その心配は誰のため? 八割がた、自分のため
子育て中に苦しくなった時、よく自分に投げかけていた「じゃあ、自分はどうだったのさ?」という問いのことを前回書いたのですが、そういう言葉があと二つあります。
一つは「その心配は誰のため?」という問いです。
母親というのは常に心配しています。しかも私はもともと心配性で慎重派。それが子供のこととなれば、もうあきれるくらい細かいことまで気になります。
小さい頃ならまだしも、中学生になっても「昨日授業で○○使うって言ってたけど、ちゃんと持ってたかな?」「雨降る予報なのに、傘持っていったのかな?」「部活で○○君と行き違いがあったみたいだけど、大丈夫かな?」
……今思うと、あなたの方が大丈夫ですか?という程の心配ぶり。
高校生になってからも「○○の提出期限って言ってたけど、ちゃんと出したのかな?」「昨日ちょっと調子が悪そうだったけど、体育で無理してないかな?」的な些末なことから、「今さら文転とかいって、大丈夫なのかな?」という進路の問題まで。
今書くと怖い。でも、問題は心配の細かさより、その心配を結局は子供にぶつけてしまうことだと思います。自分の中でかかえておけなくて。
「○○は持ったの?」
「○○は用意したの?」
「そんなこと言ってて大丈夫なの?」
放っておくと、そうやってつい口に出してしまいます。
そこで、「その心配は誰のため?」
心配に取りつかれたとき、そう自分に問うていました。毎回は無理でも、何度かに一度は。
その心配は誰のため? と問うと、たいていは自分のためなのです。
自分が安心したいために、子供にちゃんとしてほしいって思ってる。
・子供が忘れ物する→先生に怒られたり、授業に参加できなかったりする我が子を想像して、自分がやきもきするのがいや
・子供が傘を持たず雨に濡れる→風邪ひいたり熱を出したりするんじゃないかと想像して、自分がやきもきするのがつらい
・子供が友人とうまくいかないらしい→こじれていじめとか深刻な事態になるんじゃないかと想像して、自分がやきもきするのが苦しい
だから安心したい、と思ってしまうのです。当然のことです。
でも、それって自分の勝手な想像の結果であることも多い。
母親はみんなわかってます。「子供は失敗させたほうがいい」とか、「本当に困れば次から自分でやれるようになる」とか、「自分で経験させないと成長しない」とか、そういうの、耳にタコができるほど聞いてきています。
それでも難しい。だから何度かに一度でも、「その心配は誰のためにしてるんだっけ?」と自分に聞いてみる。
で、「ああ、私が安心したいんだな」と思ったら、とりあえず自分の胸におさめておく。
私もいまだに実行中です。よろしかったらお試しください。