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屏風のトラと、お笑いハラスメント

「関西人?面白いことをやってみて」
・・と言われたことはないのですが、そういう無茶振りをする、みたいなのは、なんかネットで見かけたことがあるので、ちょっと考えてみます。
最近色々あって、こっちでネタみたいなのを書いていないし。

そもそもの話ですが、芸人でもない関西人といえども「面白いこと」なんてのは普通はできないと思うんですよね。では、関西人=面白いと思われるとするとしたら、それは何故か。

面白いこと、ってのは、例えば、空気や雰囲気といった「流れ」の中で生じるものと思うのですよね。
その昔、桂枝雀師匠は、自らの命を断つほどに追求した「お笑い」の理論として、一つの完成形「緊張の緩和」というのがあります。
要するに、緊張しきった空気が緩む瞬間に笑いは生じやすい。これをわかりやすい形で提示していたのが、年末の「笑ってはいけない」シリーズじゃないかと思います。笑ってはいけない状況を作れば作るほど、そこからはちょっと突っ突くだけで、笑いは生じやすいわけです。

関西人=面白い、と言われるとしたら、その「状況」を鋭く見つけだす「嗅覚の鋭さ」をであって「そういう状況を作りあげる」というのとは違うと思います。
関西に住む人には、その「状況を見つけ出す」嗅覚が鋭い。それは磨き上げたものか気質かはわかりませんが、これは、日本の中ではレベルが高い。それは確かだと思います。
もちろん、それ以上に「状況そのものを作り出す能力に」長けた人もいて、それを磨き上げた人が芸人になれたりするわけですね。
ただ、どんな優れた芸人でも落語家でも、出囃子もナシになにかやれ、と言われると辛いよなーと思ったり。

このあたりのことを話をするのに、一休さんの頓知話に出てくる、屏風のトラを仕留める話を喩えに考えてみたことがあります。
この話は、頓知に感心するより、坊主が小生意気なことを言いやがって・・じゃなくて、要は「トラを狩ってほしければ、狩れる状況にするのは、トラを狩るところを見たい側の義務である」と考えてみたんですね。
なので、面白いことをしてほしければ、面白い空気を作るのは、見る側の義務だ、と。

なので、無茶ぶりのお笑い強要のギャグハラスメント的なものには、屏風のトラを話をして逃げるのがいいのかな、とか考えてみたりするんですね。

もっとも、なんの前触れもないところで「おい、関西人、面白いことやれ」というような奴が、この話を理解するとも思えんなーという風に思ったり。

そういうのは「野暮」と呼んだりするんですけどね。

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