した内容から、読んだけど内容を吟味出来ていない本もあれば、読んでいないけれど内容は知っている本だと、どちらが「読んだ」ことになるのか?などなど、フランス人らしい(←偏見)ネチネチネチネチした質問がダラダラと続くのですが、読書が好きな人は、やはり色々考えます。
実際のところ、詭弁でもなんでもなく「読んだことのない本について語る」ってのは、場面によってやっていることは多いんですよね。
日本人にとって、聖書(新約聖書)は、全部読破したって人は少ないと思っているのですが(あれ?もしかしてみんな読破済み?)ところが、聖書が西洋の文明を作り、絵画や音楽のモチーフとなっていることは、みんななんとなく知っている、そいうのはあると思うんですよね。
日本の仏教経典も全部読んだことなくても、般若心経がありがたい書物?であったり。また私のようにベストセラーは基本読まない人でも、一時期席巻した「もしドラ」であったり、ニーチェ好きからは蛇蝎のごとく嫌われた「超訳ニーチェ」なんてものも、読んでないけれど語ることはできる。意外にできたりするんですよね。
・・・とここまで書いたところで、すごく重大なことを書かないといけないのですが、私この本を実は半分ほど読んでいなかったりしますが、この本のレビューそのものについて「読んでない本について堂々と語る手法」が適用されているのではないか?と思うくらいに、面白そうなレビューが並んでいるので、どんどん疑心暗鬼に陥ると同時に、本は最後まで読めなくてもいいや、とか、読まない本があってそれについて語っても、嘘ではないわな、とか、ともかく色々考えさせられる本でありました。